Kindle版もあります。
さあ、新しい場所へ!
パンデミック下、日本に長期滞在することになった「旅する漫画家」ヤマザキマリ。思いがけなく移動の自由を奪われた日々の中で思索を重ね、様々な気づきや発見があった。「日本らしさ」とは何か? 倫理の異なる集団同士の争いを回避するためには? そして私たちは、この先行き不透明な世界をどう生きていけば良いのか? 自分の頭で考えるための知恵とユーモアがつまった1冊。たちどまったままではいられない。新たな歩みを始めよう!
新型コロナウイルスのパンデミック(人獣共通感染症(伝染病)の世界的な大流行)がはじまって、3年近くが経とうとしています。
世界保健機構(WHO)がパンデミックの認定を発表したのは2020年3月11日でした。
以前の生活に戻る、というか、「以前の生活」って、どんな感じだったっけ……?と思い出すのが難しくなってきているのです。
新型コロナウイルスに関しては、ワクチン接種の普及もあり、「恐怖感」は薄れてきているのですが、医療従事者としては、「ちょっとみんな油断しすぎなんじゃない?」とも思うのです。
とはいえ、まだ「マスクをせずに外出している人」を見かけると「えっ?ちょっと変わった人?」と気になってしまいますし、エレベーターにマスクなしで人が乗ってくると、微妙な空気にもなるんですよね。
ローマ帝国の「風呂」を舞台にした『テルマエ・ロマエ』で広く世に知られるようになった、著者のヤマザキマリさんは、新型コロナ前までは、日本とイタリアを往復する生活を長い間続けておられました。
仕事場のある日本と、夫とその家族が住むイタリアを頻繁に行き来する生活を何年も続けていて、日本に2週間でも留まっていると、視野や価値観が狭窄的になってくるような危機感に見舞われ、どこかそわそわと落ち着かなくなってくる。それほど、”移動”というものが私には当たり前のものになっていました。
インタビュー取材の依頼などが、海外に長く暮らし、異文化での経験が豊富なことを前提にしたものであったりと、周囲からの認識も「旅する漫画家」というイメージがある程度できあがっていたように思います。
そんな私が、イタリアの家族と離れて東京の自宅に留まることを選び、同時代を生きる多くの人々と同様に、急遽、たちどまることを余儀なくされた。このパンデミックによって移動の自由を奪われ、それが創作を職業としている自分にどんなダメージとなって顕れてくるのか、焦りと不安のようなものをしばらく抱えることになりました。
そんな不安もあったというヤマザキさんなのですが、「実際には、たちどまることで得たものが非常に多くあった」そうです。
僕自身は、もともとインドア人間なので、「飲み会とか学会で遠出とかが無くなって、お金も使わないし気を遣う場面も減ったし、自分にとってはけっこう生きやすいな」と感じていたのですが(それでも、なんとなく「閉塞感」みたいなものも感じてはいます)、ヤマザキさんのような「つねに動いていないと、生きている気がしないような人」は、こんなパンデミックで制限だらけの世界をどう生きてきたのだろう、とは思うのです。
昨年(2021年)、東京でオリンピックが開催された夏、時を同じくしてイタリアから夫が来日しました。
「よりにもよってオリンピックの最中に来るのは、どうかやめてほしい。風評被害などを考慮すると、人前で会うこともできないし、私も忙しいから」
そう言って反対したのですが、彼はまずもって「風評被害」というものを理解できません。前提となる説明から始めなければならないのは、国際結婚をした者にとっての常でもあります。
「あなたはワクチンを2回接種したから動いていいと思っていても、日本では風評被害がひどい。発症していなくても、コロナウイルスの陽性になったというだけで自殺した人がいるような国なんですよ。ましてや今、このオリンピックが強行されることに多くの人が反発を感じている。来日する外国人への偏見も発生していて、外国からウイルスをもち込んで、ばら撒くんじゃないかと思っているような人すらいるんです。そんなところに、あなたがうちのマンションに出入りして、『ヤマザキさん、こんな時期なのに旦那さんがオリンピックを見に来たんだ』なんてことを思われたら、私にとって大いによろしくありません。日本に来るんなら、今じゃない時期にしたらいいじゃないの」
それでもなお私の懸念に納得できない夫は、私がマンションのほかの住人にしっかり事情を説明すればいいなどと反論し、教員である自分はこの時期しか夏休みがとれないのだからと譲りません。
「僕たちは家族なんだから、周辺の人が何を思うかなんて関係ない。僕はとにかく家族への誠心誠意を見せるために、日本へ行くよ」
そういって、ベッピは有無を言わさず日本にやって来たのです。入国後の7日間をホテルで隔離されたのち、夫には私の家の近くのマンスリーマンションに滞在してもらうようにしました。
家族でも、それぞれが自立していて、大義名分があれば、無理に会わなくてもいいや、っていう感じなのかもしれません。
コロナの影響で、配偶者がずっと家にいるのが苦痛、なんて話もよく耳にしましたし、人と人との距離感というのは難しい。
昔はべったりだったのが、時間とともに離れていたほうがラクになることもあるでしょうし。
これを読んでいて、僕は「日本人って、お上が言うことや『公共のため、という大義名分』に従順な国民なのかもしれないなあ」と、あらためて思ったのです。
新型コロナ禍のなかで、たくさんの患者さんが亡くなりました。
面会がほとんどできなくなったり、感染者が亡くなった場合には、死に目にすら会えなかったり、という時期もかなりあったのです。
「なんで最期にひと目くらい会わせてくれないんだ!」と怒鳴り込んでくる人が少なからずいるのではないか、と思っていたのですが、実際は、僕の職場では大きなトラブルもなく、その「決まりごと」に抗議をする人もいなかったのです。
もちろん、そういう家族・身内も日本全体でみれば少なからずいたのかもしれませんが、人というのは、環境や状況の変化、「みんなが受け入れている」ということであれば、案外、それまでは「ありえなかったはずのこと」にも適応してしまうものだな、と感じたのです。
しかしながら、このヤマザキさんの夫の話を読んで、「公共の福祉」が「家族への忠誠」より重視される社会というのは、けっして世界共通のものではないと思い知らされたのです。
ヤマザキマリさんに対しては、正直、なんか自己主張が強くてめんどくさそうな人だなあ、と思うところもあるのです。
それでも、この本を読んでいると、ヤマザキさんはさまざまなアートや文学・哲学に接して、自分をつくりあげてきた教養人だということも伝わってきます。
古典の言葉がいかに今にも通じるものであるか。私が手元に控えている言葉をご紹介したいと思います。いずれも古代ギリシャの哲人、アリストテレスの言葉として伝わっているものです。
「自己とは自分にとって最良の友人である」
14歳でヨーロッパに一人旅に行ったときに、実感を得た言葉です。
「板垣は相手がつくっているのではなく、自分がつくっている」
つらいことにぶつかったときなどに、思い出しています。
「大事を成しうる者は、小事も成しうる」
尊敬する人は皆、このような側面をもっています。
「若者は簡単に騙される、なぜならすぐに信じるからだ」
「信じる」ということは、一種の怠惰の表れだと私は考えています。
「世間が必要としているものと、あなたの才能が交わっているところに天職がある」
表現を生業としている立場として、常々考えている言葉です。
「自然には何の無駄もない」
この世界の真意ですね。
山下達郎さんが、かつて担当しているラジオ番組で「なぜ過去にはいい音楽ばかりで、今はそうではないのでしょうか」というリスナーからの質問に対し「過去にはいい音楽ばかりがあったわけではない。いい音楽だから残っているだけです」という答えを返されていました。その山下さんの言葉は、ここに挙げたアリストテレスの格言も含め、いかなる文化にも通用することでしょう。
そして、引き継がれる遺伝子の精神の糧となるものとして、どのような事柄がこれから残されていくのかは、今後この地球に現れる人類が決めることでしかないのです。
村上春樹さんの大ベストセラー『ノルウェイの森』に出てくる「死後30年を経ていない作家の本は読まない」という永沢さんのことを思い出しました。そんな永沢さんの人生は(フィクションの人物ではあるけれど)「幸福」だったのだろうか。幸福とか不幸とかじゃなくて、大概の人は「そういうふうにしか生きられない、自分の人生を生きている」のではないか、とも今の僕は思うのですが。
ヤマザキさんの真似はできないけれど、世の中には、こんな生き方をしている人がいる、というのは、なんだか心強い気がします。