Kindle版もあります。
雑誌『ダ・ヴィンチ』2014年12月号よりスタートした星野源のエッセイ連載「いのちの車窓から」。
その連載をまとめた『いのちの車窓から』は、累計発行部数45万部突破(電子書籍含む)の大ヒットを記録。
約7年半ぶりとなる待望の第2巻を、9月30日に刊行! 2017年から2023年までの連載原稿(不定期連載※一部連載原稿未収録、改稿あり)に、4篇の書き下ろしを加えた計27篇を収録。「芸能界のど真ん中で、好きな音楽を自由に作ることができるなんて、嬉しく、楽しくない訳がない。」
第1巻が刊行された2017年、星野源は『逃げるは恥だが役に立つ』『恋』の大ヒットで大注目を浴びた。
関係者が呆気にとられるほどの大反響を受け、自分を取り巻く環境が変わっていく……星野源はその渦中にいた。
「嬉しいことばかりだった。」
しかしその反面、
「昨年の2017年から、私はおかしくなっていった。」
「仕事では楽しく笑顔でいられていても、家に帰ってひとりになると無気力になり、気が付けば虚無感と頭を抱え、何をしても悲しいなとしか感じず、ぼんやり虚空を見つめる様になった。」
――(本書「POP VIRUS」より引用)笑顔の裏で抱えていた虚無感、コロナ禍下での毎日、進化する音楽制作、大切な人との別れ、出会いと未来、愛おしい生活について。
約7年半にわたる星野源の日々と創作、周囲の人々。その思考と「心の内側」を真っ直ぐに綴ったエッセイ集。
星野源さん、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』と主題歌『恋』の大ヒット、その後も俳優・アーティストとしての活躍に『逃げ恥』で共演した新垣結衣さんとの結婚と、ディスプレイの向こう側から観てきた僕にとっては、まさに「サブカルドリームの体現者」という存在なのです。
僕はけっこう前から星野さんのエッセイを読み続けていて、オシャレな生活とは言い難い独身オタク男の日常やエロゲーの話をかなりオープンに書いている星野さんの文章が好きだったのです。
星野源さんがこんなにモテる時代なら、僕にもワンチャンあるんじゃない?
fujipon.hatenadiary.com
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……妄想でした。本当に申し訳ない。
ガッキーと結婚、なんてところまでいくと、もう雲の上、という感じです。
『異世界に転生したら、星野源だった』というライトノベルを誰か書き始めているのではなかろうか。
この『いのちの車窓から2』には、くも膜下出血で生命の危機にさらされ、復帰してからの2017年から2024年までのエッセイが収録されています。
一冊のエッセイ集としては、期間が長く、新型コロナウイルス禍や新垣結衣さんとの結婚とその生活など、世の中にもプレイベートにも大きな変化の中での星野さんの心境の変化や、そのときどきに考えていたことが、綴られているのです。
(仕事があまりにも忙しくて途中からエッセイの寄稿が3か月に1回になった、という事情もあったそうです)
最初のほうを読みはじめて、僕は正直、ちょっとがっかりしていました。
ああ、星野源、売れて、メジャーになったから、以前のようなオタク趣味全開の面白マニアックトーク、みたいなのは書かなくなってしまったんだな、って。
淡々と書かれている日常は、なんだか「エッセイの名手とうたわれるベテラン作家」みたいな、よそ行きの感じがしたのです。
もう、僕がシンパシーを抱いていた、サブカルヒーローは、ここにはいない。
もう、星野源は「あちら側」へ行ってしまった。いや、もとから「あちら側の人」だったのかもしれないけれど、以前はまだ「こっち側のにおい」がしていたのに。
でも、この本で、『逃げ恥』『恋ダンス』で売れに売れた、スター・星野源の内面に起こっていたことの一端に触れて、「ああ、星野源をやっているのも、そんなに楽しいことばかりじゃないんだな……」と思わずにはいられませんでした。
多忙な日常のなか、ようやく取れた「休日」に、星野さんは外に出かけることにしたのです。
「休日」とはいっても、曲作りやメールの返信など、やるべき仕事はたくさんあったけれど、なんだかもう投げ出してしまいたくなって。
辿り着いたのは「晴海客船ターミナル」(2022年に閉鎖)という展望台のある客船ターミナル。そもそも人は少なめだったが、より人がおらず、より海の見える場所を探していると、人けのない屋外展望スペースにぽつんとベンチが置かれているのを見つけた。
正面には東京湾とレインボーブリッジが、左手にお台場が、右手には東京タワーが見える。よし、ここに座ろう。
西に太陽が沈み、白い雲と青い空がオレンジ色に染まっていく。あれだけ暑かった東京も、数日前から急に気温が下がり、すっかり秋の装いである。寒くもなく暑くもなくちょうどよかった。
深く被った帽子とマスクを外し、夕陽を浴びながら潮風にあたった。深呼吸をする。風が気持ちいい。買っておいた炭酸水を飲みながら、何もせず、ただぼーっと海を眺めた。
なんて楽しいんだろう。人がいない。誰も自分のことを見ていない。マスクを着けず、帽子も被らずに海が見られる。それだけでとても気持ちよかった。
素顔で外にいるのはいつぶりだろう。ここ数年、どこへ行ってもどれだけ顔を隠しても、街行く人に振り向かれ声をかけていただく。そのことに嬉しさを感じていたのに、最近はどうも苦しい。いつの間にか神経はすり減り、疲弊していた様だ。
数十分間、ただ息をしていた。顔を隠さず息をするだけで人は回復できるなんて知らなかった。
芸能人、有名人って、プライベートでも声をかけられることが多くて、めんどくさいんだろうな、と想像してはみるものの、星野さんが一時期、ここまでステージや画面の外で人と接することにプレッシャーを感じていたなんて。
もっと「煮詰まってしまった」エピソードもこの後書かれていて、「売れたい、有名になりたいと思ってやっている仕事のはずなのに、実現してみるとこんなにキツいものなのか」と思い知らされます。
星野さんは、「自分が変化していくこと」についても、自身のラジオ番組でのリスナーのペンネームの話を題材に、「はじめた当時はこう考えていたが、いまはこんなふうに考えが変わってきている、そして、今後もアップデートされていく(と思う)」と丁寧に書いておられます。
僕は星野さんの今回のエッセイ集を読んでいて、「なんかお上品になったな、以前の勢いというか、こんなことまで書くのか、という驚きが無くなったな」と思っていたのです。
でも、星野さんは、さまざまな経験を通じて、考え方も生きざまも変わってきたし、それは人として「自然なこと」なんですよね。
以前、パチスロライターの木村魚拓さんが、ファンに「木村さんが書いていた面白いコラム・エッセイが大好きです。最近は動画の仕事ばかりで寂しい」と言われて、「以前の仕事を褒めてくれるのはありがたいけれど、自分はいま、その時々で、自分にとっていちばん大事な、面白いと思える仕事を優先的にやっている。だから、今は文章の仕事は優先順位が低いし、応援してくれるのだったら、動画を見てほしい」と答えていたのが記憶に残っています。
いやあ、もっとエッセイも書きたいんだけど、忙しくてさあ、また頑張って書くね!みたいな無難な返事を予想していた僕にとっては、意外だったのです。
でも、芸能の世界も文章の世界も、こうして、変わって、適応していくことができなければ、どんどん飽きられ、淘汰されていく世界なのでしょうね。
ネットって、過去のログを見るのも簡単だから、「あいつは以前あんなことを言っていたのに、今回の発言は矛盾しているじゃないか」と指摘されやすいし、僕もそれを意識せずにはいられない。
この星野源さんのエッセイ集を読んでいると、こんなに売れている人なのに、こんなに毎回、毎作品、いろんな試行錯誤をして、自分をアップデートしているんだなあ、と驚かされます。
ネガティブな物事はさっぱり忘れたい。そうするのは怒りや憤りを、頭や身体の中から出して仕舞えばいい。自分の中に蓄積する毒を、言葉と共に排泄し処分するのだ。他人に直接ぶつけてしまわないために。
そこで一番やってはいけないのは、SNSやブログで「本音」をインターネットに残そうとすることである。
他人が見る可能性のある場所では、人間はどうしても「表現」をしてしまう。そこに本音や本心を書くことはできない。「周りを気にせず、本音を書きました」そんなのは嘘だ。閲覧数やいいねの数、周りからどう思われるかをまったく気にせずに投稿できる人は100%いない。それは本音ではなく、本音風にデコレーションされた歪な表現でしかない。だからそんな場所では、言葉の排泄はできない。
では鍵をかけた誰も見ないアカウントでの投稿であればいいのかというと、それも何の意味もない。フォロワー0の誰も見ることができない鍵アカウントでの発言は、自分の脳に刺さって抜けないUSBメモリに文章ファイルを保存する様なもので、身体の外に出ていないのと一緒である。
用意するのは、コピー用紙1枚とペンだけ。そこに、頭の中に思い浮かんだことを全部書く。怒りも悲しみも負の感情も全部書く。書くことがなくなったとしても、その紙全部が文字で埋まるまで思いつく言葉を書き続ける。
そこにはコンプライアンスなどない。放送禁止用語であれ、偏見に満ちた言葉であれ、どんな汚い言葉遣いで書いてもいい。
星野さんの「解決策」は、この後もう少し詳しく書かれているのですが、正直、僕はそれに効果があるのか疑問ではあります。今度試してみよう、とは思っていますけど。
「ブログやSNSに『本音』なんて書けない」
これは、長年ネットで書いてきた僕も、本当にそう思います。
というか、書けば書くほど、自分の「本音」が、わからなくなってくる。
本当の本音って、くたばれ!とか、もう嫌、とか、めんどくさい、でしかないのかもしれない。
でも、それじゃ「いいね」はつかない。
変わっていくのも、他人の目を意識して「よそ行き」になってしまうのも、悪いことじゃない。というか、それが「自然」なんだ。
ただ、それはそれで「ナチュラルに」とか意識している時点で「自然」じゃなくなるわけで、生きるっていうのは意識すればするほど、ややこしいものではありますね。