琥珀色の戯言

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【読書感想】「叱れば人は育つ」は幻想 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

脳・神経科学などの知見から、著者は、叱ることには「効果がない」と語る。
叱られると人の脳は「防御モード」に入り、ひとまず危機から逃避するために行動を改める。
叱った人はそれを見て、「ほら、やっぱり人は叱らないと変わらない」と思ってしまうのだが、叱られた当人はとりあえずその場の行動を変えただけで、学びや成長を得たわけではないのだ。
そして厄介なことに、人間には「よくないことをした人を罰したい」という欲求が、脳のメカニズムとして備わっているため、叱ることで快感を得てしまうのである。

では、どうすれば人は成長するのか。本書は臨床心理士公認心理師で、発達障害不登校など特別なニーズのある子どもたち、保護者の支援を行ってきた著者が、
「叱る」という行為と向き合ってきたさまざまな分野の識者4人と、叱ることと人の学びや成長について語り合った一冊である。


著者は、臨床心理士・公認心理士で、発達障害不登校などの子どもたち、その保護者たちと長年接し、支援を続けてきた方です。
これまでに、『〈叱る依存〉がとまらない』という本も上梓していて、人が「叱る」のは、相手のためを思って、というより、叱る側が「他人を叱る快感」に依存している面があるのではないか」という提言もされています。

この新書では、著者が紹介してきた「叱ること」の弊害と、「では、これまで叱っていたような相手の行動に対して、どうしていくべきなのか?」が冒頭で語られ、これまで多くの場面で「叱る側」「叱られる側」に立ってきた4人の識者との対談が収録されています。

1人目は元東京都千代田区麹町中学校校長で、「宿題廃止」「定期テスト廃止」「固定担任制廃止」などの学校改革を実践した工藤勇一さん。
2人目は企業・組織における人材開発・組織開発について研究している立教大学経営学部教授の中原淳さん。
3人目は元女子バレーボール日本代表大山加奈さん。
4人目は、編集者で株式会社コルク代表取締役社長の佐渡島庸平さん。


僕自身も、これまでの人生で、「叱る側」にも「叱られる側」にもなってきました。
「叱る側」としては「なんとなく後味が悪いな」「あの時叱ったことに、意味はあったのだろうか?」と思いますし、叱られる側としては「なんか怖かったな」というだけのこともあれば、「相手の言葉が身に染みた」と今でも感謝していることもあるのです。

率直なところ、「叱られた内容が参考になった」というよりは、「もともと敬意や好意を抱いていた相手が、自分に向き合い、声をかけてくれた」ことのほうが大きいのです。
言い方は悪いかもしれませんが、好きな相手の言葉であればなんであろうと受け入れられるし、嫌いだったり苦手だったりする人だと、なんだか受けいれがたく、恐怖さえ感じた、あらためて振り返ってみると、そんな気がします。
人というのは、同じ相手でも、好きになったり嫌いになったりすることもあるので、難しいのですが。

著者は、子どもたちの支援の現場で、「叱らずにはいられない」大人たちと、「叱られつづける」子どもたちがいると感じていたそうです。
そんななかで、どんなに叱り、叱られても状況が改善しない、むしろ悪化していくのを目の当たりにして、叱ることの効果に疑問を持っている中で、ニューロダイバーシティ(脳や神経の働き方の違いを多様性の視点で捉えて尊重しようという考えかた)に出会いました。

 結果的には、この出会いと学びが「叱る」ことへの疑問に多くの答えをもたらしてくれることになりました。具体的には「叱られ続ける」子どもたちがどういう状態になるのかについて、多くの示唆があったのです。


 叱られた子どもは、なぜ同じことを繰り返すのか。


 その答えは、「防御システム」とも呼ばれる、脳の危機対応メカニズムにありました。脳の奥底に扁桃体と名づけられた小さな部位があります。この部位は人間の感情、とくにネガティブ感情について重要な役割を果たしていると考えられています。この扁桃体を中心とするネットワーク(防御システム)が活性化するとき、人は「闘争・逃走反応(Fight or Flight Response)と呼ばれる状態になることが知られています。
 この反応については、天敵に襲われた小動物をイメージするとわかりやすいでしょう。危機を感じたその瞬間に、戦うか逃げるかどちらかの行動をしないと命が奪われてしまいます。だから脳は強いネガティブ感情を感じた瞬間に、行動を引き起こすために「防御モード」に切り替わるのでしょう。
 重要なことは、この防御システムが人の学びや成長とは真逆のシステムであることです。具体的には防御システムが活性化しているとき、脳の前頭葉野の活動が押し下げられることがわかっています。前頭葉野は知性や理性など人の知的な活動にとっての重要部位です。つまり、しっかり考え、検討するために必要な部位なのです。
 危機的な状況においては、時間をかけて考えることが逆に命の危険を高めてしまいます。だから、防御システムは知性のシステムを停止させて、行動を早めさせるのでしょう。


 親に叱られる子どもや上司に叱られる部下が「闘う」選択をするのは現実には難しいので、叱られたら「言うことを聞く」「謝罪する」などの方法で、考えることを停止して、その場から逃げるための最善の選択をしようとするのです。でも、そこでの反省や謝罪は「危機を逃れるための反射的な行動」でしかないので、経験からの学びにはつながらず、また同じことを繰り返して「叱られて」しまう。


 著者は、「叱る側」について、依存症治療で知られている医師の松本俊彦さんの講演で聞いた話もされています。

 人は快楽に溺れて、依存するのではない。


 それは、私がそれまで依存症について教えられてきたことと、真逆のメッセージでした。
 薬物依存について私が教えられてきたのは「違法薬物を使うと強烈な快感を感じ、その快感が忘れられなくなって依存する」というものでした。たった一度でも手を出して仕舞えば、快楽に溺れて身を滅ぼし廃人になってしまう恐ろしいものだと、説明されました、だから「ダメ、ゼッタイ。」なのだと、脅すように説明されたことを覚えています。
 ですがこの説明は、依存症の実態を正確に反映してはいません。具体的には、違法薬物を1回使っただけで依存症になる人は多くないのです。少なくとも、快感だけが依存症の原因であると言うことは、あり得ません。そもそも人間は快楽に対して非常に飽きっぽい存在だからです、
 ではいったい何が、人を依存に向かわせるのでしょうか。


 人は自分の苦しみを和らげてくれるものに、依存する。


 依存を引き起こすのは快楽ではなく、苦痛からの逃避である。このことは人が生きていくうえで、知っておくべき重要な「人間の性(さが)の一つだと私は思います。
 裏を返すと、苦痛や困難を抱えておらず、満ち足りた人生を送っている人は依存症になりにくいのです。いつも気分が落ち込んでつらいからこそ、気分をハイにしてくれる薬が手放せなくなる。毎日怒りの感情が湧き出てどうしようもない人ならば気分を鎮めてくれる薬に、将来への不安で押しつぶされそうな人ならばお酒を飲んで気分が前向きになったときに、「依存症」へつながるリスクが高まるのです。
 薬物依存に陥ってしまった人の多くが、その初期には「自分の苦痛をやわらげてくれるもの」を見つけるために、さまざまな薬物やアルコールなどを試す時期があるという事実を、私たちは知っておかねばなりません。その意味で依存症は、自分の人生の苦しみに対する「自己治療」のようだと、考えられているのです。


 薬物などの「物質」だけでなく、「行為」も依存の対象となりうるのです。ギャンブル依存や恋愛依存、なんていうのもよく知られています。
 

 それは、有名な科学雑誌「サイエンス」に掲載された1本の論文を読んだときでした。

 その論文には、「規律違反を犯した人を罰することで、脳内報酬系回路は活性化する」と書いてありました。つまり、人間には「よくないことをした人を罰したい」という欲求が、脳のメカニズムとして備わっているというのです。

「ああ、すべてがつながった」

 長年の謎が解けたような、そんな感慨を強く抱いたことをいまでも覚えています。
 なぜ「叱る」という行為がこんなにも過信されるのか。なぜ「叱らずにはいられない」状態になってしまう人がこんなにも多いのか。ずっと不思議に思っていた謎の理由が、そこに書いてあったのです。


(中略)


 私が出会ってきた、発達障害のお子さんのいる保護者は、ほぼ例外なく深い悩みと苦しみを抱えておられました。もちろんそれは、保護者の責任ではありません。脳や神経の働き方が少数派の子どもを育てること自体に、大きな障壁や困難が存在しているのです。
 そう考えると、多くの保護者が「叱らずにはいられない」状態になることに、何の不思議もないことがわかったのです。


 叱る側も、叱られる側も、どうしたらいいかわからなくて、苦しんでいて、「叱る」という行為に頼ってしまうのです。
 ただし、著者は、生命の危険がある場合(例えば、子どもが熱湯が入ったヤカンに手を伸ばそうとしているとき)には、その場での最悪の事態を避けるための避難的な行動として「叱らざるを得ない」こともある、とも述べています。


 4人の識者との対談では、それぞれ、教育、ビジネス、スポーツ、創作の世界で「叱る」「叱られる」という行動が、現場でどう考えられてきたか、そして、現代の指導者たちは、どんな姿勢で、次の世代が「学べる」ようにしているのか、が語られています。

 元バレーボール選手の大山加奈さんは、現役時代は、日本代表で屈指のスター選手だったのですが、20代半ばで現役を引退されました。
 大山さんは、高校の同期だった荒木絵里香さんについて、こんな話をされています。

大山加奈目標と目的をはっきり区別することって大事ですよね。先ほど私は「バレーボール人生を全うできなかった」と言いましたが、現役時代の私は「目標」しかもっていなくて、「何のためにバレーボールをやっているのか」という目的を見失っていた、という反省があります。そのことを気づかせてくれたのが、荒木絵里香の存在なんです。
 荒木とは高校の同期だと言いましたが、卒業後、私た地は一緒にVリーグ東レアローズに入団し、社会人としても一緒にプレーをしていました。荒木はアテネ五輪のときには代表選手になれませんでしたが、北京、ロンドン、リオ、東京と、オリンピックに4大会連続出場し、ロンドンでは主将を務めて銅メダルを獲っています。結婚して出産を経て復帰というのも、日本選手としてはまだ少ないなかで実践していますし、Vリーグの最高通算出場セット記録も残しています。私とは対照的に、とても息の長い選手になりました。東京オリンピックが終わって引退、その後に指導者として大学院で勉強し、卒業しました。


村中直人:大山さんが子ども時代から全国制覇を成し遂げ、10代で代表選手に選出されるような早熟型プレイヤーだったのに対して、荒木さんは20代以降末長く活躍しつづけた晩成型プレイヤーだったんですね。


大山:そういう言い方もできるかもしれませんが、荒木の選手生命が長かったのにはちゃんと必然性があったんだ、と私は思っています。私も荒木も小学生のときにバレーボールを始めているんですが、私がバレーひと筋で、休みの日は朝から晩まで練習していたのに対して、荒木はご両親の「本格的にスポーツ中心の生活を送るのは高校からでいい」という方針によって、小中学校時代は水泳をやったり陸上をやったり、いろいろなスポーツをやっていたんです。高校に入るまで、「バレーで日本一になる」ということを考えたこともなく、のびのびと育ってきたのです。


村中:荒木さんが長く現役生活をつづけられたのは、子ども時代のそういった育ち方の影響が大きい。中学生のうちから全国大会で優勝するといったことよりも、むしろ子ども時代はのびのびといろいろなことに挑戦したりするほうがいい、と考えておられるのですね。


大山:はい。荒木は、30歳過ぎてからも「ほんとにバレーボールが楽しい」「まだまだうまくなれる」とよく言っていました。引退するときは、「バレーボールを味わい尽くせた」とも言っていたんですね。私からすると、本当に理想的なバレーボール人生を送っています。そういう姿をずっと見てきて、トップアスリートを目指して幼少期から取り組むにしても、「小学生のうちから日本一を目指す必要が本当にあるだろうか?」と思うようになりました。


以下の記事に、ロンドン、リオと金メダルを獲得した水泳のケイティ・レデッキー選手と子どもたちとのやりとりが出てきます。

blog.tinect.jp

金メダルを取るような選手になるためには、その競技に専念しなければならない、というわけではない、むしろ、いろんな経験をすることが大事なのだ、と彼女は語っているのです(大学もスタンフォードだし!)

 著者は「コミュニケーション能力なんていう、『大雑把な能力』は、存在しない、人間の能力は、世間で思い込まれているよりももっと繊細で環境依存的なもので、「どんな場面で、どのようなコミュニケーションを期待されるのかによって、その人がうまく振る舞えるのかどうかは変わってきます」と述べています。
 僕はこれを読んで、アメリカに行ったときに、「英語で十分にコミュニケーションが取れない」というだけで、自信を失い、人と接することが怖くなったのを思い出しました(元々、人と接すのは得意ではないけれど)。


〈叱る依存〉だけでなく、さまざまな「学び」を得られる本だと思います。
「叱るのがダメなら、どうすればいいんだ?」と考え込んでしまう人にこそ、おすすめです。


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