琥珀色の戯言

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【読書感想】1978年のまんが虫 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

漫画家への道を決めた、あの運命の一年。

Gu-Guガンモ』『さすがの猿飛』『ギャラリーフェイク』の
細野不二彦が初めて描いた、
若き日の親友、家族、恩人、そして自分自身。

1978年、東京の有名私立大学に通う、細納(サイノ)青年と仲間たち。
彼らは、のちに漫画家やアニメーターとして大活躍する才能の持ち主だが、
その頃はただ、マニアックな学生生活を謳歌する若者たちだった。
時代は日本のサブカルチャーが勃興する70年代後半。
アルコール依存症の父、障がいを持つ弟、複雑な家庭環境の中、
細納青年は、悩み迷いながらも、自ら漫画家の道を歩き始める。


 細野不二彦さんが「マンガ家として生きていくターニングポイントになった年」である、1978年の自分自身と周囲の人々について描いた作品です。
 こういう、「マンガ家の自伝マンガ、あるいは自伝小説・ノンフィクション」はこの10年くらい、かなり増えてきている印象があり、僕も、かなりの数を読んできました。
 もう「古典」と言っても良いであろう、藤子不二雄先生の『まんが道』は、手塚治虫先生が切り開いた「マンガ家」という仕事、あるいは「神様」手塚治虫に憧れた2人の学生が、さまざまな経験を積みながら人気マンが家になっていく、という話でした。
 


 藤子不二雄のお二人は、1933年、34年の生まれで、デビューは1951年。
 細野不二彦先生は、1959年の生まれで、デビューが1979年ですから、ほぼ、ひと世代違う、ということになりますね。
 僕は細野先生から、ちょうと干支がひとまわりした後くらいの生まれで、子どもの頃は『Gu-Guガンモ』『さすがの猿飛』のテレビアニメを観ていました。
 細野先生は、のちに青年マンガ誌に軸足を移し、『愛しのバットマン』『ギャラリーフェイク』などの作品を描き、息の長い活躍をされています。
 あらためて思い返せば、『Gu-Guガンモ』『さすがの猿飛』のようなギャグマンガで人気になったあとに、ストーリーマンガでも成功をおさめ、長く人気マンガ家であり続けていた人って、けっこう少ないような気がします。

 この『1978年のまんが虫』では、「私立・丘の上大学」(細野さんの母校の慶應大学がモデルだと思われます)に進学した細野青年が、そこでSFやマンガ、アニメなどのさまざまな才能を持つ仲間たちとサークル的な活動をしていくうちに、高千穂遥さんをはじめとする『スタジオぬえ』に出入りするようになり、そこでもらった仕事からマンガ家としてデビューするまでが描かれているのです。

 僕は中学時代、同級生がどこかから入手してきた、庵野秀明さんらが学生時代につくっていた『DAICON FILM』という集団の『愛国戦隊大日本』という特撮パロディのビデオを観て、大笑いしたことを憶えています。
 1970年代までの日本のエンターテインメントでは、まだアマチュアとプロとの垣根が低く、学生サークルの延長で制作会社をつくったり、アマチュアのコンピュータ好きがつくったマイコンゲームが大ヒットしたりしていました。

 堀井雄二さんや中村光一さんも、エニックスのプログラムコンテストがきっかけでゲームを仕事にしていくことになった人たちでした。

 細野さんのマンガは、「理」が勝ちすぎてはいないけれど、「情」に頼りすぎてもいない、という印象があるのですが、慶應ボーイだったのか、どうりで洗練された作風なわけだな……と思いきや、この本のなかでは、細野家の家庭の状況も明かされています。
 有名な会社に勤めてはいたものの、アルコール依存症でボロボロになってしまった父親と、そんななかで大勢の子どもたちを育てて踏ん張っている母親、そして、そんな家庭からエスカレーター式で名門大学に通い、父に代わって家族を支えることを期待されている若き日の細野さん。
 
 僕はずっと地方暮らしで、比較的安定はしているけれど、創造力は求められない専門職を続けてきました。
 僕の父親もけっこうな酒飲みで、ふだんは「好きな仕事をやっていいから、自由にやれ」と言っていたものの、僕が高校の模試で法学部志望にすると、あからさまに機嫌が悪くなった、そんな記憶があります。
 自分が大人になってみると、「親の意向なんて忖度せずに、好きなことをやればよかった」と思うのと同時に、「本当に僕がやりたいことをやっていたら、もっとお金に苦労したり、クレジットカードの審査に通らなくて傷ついたりしていたのではないか、と考え込んでしまいます。

 そもそも、僕は細野さんのようには、「親を悲しませても貫きたいほど好きなこと」を持つことができなかった。
 もしかして、「東京」という場所、同好の士が集まって刺激し合う環境であれば、僕の人生も変わっていたのだろうか。
 まあ、良い方に変わっていたとも、限らないんですけどね。

 細野さんも、地方の国立大学とかに行っていれば、堅い仕事についておられたのかもしれません。
 謙遜もあるのかもしれないけれど、この時代の細野さんは「絵がそんなに上手くはない」「仕事が遅い」という描写がされています。
 結果的に細野さんはマンガ家として十分な成功をされているわけで、才能がある人たちのなかで、生き残り、人気マンガ家になるまでのプロセスも、ぜひ読んでみたい。
 この濃密な年を切り取っているからこそ、印象深い作品ではあるのですが、この「続き」が気もなるのです。


 なんだか自分のことばかり書いてしまいました。
 そんなに豊かではなかったけれど、この先の世界は核戦争とかの不安はあるけれど、きっと良くなっていく、すごいことが起こっていくはず、と根拠もなく思えていた1970年代のことを思い出さずにはいられない本でした。
 当時の風景やマンガ、メカなどが絵で「再現」されているというのは、まさに「マンガであることの強み」ですし。

 
 この本のなかに、手塚治虫先生の『マンガの描き方』のなかの一節が紹介されています。

 長編マンガを描くまず第一のポイントは、最後まで飽きずに描くということだ。


 才能云々を口にする前に、まず、舞台に立たなければどうしようもない。
 でも、この「最後まで描く」ことのハードルの高さは、1970年代も2020年代も、変わっていないんですよね。
 インターネット経由で「感想」をもらいやすくなっても、それがマイナスに作用することもあるしなあ。


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