琥珀色の戯言

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【読書感想】あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
常識を揺さぶる「究極の問い」にあなたは何と答えますか??社会に飼い慣らされないための“悪魔の法哲学”。「正義」「権利と義務」「自由」「平等」「功利主義」「アナーキズム」考えることの楽しさがわかる、青山学院大学で大人気の授業!!


 「法律」+「哲学」なんて、ややこしいもの同士のコラボレーションだなあ……と、恐れおののきながら読み始めたのですが、著者の講義風の語り口は読みやすく、紹介されている事例も興味深いものばかりで、楽しく読めました。
 法律というのは、本来、人間の権利を守るものではあるのですが、法律の判断や解釈が多くの人が感じる「正しさ」と合わない事例は少なくないのです。
 あるいは、「そんなことまで、『法』の判断にゆだねると、あまりに世の中がギスギスしすぎてしまうのではないか」ということもあるのです。

 著者は現代社会における「法の増殖」の問題点について、こう語っています。

 欧米では1970年代後半から、政府が社会で発生するさまざまな問題に対して立法によって解決しようとする傾向が強まり、結果として制定法が増殖し訴訟対策が拡大するようになった。このような現象は特に「法化」と呼ばれ、問題視されるようになった。
 前述したように、国家が社会での不正防止や弱者救済のために立法をもって介入するということも法化のうちに入るのだが、それは法化の明るい部分である。法化には逆に暗い部分もあり、それが現代ではクローズアップされているのである。


 「法化」の負の側面として、訴訟対策などによって、あまりに法が複雑化し、専門的な内容になることによって、一般の人たちは、そこに何が書いてあるのかわからない、自分でそれを利用する術を失ってしまう、というのを、著者はまず指摘しています。その一例として、スマートフォンの契約書があげられていて、あれをすべて熟読・理解してサインしている人は、まずいないと思います。販売員だって、そんなことは百も承知でしょう。にもかかわらず、それが「法的根拠」になってしまうのが現実なのです。

 そして法化のもうひとつの暗い面は、日常生活の至るところに法律が浸透することによって、人々のコミュニケーションが法律に縛られ、あげくの果てには私的自治そのものが破壊されてしまうということである。
 もちろん、セクハラは確かにあってはならない。被害者が本気で嫌がっていることを「イヤよイヤよも……」などと嘯いてしつこく行うようなことは絶対に許されない。しかし、セクハラを未然に防ぐためとはいえ、行為を事細かに規制するマニュアルを日常的に遵守しなければならないというのはいかがなものか? 男性が女性に対して「休みの日は何してるの?」「顔色悪いけど大丈夫?」「と聞いてはならないとか、「ちゃん」付けはいけないとか。大学でも最近では、異性の学生が教員の研究室を訪れた時には、扉を開け放して廊下から誰でも中の様子が見えるような状態で相談にのらなければならないというところもあるようである。
 もっと極端な話がある。エレベーターに一人で男性教授が乗って目的地に向かっていた。途中でエレベーターの扉が開き、女性の学生が一人乗ってきた。するとその男性教授は、そこが目的階でもないのに即座に降りた。理由は、エレベーターという密室の中でわずかの時間であれ、男性教授と女性学生が一対一でいるのは危ないことだと見做されるから、というものだった……。
 他にもいろんな話があるが、問題にしたいことは、事なかれのために「李下に冠を正さず」を事細かにマニュアル化し、それを介して人々を行動させるというやり方はコミュニケーションを歪めてしまう上に、やがては一人一人の思考力や判断力を奪ってしまうのではないかということである。そもそもセクハラを起こす人の場合、対人関係に関するその人の根強い偏見や思い込みに原因があるのであって、行動を操ったからといってそれが修正されるものではない。


 自分自身は、「こんなめんどくさい状況であるならば、コミュニケーションそのものをなるべく避けたほうが無難だな」と考えるようになってきたのです。エレベーターを降りた男性教授の気持ちはよくわかります。痴漢冤罪や虚偽のセクハラ告発のリスクを避けるためには、接触を極力避けるのがいちばんの対策ですから。
 新型コロナウイルスへの「三密」を避けるという対策は、現代社会でのさまざまな「法化リスク避け」にもなっていますし、新型コロナウイルスをきっかけに「人と人との接触」は、どんどん流行らなくなっていくのではないでしょうか。

 もちろん、「やっぱり人と人との『ふれあい』が大切だ」と思っている人たちが、急に絶滅するとは思えませんが。

 「法」は、人と人との争いを円滑に解決し、社会を円滑に動かすためのツールであるはずなのに、それが濫用されることによって、かえって人と人との距離感が難しくなっている、とも言えます。


 この本を読むと、法律というのは、現実に即していない場合も少なくないし(道路交通法の制限速度など)、そんなに重くない罪の場合には、法律の運用にも幅があるのです。

 そして、一般人が賭け麻雀をすることが法律上犯罪とされている件。一般人が金銭を賭けて麻雀をすることは犯罪とされている。根拠は刑法185条「賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまる時は、この限りでない」
 しかし、この条文の後半を見ると、常習でなく、たまたま友人同士で誰かの自宅で盛り上がって5000円程度を賭けて麻雀をするくらいなら大丈夫のように思われる。ところが、大正時代の大審院(いまの最高裁判所)判決がまだ生きていて、「金銭はその性質上、一時的な娯楽に供する物とはいえない」と解されているため、たとえ一円でも賭けたら違法となるのである。
 でも、大人がスナック菓子一袋を賭けて麻雀して楽しいだろうか? じつは某漫画家のいうように、法律では犯罪とされているが、「賭けてない人」はほとんどいないのである。
 たまにスポーツ選手や有名人が摘発されるが、同じことをして摘発・逮捕される人とされない人が出るのはなぜか? 刑事訴訟法には「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としない時は、公訴を提起しないことができる」という条文もあるため、賭け麻雀をした人すべてが捜査され逮捕されるわけではなく、警察や検察の裁量によるのである(専門家によると1000点200円以上、1時間で3万円程度の賭け金が動くような賭け麻雀は摘発されるというが、それ以下でも法律上は違法なのである)。
 つまり法律が、逮捕されるもされないも運次第、と決めているのだ。


 こういうのは、「お金を賭けてもいい」と決めるわけにはいかず、さりとて、「レートが1000点で何円以上だと犯罪」と言うわけにもいかず……ということなのでしょうが、こういうグレーゾーンが法律にはけっこうあるわけです。
 飲み会に「今日は自転車で来たから大丈夫」という人がいても、自転車にも「飲酒運転」はあるんですよね。
 ただし、それをあえて摘発しようという警察官は、ほとんどいません。けっこう危ないこともあるんですが。

 あの偉い検察官の事件にしても、ああいう立場で賭け麻雀とは……と呆れてしまうものの、一緒にやっていたのが大手メディアの記者だった、というのを聞くと、「その場で制止せずに一緒に麻雀やって、あとで記事にしちゃうのか……」と、腑に落ちない気分にはなるんですよ。


 著者は「法」において、しばしば言及されている「人間の尊厳」という概念について、こんな問題提起をしています。

 では、人間特有の「品位」の内容は何であろうか? おそらくさまざまな内容が列挙されるだろうが、明らかにすべての人々が了解することは、奴隷化されないこと、つまり自由を剥奪され、他人によって支配されたりモノ扱いされないこと、であろう。
 そして続いては、この尊厳(品位)と人間との関係が問題になる。人間と尊厳とを繋ぐ「の」意味をどう解釈するかである。解釈には少なくとも二通りある。ひとつは人間の中に備わっている尊厳という意味、もうひとつは人間が尊厳を所有している状態、という意味である。前者のように解釈すると、(1)尊厳という価値が独立的に存在しており、人間はそれの容れ物ということになる。後者であれば、(2)人間が尊厳をもって行動すること、となる。


(中略)


 この(1)と(2)の決定的な違いをわかりやすくするために、「自発的な売春は<人間の尊厳>に反することかどうか?」という問いにそれぞれの見方から答えてみよう。
 (1)であれば、売春行為そのものが、自分の身体を相手の性的な充足のための手段に貶めることであり、それは人間の中にある「尊厳(品位)」という価値を損ねることだから、自発的であっても絶対にしてはいけないということになる。ところが(2)であれば、人間が他人に干渉されずに自分の理性で考え、自分の意思で行為選択することこそが最優先される訳だから、他人に強制されてではなく自分自身の自律的思考と判断で売春行為をする選択をするなら、それは認められることになる。そのような選択を他人がむりやり禁止することこそが、「人間が尊厳をもって生きる」ことに反するということになる。
 このように、「人間の尊厳」というそれ自体曖昧なタームには少なくとも二通りに理解が可能であり、そのいずれを用いるかによって一つの問いにまったく正反対の二つの答えが示されることになるのである。


 法律は白黒つけるために存在しているものだ、というイメージを僕は持っていたのですが、この本を読むと、そんなに簡単なものではなくて、基盤とする考え方しだいで、同じ物事に対しても、まったく違う判断がなされてしまうこともあるのです。
 それでも、まったくの無法地帯よりは、秩序は守られているのは間違いないのだとは思うのですが。

 この他にも、自分の常識が揺らぐような、さまざまな「法律についての、白黒つかない話」が紹介されていて、著者のフランクな語り口もあって、読みやすくて面白い本だと思います。


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