琥珀色の戯言

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【読書感想】ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

【「教養=ビジネスの役に立つ」が生む息苦しさの正体】
社交スキルアップのために古典を読み、名著の内容をYouTubeでチェック、財テクや論破術をインフルエンサーから学び「自分の価値」を上げろ───このような「教養論」がビジネスパーソンの間で広まっている。
その状況を一般企業に勤めながらライターとして活動する著者は「ファスト教養」と名付けた。
「教養」に刺激を取り込んで発信するYouTuber、「稼ぐが勝ち」と言い切る起業家、「スキルアップ」を説くカリスマ、「自己責任」を説く政治家、他人を簡単に「バカ」と分類する論客……2000年代以降にビジネスパーソンから支持されてきた言説を分析し、社会に広まる「息苦しさ」の正体を明らかにする。


 「教養」って、いったい何なんだろう、と僕はこの本を読みながらずっと考えていました。
 漠然としたイメージはあるけれど、ただ「いろんなことを深く知っている」だけではないはずです。
 
 「教養」という言葉で思い出すのは、以前、岡田斗司夫さんが「10代のうちに、1万冊の本を読んでいた」と仰っていたことでした。
 僕は僕なりに、自分が本好きで、けっこう本を読んできたつもりではあるのですが、世の中には、ここまですごい読書家がいて、そのくらいが「常識」だとされる世界があるのか、と驚いたのです。

 でも、その後の岡田さんの活動やスキャンダルをみていると、果たして、本をたくさん読むことは、人を幸せに、あるいは「まとも」にするのだろうか?と考えずにはいられないんですよね。
 本をたくさん読むと、人を煙に巻くような議論や言いくるめの技術は身につくかもしれないけれど、それは「教養」なのだろうか?
 その一方で、中国の文化大革命のように「労働を絶対視し、知識人を批判、弾圧する」のが正しいとも思えません。

 ひろゆき中田敦彦カズレーザー、DaiGo、前澤友作堀江貴文
 この面々は、2021年の年末にエンターテインメントサイト「モデルプレス」で発表された「ビジネス・教養系YouTuber 影響力トレンドランキング」の上位陣である。
 ここまでの文字列に、何とも言えない居心地の悪さと日本の「教養」への不安を覚える人は少なくないのではないか。断定的な口調でたびたびネットを騒がせるインフルエンサーたちが発信するものは果たして教養なのか? 教養とはビジネスの成功者によって語られる概念になったのか? そもそも、「ビジネス」と「教養」は同列に並べられるべきものなのか?


 著者は、近年「ビジネスパーソンには教養が必要」というメッセージがさまざまなメディアから発信され、書店には「ビジネスに役立つ、教養としての〇〇」という本が並んでいると指摘しています。

 なぜこれほどまでに、ビジネスパーソンに向けて「教養」が押し出されるようになったのだろうか。
 もちろん、教養の重要性は以前からたびたび言われてきているものではある。欧米のエグゼクティブには教養がある。それに比べて日本のおえら方は……というような比較も昔から存在していた。
 しかし、最近の「教養が大事」論は、過去のものとはやや位相が異なっているのではないかと筆者は感じている。過去の「教養」という言葉を比較して、今の「教養」が特に色濃く帯びているもの。それは、ビジネスパーソンの「焦り」である。
 手っ取り早く何かを知りたい。それによってビジネスシーンのライバルに差をつけたい。そうしないと自らの市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう。


(中略)


 現代のビジネスパーソンは、なぜ「教養が大事」というかけ声に心を揺さぶられてしまうのか。そして、「教養が大事」と発信するビジネス系インフルエンサーはどのようにして時代の風を捉えて勢力を拡大してきたのか。
 その問いに答えるためのキーワードが、本書のタイトルにもなっている「ファスト教養」である。ファストフードのように簡単に摂取でき、「ビジネスの役に立つことこそ大事」という画一的な判断に支えられた情報。それが、現代のビジネスパーソンを駆り立てるものの正体である。


 1970年代の初めに生まれた僕にとっての「教養がある人」のイメージは、「高等遊民」的なところがあって、「お金になったり、すぐに世の中の役に立ったりしないものを突き詰めている趣味人」なんですよね。
 ところが、今は「仕事のための教養」になってしまっているのです。
 それは、「教養」というより「勉強」じゃないのか、と。
 
 今の世の中は、それどころではなくなったというか、単に知識が広いとか計算が早い、などというのは「でも、AI(人工知能)にはかなわないよね?」と言われてしまうのです。
 そこで、現時点ではコンピュータではうまく数値化できない、「アート」が人間にとっての差別化できる武器になる、と主張する人が多くなってきた印象があります。

 
 著者は、「教養」というものが見直され、重視されるきっかけになった契機として、1990年代半ばに起こった、「オウム真理教事件」を挙げています。
 あの事件では、超一流大学を卒業していたり、法律家や医師といった「人のために働く」とされている仕事をしていたりした信者たちが幹部となり、暴走し、地下鉄サリン事件坂本弁護士一家殺害、教団内でのリンチ殺人などを指揮していました。

 受験における偏差値が高くても、その能力をおかしなことに使ってしまっては元も子もない。カルトにハマらないための多様な視点を身につけるとともに、人としての倫理を維持するための方策として教養というものが求められた──そんな過去の流れと現在の状況を改めて見比べた時に、ビジネスシーンで振り回すための大雑把な知識をコスパ重視で学ぼうという今のファスト教養のあり方は「オウム」的なものへの対抗策になっているのだろうか。ビジネスでの成功に何よりも高い地位を置く人たちの示す教養が主流になることで、経済的なメリットのために深い思考プロセスや守るべき倫理観を平気で放棄できる新しい「オウム」が生まれかねないのではないか。
 ファスト教養を取り巻く状況をたどっていくと、「ビジネスで成功したい」という欲望と「使えない人材になりたくない」という恐怖の狭間で平衡感覚を失っていくビジネスパーソンの姿が描き出される。


 著者は、YouTuberとして成功を収めている中田敦彦さんについて、こう述べています。

 中田の『勉強が死ぬほど面白くなる独学の教科書』には「現代社会を学ぶときの僕の関心」として「厳しい状況の中で、どんな人が成功しているのか?」「特に、ベンチマークしているのが、起業家や経営者たち」といった観点が示されており、具体名としてイーロン・マスク堀江貴文西野亮廣ラリー・ペイジの名前が列挙されている。スケールは違えど、それぞれ「ビジネスにおける成功」を成し遂げている存在だが、「自分が成功するために成功例をベンチマークする」という話ばかりで「自身の学びを社会に還元しよう」といった発想を彼の発信から読み取るのは難しい。


 僕は、この本のなかにも名前が挙げられている編集者の箕輪浩介さんの『死ぬこと意外かすり傷』という本を読みました。
 そのなかで、とくに「引っかかった」のが、この一節だったのです。

 編集者の仕事を一言で言うと「ストーリーを作る」ということだ。
 いまの時代、商品の機能や価格は大体似たり寄ったりだ。
 これからは、その商品にどんなストーリーを乗っけるかが重要になる。
 例えば、このTシャツは、どんなデザイナーが、どんな想いを持ってデザインしたのか、そこに込められたメッセージは何か。そういった消費者が心動かされるストーリーを作ることが、洋服でも家具でも食品でも必要になってくる。
 実はそれは、編集者の一番得意なことなのだ。
 これからはあらゆる業界で、ストーリーを作る編集者の能力がいきてくる。僕はお客さんが買いたいと思うようなストーリーを作ることで、アジア旅行で買った、タダでもいらないような大仏の置物を数万円で即売させることができる。
 今、僕が本以外の様々なプロデュース業をやっているのも、この力を求められているからだと思う。

 
 巷間伝えられる、箕輪さんの行状に基づく先入観も僕にはあるとしても、「タダでもいらないような大仏の置物を数万円で他者に売りつけることができる」というのは、「金儲けの才能」だとしても、誇るようなことなのだろうか? それを数万円で売りつけることに、罪悪感はないのだろうか?
 例えば、新興宗教の信者間で、効用があるとされる置物とかであれば、売る側もそれだけの価値があると信じて売っているはずです。
 でも、箕輪さんは、「価値がない」ことを承知の上で「売ることができる」と言っているのです。


 ビジネスとは、商売とは、そういうものだろう?

 確かに、そうなのかもしれません。
 でも、そういう「自分さえ良ければいい」という考え方が「公言」され、みんなから「支持」される時代というのは、本当に「正しい」のだろうか?
「自分さえ良ければいい」のために培われた知識は、「教養」というより、オウム真理教の高学歴幹部たちが、テロリズムのために利用した「道具」と同じものではないのか?

 ただ、率直なところ、こういう「そんなの『教養』じゃないだろう」と「ファスト教養」を批判して快哉を叫ぶこともまた、ひとつの「ビジネス」と化している、という一面もあるのです。
 もちろん、そんなことを言っていたら、もう何も発言できなくなってしまうのだけれども。
 
 個人的には「教養について語ることは、教養がある人がやることではない」とも考えてしまうのです。
 でも、このインターネット時代に「竹林の七賢」のような存在が成り立つとも思えません。

 著者自身も、社会の改革者だと堀江貴文さんを仰ぎ見ていた頃のことを書いておられます。
 僕自身も、なんのかんの言いつつ、「教養のための〇〇」的な本をたくさん読んできましたし、教養系インフルエンザーの動画や著書にも触れてきました。自分で意識している以上の影響も受けているはずです。

 今のビジネスシーンにおいて広まっているファスト教養は個人の成功と成長にフォーカスするが、現実問題として明確な成果を挙げられる人というのは社会全体で一握りである。ほんの一部の成功者と、成功者になりたくてもなれない人たちによって構成される社会。これこそが実態であり、そこに蔓延するのはサンデルの言う「われわれを分断する冷酷な成功の倫理」である。そして、ファスト教養はここでの後者の人たち、つまりは社会における大部分の人たちになんの指針も示さない。なぜなら、ファスト教養はビジネスシーンでの成功に特化したツールであると同時に、その結果については「自己責任」として関知しないからである。
 そんな状況を改めて俯瞰した時に思うのは、もしビジネスパーソンにとって教養が必要なのだとしたら、そこに含まれるべきは小銭稼ぎを進めるための考え方でなく、成功者を正しく支えて評価する受け皿になるためのリテラシーなのかもしれないということである。


 スタープレイヤーになれるのはごく一握りでしかないけれど、彼らが社会を良くしているのかを評価し、応援したりリスクを察知したりできる多数の「良質の観客」の存在が重要である、というのは、わかるような気がします。
 そして、プレイヤーには「常軌を逸したところ」があるからこそ、観客には「教養」が求められるということも。

 自分が「単なる、いち観客」であるのを受け入れるのは、結構しんどいことでもあるんですけどね。観客席の中でも、人は「特別な観客」になりたがる。
 僕だってそうだから、こんなブログを長年やっているのです。


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