琥珀色の戯言

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【読書感想】田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像 ☆☆☆☆☆


田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像 (中公新書)

田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれた頭脳と行動力で、高等小学校卒から五四歳で首相の座に就いた田中角栄。「新潟三区」という雪深い地盤に“利益誘導”を行い、「日本列島改造」を掲げた角栄は、戦後政治の象徴だった。だが彼の金権政治は強い批判を浴び、政権は二年半で終わる。その後も巨大な「田中派」を背景に力を持ったが、ロッキード事件では有罪判決が下った。角栄を最期まで追い続けた番記者が語る真実。


田中角栄」とは、何だったのか?
 1970年代はじめに生まれた僕にとって、田中角栄さんは、物心ついた時点で、すでに「ロッキード事件の被告であり、賄賂をもらったのに政界に君臨している闇将軍」でした。
とにかく、悪いイメージばかりで。
豪邸の庭の池には、一匹百万円の錦鯉、現金をばらまいて、「ヨッシャ、ヨッシャ」と闊歩している大悪党。
なんで新潟の人たちは、全国の人々から白眼視されながら、この人を毎回当選させているのだろう?


しかしながら、僕が年を重ね、政治とか、世の中について考えてみると、田中角栄という人の「凄み」とか「痛み」みたいなものも、感じるようになってきました。
なんのかんの言ってもさ、小泉純一郎さんも、安倍晋三さんも、福田康夫さんも、麻生太郎さんも、みんな「政治家の家系の人」で、立派な大学を出て政治家になった人、なんだよね。
民主国家では「百姓でも大統領になれる」と、言うけれど、結局のところ、日本の首相のなかで、「小学校しか出ていないのに、総理大臣になれた人」というのは、田中角栄さんだけです。

 角栄と同じ1918年(大正7)5月の生まれ、やはり首相にまでなった中曽根康弘は、群馬県高崎市の裕福な材木屋に生まれ、旧制静岡高校から東京帝国大学法学部へ進み、放歌高吟の寮生活、カントや河合栄治郎を読み、フランス語を覚え、俳句を嗜んだ「学校生活の思い出」を語っている。角栄と中曾根を比べれば、角栄の「小学校8年間が私のすべて」という自己認識は、あの時代の非エリート層のものであり、中曾根のそれはまごうことなくエリートのそれだった。のちに角栄が「土建屋議員」から這い上がり、中曾根が「緋縅(ひおどし)を着た若武者」と呼ばれた違いは、そこから始まっている。


(中略)


 田中角栄に対するもっとも鋭い批判者となる立花隆は「抽象思考ゼロの経験主義者」と断じた。実感的、経験的、そして人生訓的であることは、角栄の生涯の思考形式である。だが、それもやむをえない。角栄は中曾根とは違って、大学の教壇から抽象的想像力、体系的思考を学ぶ機会はなかった。角栄にとって人生は、ひたすら「具体」の積み重ねであって「抽象」ではなかった。
 それを角栄の「非」とするのも酷である。往時、「村に大学出などひとりもいなかった」(角栄の同窓生)のである。ひたすら「具体」に生きたことは、政治家田中角栄の強みともなり、弱みともなる。のちに角栄がへんに肩肘張った国家意識を持たなかったことは、「具体」の生き方の強みだった。また逆に、角栄が出世するのにカネの威力に依存しすぎたことは、やはり「抽象」の価値を持たなかったことの弊だった。


『総理の辞め方』(本田雅俊著・PHP新書)で、こんなエピソードが紹介されています。

 幼年時代から苦労を重ねたこともあり、Aは人情家であった。若い者が訪ねてくると、Aは決まって「メシを食ったか」と尋ねる習慣があった。少年・青年時代、満腹感を抱くことが少なかったAだからこその、温もりのある言葉である。Aが人望を集め、高い人気を誇ったのは、その根拠に血の通った人間臭さがあったからであろう。
 Aの人身掌握術は天性のものだったかもしれないが、苦労によって磨きもかけられた。一方、Aの官僚操縦術は、昭和20年代に数々の議員立法を手がけたことによって習得されたものだといえる。昭和30年の国会法改正前までは、議員は1人でも法案を提出することができ、その数はきわめて多かったが、実際に成立したものは少ない。しかし、Aはみずから政策の勉強を重ねて低学歴のハンディキャップを克服し、先輩・同僚議員や官僚への根回しを行いながら、道路三法など実に30本以上の法律を成立させている。
 もちろん、人心を掌握するため、人一倍、カネも使った。正確にいえば、苦労人のAにとり、カネこそみずからの気持ちを表現する数少ない手段のひとつだったのかもしれない。首相に就任したとき、ある祝賀会で小さな女の子から花束を贈呈されて感激したAは、すぐにその場で財布から一万円札を取り出して渡したという。周囲は驚いたが、それが「A」であった。「政治は数であり、数は力、数はカネ」との台詞からも、「A」が透けて見える。

 この「A」が、田中角栄さんです。
 

 小さな女の子に一万円札なんて、「非常識」ですよね。
「なんて大人だ!」と、昔の僕は、こんな田中角栄さんを軽蔑していました。
 でも、いま、あらためて考えてみると、「自分の感動とか感謝の気持ちを、一万円札であらわすことしか知らない人生」を送ってきた人、でもあったのです。
 たとえ、相手が小学生であっても。


 それは、「悲劇」でもありますよね、やっぱり。
 

 わたしは田中角栄に出会ったのは、1974年(昭和49)3月、札幌勤務から東京の政治部員になって、首相官邸に配属されたときだった。首相番記者として、角栄の日々の動静を追いかけた。早足の角栄は立ち止まってくれない。こちらも走りながら短く、気合を入れて質問する。角栄も瞬時に答える。わたしは初めて、政治家とはかくもエネルギーに満ちあふれた存在なのかと惹かれるものを感じた。
 そして思った。この男のすべてを知りたい。あたう限り、じかに見つめたい。田中角栄の何たるかをとことん理解したい。朝日新聞というジャーナリズムの一員だったからさまざま部署に配置されて途切れることはあったけれども、ともあれ田中角栄の葬儀の日までわが目で見届けることができた。

 
 この新書、400ページ近くあって、かなり読みごたえがあるのですが、角栄さんの「政治的な業績」よりも、その人柄や、周囲の人たちとの関係を中心に描かれています。
 総理就任中から、「番記者」として側にいて、「強力な支持基盤の秘密」を知るために、新潟支局にしばらく勤務していたという著者の文章は、「具体に生きた男」と、東京に対してずっと劣等感を抱かずにはいられなかった「地方の人々」の姿を丁寧に描き出しています。
 それにしても、著者をここまで惹きつける「オーラ」が、田中角栄という人にはあったのだな、と、あらためて思い知らされます。
 こんなふうに、田中角栄という恒星に惹きつけられてしまった人が、あの時代にはたくさんいたのでしょう。


 田中角栄さんは、史上最年少の39歳で、郵政相に抜擢されます。

 角栄の郵政相事始めはいささか珍妙である。屋上へ上がった。近くに立腐れになっている鉄骨がみえた。「あれが前田久吉氏(マスコミ界の大立者)の計画しているテレビ塔か」。付き添いの浅野賢澄文書課長が「建築基準法違反で、途中でストップを食っているんです」。
関東一円にテレビ電波を出すはずの東京タワーの建設が中断していたのである。「よし、これは私が処理してやる」と角栄
 角栄は階を下りて省内を巡視した。テーブルに足をあげて顔に新聞を載せて寝ている者には「そのほうが疲れがとれる」と許した。格納庫をあけたらなかで職員が裸で麻雀をやっていた。「休み時間なら麻雀もいい。しかし健康によくないから扉を開けて堂々とやれ」と角栄角栄自身は時間ばかり食う麻雀は嫌いだった。全逓本部の部屋を覗いて「これだけ大きな組合なのだから本部会館をつくれ」と促した。それに従ったのかどうか、全逓はのちに全逓会館をつくった。
 窓のない部屋に掃除のおばさんがたむろしていた。これでは居心地が悪かろうと、翌日から窓をつくる工事にかかった。共済組合の葬儀屋まで省内にあって驚いた。エレベーターガールに古手の女性職員が回されていたのをやめさせて若い女性に外注した。角栄は人心収攬に長けていた。

 この件を読むだけで、「コンピューター付きブルドーザー」などと言われた田中角栄という人の仕事ぶり、そして、人の心をつかむ力に圧倒されてしまいます。
 実行力があって、人情にも通じている、そして、「掃除のおばさん」にこそ、気を配る。
 その一方で、政治を利用して、自らの「カネづくり」にも余念がなかったんですよね。
 田中角栄という人は、どこまでが「優しさ」で、どこからが「野心」や「処世術」だったのだろうか……

角福戦争」とは何だったのか。
 それは、まず経済政策の違いだった。角栄は「高度成長」であり、福田は「安定成長」だった。それを国民の生活態度に置き換えれば、角栄は「消費は美徳」の系譜であり、福田は「勤倹貯蓄」という違いとなる。
 しかし、「角福戦争」は、何よりも政治への態度の違いであったろう。
 福田は「政治は最高の道徳」と言い続けた。国や社会は、人間が長い時間をかけて育てあげた仕組みである。人は社会公共のために奉仕しなければならない。その奉仕の量の多寡が、その人の人生の価値を計る基準のひとつであるというのが福田の人生哲学である。であればこそ、政治は「最高の道徳」でなければならないのである。
 角栄のそれは「政治は力」である。力がなければどんな理想も実現はできない。それは民主主義のもとであれば、「政治は数」ということになる。民主主義は頭をぶちわるのではなく、頭数を数える制度だからである。福田より「具体的」でリアルな政治観だった。
 この違いのゆえに、角栄は攻めて、福田は守りに回った。「成り上がり」と「エリート」の差だった。かくして、角栄は勝ち、福田は敗れた。

 田中角栄さんは、自民党内での権力争いを制して、ついに総理大臣にまで上り詰めます。
 ロッキード事件のあとも、「田中派」のボスとして、影響力を行使し続けるのですが、しばらく、田中派は最大派閥でありながら、総裁候補を自派からは出しませんでした。
 著者はそれを「自派から総裁候補を出してしまうと、その人物に権力が移ってしまうと田中角栄は危惧していたから」だと推測しています。


 結果的には、自派から総裁を出せないことに業を煮やした竹下登さんらが、「創政会」を結成し、自身の健康問題もあって、田中角栄さんの権力は失われていくことになるのです。


 この「角福戦争」というのは、「道徳の政治」と「力の政治」の葛藤であった、といえるのかもしれません。
 「理想を目指す」という政治家と、「理想だけでは人はついてこないし、国は動かない。やはり力が必要なのだ」という政治家と。
 ああ、これはまさに、田中角栄さんが亡くなったあとも、ずっとずっと続いている「日本の民主主義の葛藤」でもあるのだよなあ。
 「理想の時代」には、「そんな夢物語はどうでもいいから、現実を見ろ!」
 「力の時代」には、「政治屋たちの、理念のないやりかたは、もうたくさんだ!」
 

 あの頃の日本は成長していたから、「道徳」を顧みる余裕があったのだろうか?
 いまの時代には(いや、もしかしたら以前からずっと)、田中角栄が必要だと思っている日本人は、けっこう多いのではないかと僕は思うのです。


 コストに見合わない道路や新幹線をつくった、田中角栄
 僕はそう思っていました。
 でも、「コストに見合わないから」という理由で、開発から置き去りにされてきた「裏日本」を多少なりとも豊かにしてくれたのは田中角栄だけ、でもあったのです。

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