琥珀色の戯言

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【読書感想】人類の終着点 戦争、AI、ヒューマニティの未来 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

ウクライナで、パレスチナで命が失われ、世界大戦はすぐそこにある。ビッグデータを餌に進化するAIは専制者と結びついて自由社会を脅かし、人間の価値や自律性すら侵食しかねない。テクノロジーが進むほど破壊的で不確実になる未来──世界最高の知性が全方位から見通す。


 エマニュエル・トッドマルクス・ガブリエル 、フランシス・フクヤマメレディス・ウィテカー、スティーブ・ロー、安宅和人、岩間陽子、手塚眞中島隆博さんという、人口学、哲学、AIなどをそれぞれ専門とする国内外の有名研究者へのインタビューや対談によって編まれた本です。
 2023年10月に行われた「朝日地球会議」の内容がもとになっています。

 新書でよく見かける人たちが大勢いる、豪華なメンバーだなあ、と思いながら読みはじめました。
 人類、そして民主主義のこれから、AIに対する期待と不安など、「世界的な知性」と呼ばれる人たちでも、それぞれの立ち位置やこれまでの経験で、こんなに違うものなのだな、と思いつつ。


 歴史家・文化人類学者・人口学者のエマニュエル・トッドさんは、西洋人は、「西洋は、私たちが思っていたほど好かれていない」という事実に気づいたと仰っています。

 世界全体と西欧の間、西欧とそれ以外の国々との間には、19世紀のヨーロッパと同じような対立が生じています。
 19世紀、ブルジョワジー(上流階級や中流階級)と、労働者階級の間には対立がありました。なぜなら、そこには搾取のメカニズムがもともと内在しているからです。
 だから、新たな搾取を行う西洋に対して、それ以外の国が敵対心を抱くのは、当たり前のことなんです。
 もちろん、西洋が生み出しているイデオロギー、極端なフェミニズム、道徳的なリベラリズムの強要などは、西洋以外のより保守的な国の多くを不快にさせています。
 そして、もはや共産主義ではないロシアは、近寄りやすい国になりました。かつての共産主義は、イスラム教徒や信仰心の厚い国々にとって恐ろしい存在でした。
 しかし今の世界各国からすれば、プーチンのモラルの面における保守主義は、「ゲイの問題こそが組織や社会の最重要問題である」と強いる西欧の新たな傾向や、トランスジェンダーの問題に対する西洋の固執よりも、はるかに身近に感じられるのです。
 西洋人である私は、どちらに賛同すると表明しているわけではありません。私は、欧米で起きていることにはショックを受けていません。ただ、周囲の人々が私たちをどのように受け止めているのかを、理解するべきだと言っているのです。


 ウクライナ戦争で、ロシアの「侵略戦争」に世界が反発し、「ロシア対世界」になるのではないか、と僕は思っていたのですが、実際は、西欧側も一枚岩ではないし、ウクライナへの支援も次第に滞ってきているのです。
 西欧側が、いや、アメリカだけでも全力で支援すれば、戦況は大きく変わりそうですが、核戦争への危惧もあり、アメリカも「笛吹けど踊らず」という感じです。
 日本に住んでいると、どうしても「アメリカの正義」に追随する情報に触れる機会が多くなるのですが、ロシアは完全に孤立しているわけではありません。
 ちなみに、トッドさんは「アメリカ、民主主義も危機的な状況なのだから、日本も核武装を考えるべきではないか」と発言しています。
 僕は子供の頃に広島にいたこともあり、ずっと「被爆国である日本が核武装するのは、世界平和と核廃絶を訴えてきた先人たちへの冒涜」だと思っていたのですが、最近はあまりその考えに自信が持てなくなってきました。
 ウクライナ北朝鮮を比較してみれば、やっぱり、「核兵器保有」というのは、攻撃する側をためらわせる効果はありそうだし。
 ただ、これに対して、日本側の参加者たちは「今の状況で日本が自国の核兵器を持つというのは、その過程での周辺国との軋轢や関係悪化のリスクも考えると、現実的な選択ではない」とも指摘していて、それもそうだよなあ、と。


 著書『歴史の終わり』で知られているフランシス・フクヤマさんは、民主主義の現在地について、こんな話をされています。

(一つ目の問題として、インターネットでデマが拡散され、信じられやすくなっていることを指摘した後で)

 そして、二つ目の問題は、ソーシャルメディアの武器化です。ソーシャルメディアでは、特定のグループをターゲットにして、以前よりも洗練されたやり口で、人々が揺さぶりをかけられています。
 また、巨大なソーシャルメディアプラットフォームに力が集中してしまっているのも問題です。イーロン・マスクツイッターを買収してからのことを考えてみてください。ツイッターが左派的な方向に向かっていたのを、彼は気に入らなくて買収してしまいました。一人の裕福な個人の影響で、ツイッターは突然右派的な方向に傾いて、陰謀論などをまき散らしています。これは、民主主義にとって大きな問題です。私的な力はこのように集中させるべきではないのです。

 インターネットでは、多様な人々が対話するハードルが下がり、相互理解が進むのではないかと期待していた時代が、僕にもありました(西暦2000年前後くらい)。
 でも、このツイッター(X)の事例を考えると、世界はインターネットのプラットフォームを支配できる大金持ちや大企業による、独裁制(あるいは寡頭制)に向かっているのかもしれません。選挙を経なくても、人々の支持を受けなくても、ある日突然、「みんなの意思をある程度コントロールすることができる人間」になることは可能なのです。
イーロン・マスクになることは、日本の首相になるよりも難しいかもしれませんが)


 この本でのやりとりのなかで、最も印象的だったのは、AI(人工知能)についてのものでした。
 世界の知性と呼ばれる人たちのあいだでも、AIに対するスタンスは、「人間の仕事や人間らしさを奪ってしまう」という会議的・悲観的な意見もあれば、「所詮『道具』であり、うまく利用していけば、人間を進歩させていくはず」という考えもあったのです。

 AI研究者であり、Googleの研究部門の責任者を務めていたこともあるメレディス・ウィテカーさんは、こんな話をされています。

 もし、社会の至る所で使われ始めている巨大なシステムのことを、AIではなく、人工頭脳学や機械学習、あるいは他の用語で呼んでいたら、人間の知能と人工知能の違いを議論することはなかったでしょう。また、人間における知能でさえも、IQテストなど様々な評価方法が存在しており、定義は一つではありません。ですから、一部の大企業が売り出すシステムに知能のような特性を見出すことには、慎重であるべきだと私は思っています。
 結局のところ、AIと呼ばれているものは、巨大なインフラ設備で運営される大規模な統計システムであり、そこに必要な大量のデータは人々を追跡、監視して集められているのです。そして、マイクロソフトやグーグルやメタなどの、こうしたシステムを運営する巨大IT企業は、システムの電源を切ったり、アクセスを制限したり、国によってシステムの使用許可の判断を変えたりできてしまう。このような一握りの大企業の統計システムに、知能という言葉を適用するのが果たして正しいと言えるのでしょうか。
 そして、このようなシステムに人間性を見出すように促すマーケティングの多くは、社会的・経済的なインフラとして普及することによって、「誰が実際に利益を得ているのか」という点から私たちの目を逸らそうとしていると言えます。


 実際に、大企業でそのシステムを開発していた責任者の言葉には、重みがありますよね。
 AIが注目され、もてはやされるのは、画期的な技術であるのと同時に、それが「大きなお金を生み出す産業となっているから」なのです。
「誰が実際に利益を得ているのか」というのは、たしかに大事な視点だよなあ。
 考えてみると、いまAIと呼ばれているものの中には、効率よく広告を出すためだけのシステムも含まれているし、AIが「何を効率的に進めるべきか」を定義するのは、人間なのです。

 ウィテカーさんは、ChatGPTを開発したOpenAIが、ケニアのSamaという会社と下請け契約を結び、その会社では、労働者たちが、低賃金で「労働者に不穏なコンテンツを繰り返し閲覧させ、ボタンをクリックしたり指示を与えたりして不適切な内容であることを機械に教え込む作業をさせていた」そうです。その作業で不快なコンテンツに繰り返しさらされた労働者たちは、精神的に参ったり、心身の健康を損なったりしてしまったとのことでした。

 繰り返しになりますが、データが自動的に知能に変換されるのではありません。機械に対し、何を望んで何を望まないか、何がOKで、何がNGであるかを伝えるのは、知能を持った人間なのです。そしてもちろん、その労働者たちは、OpenAIからその基準について指示されています。つまり、何千人、何万人、何百万人もの人々のデータと労働なしに勝手に出来上がるシステムなど何一つないのです。
 私たちがマシンを「知能」として語るときには、こうした人間の基本的な労働と知能を議論の中から消し去っていることを認識すべきだと私は思っています。


 スマートフォンをいじったり、ワイヤレスでインターネットを利用したりしていると、インターネットは空気のような存在だと思い込みがちなのですが、実際は、基地局や大量のサーバーといった「物理的なインフラ」がないと使えないのです。そして、AIは現状、自分の力でサーバーを増設することはできません。
 AIは、便利だし、面白い。でも、まだまだ過渡期にあるし、使いかたも使う人しだい。

 僕はこの年齢になってあらためて思うのですが、人間って、自分が生きている時代を「歴史の行き詰まり」あるいは「終着点の近く」だとみなしてしまいがちです。
 実際は、ほとんどの人類の一個体にとっては、人類の歴史の通過点の一瞬に居合わせているだけなんですよね。

 僕も手塚治虫先生の「火の鳥」みたいになって、人類の「終わり」を見届けてみたい、なんて妄想することがあります。
 それを見届けられる人は、果たして、ものすごく幸運なのか、それとも不運なのか。


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