あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいします。
- 作者: 三浦佑之,赤坂憲雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/01/01
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
『遠野物語』は、ものすごくゆたかで鮮やかな世界を秘めている。河童の子を産む女に、馬と恋に落ちた女、狼との死闘、神隠し、座敷わらし、山男、臨死体験、姥捨て…。不思議な物語を読み解き、そのおもしろさの秘密に迫る。
けっこう前に、書店で『遠野物語』関連の本が並んでいたので、どうしたんだろう?と思っていたのですが、2014年6月にEテレの「100分de名著」で、採り上げられていたんですね。
柳田国男、『遠野物語』の名前と、それが日本の民俗学に大きな影響を与えたことはよく知られていますが、実際に『遠野物語』をきちんと読んだことがある、という人は、そんなにいないはずです。
恥ずかしながら、僕も、「じゃあ、『遠野物語』って、どんな話なの?」って聞かれたら、うまく答える自信がありません。
そこで、並んでいた本のなかで、薄くていちばん読みやすそうな、この新書を手にとってみたのです。
この新書、『遠野物語』の内容を、詳しく紹介したものではありません。
遠野、という土地柄から、柳田国男がこの地の伝承を集めた背景、そして、収録されている物語のなかで、印象的なものが抜粋されています。
僕のイメージでは、「遠野」って、山奥の閉鎖的な田舎、だったのですが、この新書を読んでみると、けっこう「開けた土地」であったことがわかります。
矛盾する言い方に聞こえるかもしれませんが、遠野というところは、山々に囲まれ閉じ込められた盆地の集落であるとともに、外に開かれた中継地であり、交易の中心地でもあったのです。第一話にある「山奥には珍しき繁華の地なり」という柳田の驚きは、遠野という土地がいかなる性格を持っていたか、『遠野物語』に収められた伝承群が遺されたのはなぜか、ということを考える上で、見逃すことのできない発言です。
第二話の冒頭には、「遠野の町は南北の川の落合にあり、以前は「七七十里」とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物を集め、その市の日は馬千匹、人千人の賑わしさなりき」と記されていますが、こうしたにぎわいこそが、遠野地方に伝わる伝承群をはぐくむ母胎になったのです。
昔話や伝説などのお話は、村の中だけで語り継がれていると考える人が多いのですが、狭い範囲で閉じられた世界の中では、伝承は育ちません。その点、遠野は山深い盆地の中の集落でありながら、城下町として古くから開けたところでした。そのために、にぎやかな市が立ち、たくさんの人や物が行き交う中継地となり、さまざまな話が流通し蓄えられていったのです。
本当に「閉ざされた土地」では、「物語」は育たないのです。
「遠野」は、まさに「ちょうどいい場所」であり、だからこそ、ここに物語が集まったのは「必然」だったのです。
河童の子供を産んだ女性、狼と勇士との壮絶な闘い、神隠し、座敷わらし、姥捨て……
『遠野物語』には、日本の物語の類型が揃っているのです。
そして、その内容を読んでいると、ガルシア=マルケスのマジックリアリズムの世界を思い出します。
ああ、ああいう世界は、ラテンアメリカだけのものじゃないんだよなあ、と。
そして、この新書を読んでいると「物語の構造」みたいなものについて、けっこう考えさせれるんですよね。
マヨイガに行って祝福された妻の話と、何も手に入れることができなかった婿の話とを並べているところに、『遠野物語』という作品の絶妙なバランス感覚を読みとることができます。これは、柳田国男がそのように配列したのか、語り手であった佐々木喜善が語った順番なのか、たしかめるすべはありません。ただ、毛筆本でも同じ並べ方になっているところをみると、喜善の語った順序を変えていないのではないかと想像することはできます。そして、それは十分に納得できることでもあります。
というのは、第六三話と第六四話との並列は、民間伝承として語られている昔話の構造を思い起こされるからです。たとえば、昔話『ねずみ浄土』で、地下にあるネズミの世界に出かけて祝福されたじいさんと、その真似をして失敗する欲張りなじいさんとを並べて語るのを思い出してください。はじめに、成功するやさしいじいさんがいて、それがうらやましくてならないじいさんが次に登場します。
隣のじい譚と呼ばれる昔話では、どの話もそのような順序で語られます。昔話の研究者は、やさしい心を養うためにこうした語り方をとっているのだと言います。しかし、もし、やさしい心根の人になりなさいという教訓を語りたいなら、はじめに欲をこいて失敗するじいさんを語り、その次にやさしいじいさんを登場させたほうが効果的だと思えるのに、この種の昔話では、かならず意地悪じいさんがあとから出てきて、やさしさや善良さをすべてぶち壊してしまうのです。それはまるで、異界からの祝福なんて夢のまた夢だよとニヒルに笑いとばしているように読めてしまいます。
おそらくこの構造は、人の心根や欲望を主題にして何かを語ろうとしたとき、避けることのできない展開として引き出されてしまうのではないでしょうか。そして、どちらかと言えば、まったく欲望をもたない神さまか仏さまのような人間よりも、何とかして今の貧しさから這いあがりたいと思ってもがいたり、いささかの欲を出して膳椀をもらってしまおうとか、ネズミの小判をそっくりいただいてしまおうと考えたりする者のほうに、リアリティがあるということではないかとわたしには思えるのです。
僕はここ数年、息子に絵本を読みつづけてきたのですが、『おむすびころりん』にしても、『花咲か爺さん』にしても、たしかにこの「最初に善良な人が出てきて、オチに欲張りが大失敗」という流れなんですよね。
たしかに、「教訓目的」であるならば、この順番は逆のほうが、理にかなっているような気がします。
うーむ、どちらかというと、読者は「意地悪な人が、痛烈な仕打ちを受けるところ」のほうを、楽しみにしているのかもしれないなあ。
これを読むまで、その「順番の意味」を、考えたことはなかったけれど、そういう見方もできるのか。
そして、『遠野物語』のなかには、いわば生と死をめぐる民俗の語りが、それゆえに民俗の知が豊かに沈められています。そこに見え隠れしている死生観は、けっして体系的なものではありません。言葉以前の、無意識のレヴェルに留まっています。しかし、人びとが生まれること/死ぬことをめぐって紡ぎ出していたイメージは、きわめて鮮明なものであり、揺るぎのないものでした。
たとえば、第九九話はとても哀切な幽霊譚といえるものです。海辺の村に婿に行った男が大海嘯(つなみ)に遭って、妻と子どもを失い、生き残った二人の子どもとともに、元の屋敷地に小屋を掛けていました。一年ほどが過ぎた、夏のはじめの月夜に、男は便所に起きて、霧のなかより、男と女が近づいてくるのを見つけたのです。女はまさしく亡くなった妻でした。そのあとをはるばると追いかけて、ついに名を呼ぶと、女は振り返ってにこりと笑います。男のほうは、やはり海嘯で死んだ、以前に妻と深く心を通わせていたと聞いていた男でした。女が「いまはこの人と夫婦になっている」と言うので、「子どもはかわいくないのか」と問いかけると、女はすこしだけ顔の色を変えて泣きました。死んだ人と言葉を交わしているとも思われず、悲しく情けなく足元を見ていると、男と女は足早に立ち去って、山陰に見えなくなります。追いかけてはみたが、ふと相手がすでに死んだ者であることに気づくのです。その後、久しくわずらった、と語られています。
幻想小説のひと齣を読んでいるような味わいがあります。しかし、創作ではありません。ここには鮮やかなまでに、およそ百年前の、遠野地方に生きられてあった、魂のゆくえや死後の世界にかかわるイメージや観が物語りされています。そのように、人びとは死というものを体験していたのです。このとき、幽霊もまた実在でありました。
幻想的であるのと同時に、妻に死なれてしまい、子どもと起こされた男の立場でみると、せつない話ですよね、これは。
ハッピーエンドでもなく、過剰に「ドラマチック」なやりとりがなされるわけでもなく……
思えば、それは明治のおわりに、たった三百五十部、しかも自費出版のかたちで、ひっそりと世に姿を現したのです。おそらくは、作者の柳田国男自身を含めて、同時代の誰ひとりとして、その小さな書物が百年の歳月を生き延びて、これほどに多くの読者を獲得することになるとは、思いも寄らなかったことでしょう。
『遠野物語』をよく知っている人にとっては、コストパフォーマンスに劣る本じゃないかとは思うんですよ。
全体のボリュームも少ないし。
でも、僕のように「とりあえず、『遠野物語』の世界を覗いてみたい、ちょっと知ったかぶりしてみたい」という読者が手に取る最初の一冊としては、このくらいシンプルで、いや、このくらいシンプルなほうが良いのではないでしょうか。
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