琥珀色の戯言

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【読書感想】リベラルとは何か-17世紀の自由主義から現代日本まで ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「すべての個人が自由に生き方を選択できるよう国家が支援するべきだ」と考えるリベラル。17世紀西ヨーロッパの自由主義を出発点として、第二次世界大戦後は先進国に共通する立場となった。しかし、1970年代以降は新自由主義や排外主義による挑戦を受け、苦境に陥っている。はたしてリベラルは生き残れるのか。具体的な政策を交えつつ、歴史的な変遷と現代の可能性を論じ、日本でリベラルが確立しない要因にも迫る。


 「リベラル」について、100文字以内で説明してください、と問われたら、僕は困ってしまいます。
 「リベラル」って、「他人の権利のために闘っている人たち」というイメージとともに、「自分たちはセレブな生活をしながら、やたらと他者の失言とか不適切発言をあげつらって批判ばかりしている、めんどくさい人たち」という印象もあるんですよね。

 著者は、この本の冒頭で、「現代のリベラル」について、こんなふうに語っています。

 本書の目的は、「リベラル」と呼ばれる政治的思想と立場がどのような可能性を持つのかを、歴史、理念、政策の観点から検討することである。
 本書で詳しく論じていくとおり、現代のリベラルとは、「価値の多元性を前提として、すべての個人が自分の生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治的思想と立場」を指す。この立場によれば、国家、民族、家族のような集団が個人を超える価値を持つわけではない。逆にそれらの集団の目的は、個人の自由な生き方を保障することにある。また伝統や宗教は、個人の生き方にヒントを与えるものであっても、それらが特定の生き方を個人に強いることは望ましくないと考える。
 こうした考えは、西ヨーロッパを中心とする地域で歴史的に少しずつ形成され、世界に広まっていった。内部にはいくつもの系譜が存在するが、大きく言えば、個人の尊厳と自律、価値の多元性、法の支配といった基本的な価値を共有している。
 現代のリベラルのもっとも大きな特徴は、市場と国家のバランスをとる必要があると考えることである。市場の自由や経済的自由は重要だが、行きすぎた市場の自由は社会の中に格差を生み出し、一握りの個人や集団に富を集中させ、他の人びとの自由を脅かす。すべての個人に自由に生きる機会を保障するためには、国家が行きすぎた格差を抑制し、一定の再分配を行うべきだと考えている。


 歴史において、20世紀にはもてはやされてきた「リベラル」は、現在は大きな壁に当たっている、ともいえるのです。
 「グローバル化」によって、国境を越えた人やモノ、情報の行き来が盛んになりましたが、「格差社会を抑制するための再分配」は、自助努力の妨げになり、経済的な効率を悪化させ、社会全体としては貧しくなる(あるいは、生産性が落ちる)と考える「新自由主義」的な考えが広まっていったのです。
 一部の国では、移民が増えることによって、「ずっとこの土地で暮らしてきた自分たち」に対する社会保障が減らされていくことへの不満も高まっています。
 「みんなに平等な機会を与えるために富の再分配を」と言っても、右肩上がりの経済成長がみられた時代ならともかく、莫大な数の移民が押し寄せてきたり、経済成長が停滞したりしている国では、「自分の取り分を減らしたくない」というのが人々の本音なのです。
 「リベラル」であることを標榜する人たちで目立つのは、すでにお金を持っている人やハリウッドスターですし。

 この本では、非常に丁寧に「リベラル」と呼ばれてきたものの歴史が辿られているのですが、「リベラル」が指すものというのは、時代や地域によってかなりの違いがあるのです。

 そもそも、「自由」というのをどう解釈するのかが難しい。

 20世紀を代表する社会哲学者フリードリヒ・ハイエクは、1944年に発刊した『隷属への道』の中で、国家の幅広い介入を認める当時の「自由」のとらえ方を批判した。ハイエクによれば、1940年代には個人に平等な機会を保障することを「新しい自由」だとする考え方が唱えられ、国家による再分配や経済の計画化が広い支持を集めるようになっていた、これらはケインズやヴェヴァリッジの思想に対応すると言ってよい。しかし、一人一人の価値観は多様であり、人生の目標は本人にしか決められない。もし国家が共通の目的を定め、「自由」の名のもとにそれを個人に強制するなら、その目的を受け入れない個人は抑圧され、排除されてしまう。たとえば、国家が一定の生活水準を定め、それを保障するために富裕層に税を課すなら、富裕層の自由は脅かされてしまう。共通の目的に人びとが合意することは不可能だから、国家権力の肥大化に歯止めがかからず、やがては国家がすべてをコントロールする「全体主義」支配へと至ってしまうだろう。ハイエクは1947年にモンペルラン協会を組織し、経済的な自由主義を支持する経済学者を集め、新自由主義を普及させようとした。
 ハイエクの議論に見られるとおり、新自由主義によるリベラルへの批判の中核にあったのは、「価値の多元化」だった。個々人の価値観には根源的な多元性があり、合意を作ることは不可能である。社会全体で共通の目的を定めることなどできない。


 ハイエクの思想は「リベラル」に関する諸学派のうちのひとつでしかないのですが、基本的に、すべてを自由競争にすれば「格差」が生まれ、拡大していくのは必然なのです。
 「格差」を失くそう、せめて減らそうとすれば、「持てる者」を抑圧することになります。
 
 この本を読んでいると、歴史的に「リベラルとは何か」について、代表的なものだけでもあまりに多くの人がさまざまな観点で語ってきたということがわかります。
 そして、読めば読むほど、いろんな考えを知れば知るほど、こんがらがってくるんですよね。
 逆に言えば、「そういうカオスな『リベラル』の歴史」を、都合よくまとめたりせず、新書のボリュームで可能なかぎり丁寧に辿っていることが、著者の真摯さでもあるのです。

 「リベラル」というのは、矛盾した要素を抱えており、簡単に定義できるものではない、ということは、「わかる」。


 1960年代後半から1970年代にかけて、先進国では、反戦運動や環境運動(エコロジー)、反原発運動、学生運動、人種的マイノリティの権利運動、フェミニズムなどのさまざまな抗議運動や社会運動が噴出してきました。
 なぜこの時期だったのか、という問いに対して、著者は、社会哲学者のユルゲン・ハーバーマスとクラウス・オッフェの説明を紹介しています。

 彼らによれば、1970年前後の対抗運動は、ケインズ主義福祉国家の失敗ではなく、その成功によって生まれた。経済(市場)と政治(国家)が結びつき、国家が雇用政策や分配政策をつうじて人びとの生活に深く介入するようになった。人びとは豊かさと平等を享受する一方で、文化的な不満を抱え込むようになったのである。
 ハーバーマスはこれを「自由の両義性」と表現している。国家が失業や生活不安のリスクから人びとを守ろうとすればするほど、行政権力が人びとの生活の隅々にまで介入するようになる。たとえば、官僚が人びとの所得、家族構成、教育水準、雇用までをこと細かに把握し、画一的な基準にしたかって管理するようになる。豊かな生活を享受するようになった中産階級にとって、もはや貧困からの脱却は目指すべき目標ではない。むしろ、ひたすら生産性の向上を迫られて働かされたり、行政の管理・規律のもとに服して生活したりすることで、自らの「自発性と自律」が抑圧されているように感じられる。自ら選んだ価値観にしたがって生活し、自らのアイデンティティを自己決定することこそ、新たな目標となる。1970年代には、「管理者会」「規律社会」への批判が燎原の火のように広がった。ハーバーマスによれば、「新たな抗争は、分配の問題ではなく、生活形式の文法の問題が火種となって燃え上がる」。


 人々の生活がより豊かに、平等になったことで、「リベラル」は「経済や生活」ではなく、「文化的な面」を重視するようになっていったのです。
 
 ところが、近年はふたたび、「格差や貧困」が人々にとっての切実な問題になっています。
 格差が拡大し、移民の増加で生活を脅かされる(と感じている)人が増えたことによって、「『リベラル』の連中は、我々が仕事がなくて困っているのに、LGBTのトイレの話ばかりしている」と、「文化的リベラル」への反感が高まっているのです。

 ところが2000年代に入ると、多文化主義は深刻な批判に直面するようになる。たとえば2010年に、ドイツのメルケル首相は、移民の社会統治が進まない状況を念頭に、「多文化主義は完全に失敗した」と発言した。2011年にはイギリスのキャメロン首相が、「多文化主義の教義のもとで……我々は所属したいと感じられる社会像の提供に失敗した」と述べた。多くの先進国で、移民受け入れの規制が強化されたり、技能の高い移民のみを選別的に受け入れたりするなど、多文化主義政策の転換が進んだ。
 なぜ多文化主義は批判にさらされたのだろうか。たんに排外主義が広がったからというだけではない。多文化主義の背後にあるリベラルな理念そのものに矛盾があると指摘されるようになったのである。
 イギリスのジャーナリスト、デヴィッド・グッドハートは、2004年に「進歩派のジレンマ」に関する論説を発表し、大きな論争を巻き起こした(彼は進歩派とリベラルを同じ意味で用いている)。彼によれば、リベラルな社会では、人種や宗教にかかわらず、すべての人を平等に処遇し、すべての人に福祉や教育サービスを提供することが目指される。ところが移民や難民の数が増え、民族的な多様性が増すにしたがって、これらの政策への支持を維持することは難しくなる。人間とは、一定の集団の枠内で連帯意識をはぐくみ、お互いに助け合おうとするものである。自分たちとは異質な文化を持つ他者が増えてしまうと、連帯意識は掘り崩されていく。再分配は自分たちではない移民=「彼ら」の利益にしかならず、「我々」がコストを負うのは不公平だと考えられるようになるのである。こうしてリベラルな政策を手厚く行うほど、リベラルへの支持が減るという逆説に直面する。これが「進歩派(リベラル)のジレンマ」である。
 はたして民族的な多様性は、人びとの間の連帯意識を掘り崩し、国家による再分配を難しくさせるのだろうか。グッドハートの言うように「多様性と連帯のトレードオフ」は存在するのだろうか。そうだとすると、リベラルな多文化主義を長期的に維持するのは難しいということになる。


 この「リベラルのジレンマ」が本当に存在するのかどうかについては、論争が継続中ですが、現在は、民族的な多様性と国家の再分配への支持低下の間には、一定の相関があると考えられるようになっているそうです。
 人々は、「自分の分け前が少なくなりそうな再分配」は望んでいない。
 崇高な理念や理想を掲げるほど、支持は失われていく。
 民主主義国家では、選挙で勝てない政策を掲げることは困難です。

 かなり長くなってしまったので、このくらいで終わりますが、この本のなかでは、「日本のリベラル」についても、かなりのボリュームで、その歴史や世界のなかでの特殊性が語られ、それと同時に、あまりに日本だけが特別だと思い込まれていることへの警鐘も鳴らされています。

「リベラル」に冷笑的になっている人、「リベラル」という言葉を日常的に使っているのに、その意味を理解している自信が持てない人には、ぜひ一度読んでみていただきたい本です。
 僕もこれを読んで、少なくとも「自分は『リベラル』をわかっていなかった」ということだけは、理解することができました。


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リベラルという病(新潮新書)

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