琥珀色の戯言

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【読書感想】ブッダという男 ──初期仏典を読みとく


ブッダは本当に差別を否定し万人の平等を唱えた平和主義者だったのか? 近代の仏教研究は仏典から神話的装飾を取り除くことで、ブッダを平和主義者で、階級差別や男女差別を批判し、業や輪廻を否定した先駆的人物として描き出してきた。だがそれは近代的価値観を当てはめ、本来の内容を曲解したものにすぎない。では、ブッダの真の偉大さは一体どこにあるのか。これまでのブッダ理解を批判的に検証し、初期仏典を丹念に読みとくことでその先駆性を導き出す革新的ブッダ論。


 「史実」とは何か?
 その人が生まれた時代や生育歴に影響されない、あるいはそれを完全に乗り越えられる人間というのは、存在するのか?

 僕のブッダことガウタマ・シッダールタに関する知識は、手塚治虫さんの漫画『ブッダ』によるものが大部分で、そういえば、最初のほうで、ウサギが自ら火に飛び込むシーンがあったなあ、とか、そんな感じなのです。

 この本では、これまでのブッダ研究に行き詰まりを感じていた著者が、新たな視点で、あるいは、同時代人にブッダはどう見えていたのか、というのを想定して、「ブッダの先駆性」を論じています。
 
 著者は、ブッダを知るための資料として「仏典」が重要であることは当然ではあるけれども、その中には「ブッダが瞬間移動した」というような神話的な(奇蹟を記した)記述がたくさんあると述べています。
 昔の人たちは、「ブッダなら、そのくらいのことは可能だったのだろう」と、それを言葉通りに受け止めることができたのですが、近現代になると、「本当にそんなことができたのだろうか?」と多くの人が疑問視しつつも、「聖人」に対して大っぴらに疑うのは憚られる、という感じになってきます。
 そんななかで、「仏典から神話的な要素を排して、歴史的な事実のみを抽出する」ことを目的とした、学問としての「仏教学」が生まれ、150年にわたり、さまざまな研究がなされ、専門書や一般書が上梓されてきました。

 だが、この試みは、中村元が仏典から神話的要素を取り除くことで描き出した”人間ブッダ”を一つの到達点とした後、方向性を見失いつつあるようにみえる。現在も、十人十色のブッダ像が仏教学者たちによって提示されているが、それらが総合されて新しい研究の潮流が生み出されることもなければ、次の研究の基盤になることもない。そのような停滞期を迎えている。学者たちの多くが、ブッダを研究することにもはや手詰まりを感じていると言えるだろう。
 これに対し筆者は、仏典のなかに神話と歴史という二項対立を読み込む従来の研究手法から脱却してこそ、ブッダの歴史的文脈をより豊かに描き出すことが可能であると確信している。ブッダの歴史性を明らかにしようとする際に、最大の障害となっているのは、仏典の神話的装飾でも後代の加筆でもなく、我々の内側にある「ブッダの教えは現代においても有意義であってほしい」という抗いがたい衝動である。結果として、これまでの専門書や一般書の多くが、歴史のブッダを探求しているはずが、彼が2500年前に生きたインド人であったという事実を疎かにして、現代を生きる理想的人格として復元してしまうという過ちを犯してしまっている。


 僕は「はじめに」を読みながら、10年くらい前に読んだ『イエス・キリストは実在したのか?』という本のことを思い出していました。

fujipon.hatenadiary.com

 この『イエス・キリストは実在したのか?』の著者は、新約聖書に書かれているキリストは、「汝の敵を愛せ」という博愛主義者なのですが、実際のイエス・キリストには、「人類全体に向けて」という意識は乏しく、あくまでも「ユダヤ人社会のなかでの救世主」でしかなかったのではないか、と分析しています。
 そして、イエス・キリストの「博愛主義者の宗教家」ではなく、「ローマの支配から、ユダヤ人を解放しようとしていた革命家・社会運動家」という面を強調しています。

 もちろん、現在、2020年代には、本物のブッダやキリストに会ったことがある人は生存していませんし、仏典も聖書の内容や解釈も、「世界宗教」へと変化していくなかで、アップデートされ続けてはきているはずです。

 以前、ヨーロッパの「神学」の歴史についての本を読んだのですが、「なんでこんな賢い人たちが、当時の科学知識からしても矛盾しているであろう聖書の記述を強引に『ありうること』に解釈するために知恵を振り絞っていたのだろうか。頭脳の無駄遣いだよなあ」と思わずにはいられませんでした。
 信仰というのは、「そういうもの」ではあるのでしょうけど。
 
 宗教的な権威に対する研究というのは、研究者に信仰がなければ、興味がわきにくいでしょうし、信仰心が強ければ、「この聖人は、こうであってほしい」「その教えがいまの時代にも通用するものであってほしい」という先入観から逃れるのは難しい。

 著者は、「ブッダは平和主義者だったのか」という章で、このように述べています。

 歴史を振り返ると、仏教は何らかの形で暴力を容認してきた。この事実は揺らがない。しかし、仏教の暴力容認は「後代の解釈」にすぎないのであって、あくまでブッダは徹底した平和主義者であったという主張がなされる場合も多い。すなわち、シュミットハウゼンや正木晃などによれば、ブッダ自身はいかなる暴力をも否定していたのに、時代の変化とともに社会や政治との結びつきが強くなりその性格を変えていった結果、暴力や戦争を容認するようになった、というのである。馬場紀寿も、初期仏典においては「美徳による世界統一が説かれても、戦による外敵の殺害は決して正当化されない」と述べている。
 しかし、そのような単純なブッダ像は決して成立しない。
 実際に初期仏典を読めば明白であるが、ブッダが現代的な水準で生命を尊貴し、戦争に反対していると読み取ることはまったくできない。むしろブッダが平和論者であるかのような言説こそが、現代的な価値観に基づいて初期仏典を解釈してしまった結果なのである。
 確かにブッダは殺生を禁じている。だが、たとえば弟子のアングリマーラは、大量殺人鬼であったにもかかわらず出家が許され、しかも世俗的な刑罰を受けることなく悟りを得ている。
 また、初期仏典に残されるブッダの言行を考察しても、戦争の無益さを説く教えはあっても、王に対して戦争そのものを止めようとした教えはない。

 ブッダが戦争を非難し止めなかった理由は、そもそも古代インドにおいて、国を支配し武器を持ち戦うことは武士階級に課せられた神聖な生き方として認められていたからである。確かに、ある初期仏典のうちには、はるか昔の伝説として、武力によらず四方を征服・統治するダラネーミ転輪王という理想的君主が語られている。だが、それでもダラネーミ転輪王は軍団を率い近隣諸国を威圧して服従させており、征服戦争そのものが否定されているわけではない。


 ブッダは2500年前のインドで生きた人なのです。
 それを考えると、2020年代の新書などで語られている「博愛主義、平和主義、平等主義のブッダ」は、あまりにも「現代人の価値観に合うような聖人化されすぎている」と著者は考えているのです。

 バラモン教の教えでは、輪廻という苦しみから逃れるのは難しく、瞑想を通じて「悟り」を得て、煩悩を絶って輪廻を終わらせる、という「思想家・宗教家としてのブッダの(当時としての)革新性」は正しく認められるべきでしょう。
 しかしながら、あまりに後世の人によって「理想化」された姿は、かえって「本来のブッダ」とかけ離れてしまっているのではないか?

 「そういうふうに、時代によってさまざまな人の『理想』を投影されていくことにも、歴史的人物としての意味はある」という考えもあるのだとしても。

 現代人からしてみれば「無我や縁起の教えを学んだだけで悟りが得られ、煩悩が断じられる」というのは現実感がないだろう。まして、初期仏典に現れるブッダは、業報輪廻の公理を全面的に受け入れ、しかも現象世界の一切を知り尽くした超人として描かれており、現代人からすれば神話的な印象を受けずにはいられない。しかし、だからと言って、脱神話化を通して、「不可知論者であった」とか、「平和主義者であった」というような現代人ブッダを構想してしまうことは、今ここに”新たな神話”を想像することに他ならない。それには、解釈としての価値はあるかもしれないが、ブッダの歴史的意義を不明瞭なものにしてしまう恐れがある。


 僕は仏教や仏典に詳しいわけではなく、著者がブッダの思想の当時としての革新性に触れた部分などは、正しく読めているのか、まったく自信がありません。仏教やブッダに対するそれなりの予備知識なしだと、学術書としての正確さを判断するのは難しいのではないかと思います。
 ただ、「歴史上の人物に対して、現代人はどういう姿勢で『解釈』していけば良いのか」考えさせられる本であることは間違いありません。
 自分が言いたいことを、偉い人の言葉を都合よく解釈して補強しようとするのは、人間の困った習性なのです。
 たぶん、これはブッダの時代から、変わらないのではなかろうか。


fujipon.hatenablog.com

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