琥珀色の戯言

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【読書感想】勉強の価値 ☆☆☆☆

勉強の価値 (幻冬舎新書)

勉強の価値 (幻冬舎新書)

  • 作者:森 博嗣
  • 発売日: 2020/11/26
  • メディア: 新書


Kindle版もあります。

勉強の価値 (幻冬舎新書)

勉強の価値 (幻冬舎新書)

内容(「BOOK」データベースより)
勉強が楽しいはずない。特に子供が勉強しないのは「勉強は楽しい」という大人の偽善を見透かしているからである。まず教育者は誤魔化さずこれを認識すべきだ。でなければ子供が教師の演技を馬鹿馬鹿しく思い両者の信頼関係が損なわれる。僕は子供の頃あまりに美化された「勉強」に人生の大事な時間を捧げる必要があるか疑った。が、現在(正確には21歳から)は人は基本的に勉強すべきだと考える。それは何故か?人に勝つため、社会的な成功者になるためではない。ただ一点「個人的な願望」からそう考える理由を、本書で開陳する。


 子どもに「なんでやりたくもないのに、勉強しなきゃいけないの?こんなの何の役に立つの?」と問われたことはありませんか?
 僕は「人生の選択肢を広げるため」なんて答えてお茶を濁してきたのですが、結局のところ、勉強にも向き・不向きみたいなものがあって、勉強を面白いと思う人、将来のためになるというのなら、なんとか我慢してできる人、周囲の環境によって勉強したりしなかったりする人、そして、机に向かってする勉強が、生理的に受け入れられない人、がいるのではないか、と今は考えています。
 僕は「大好きではないが、勉強して生活の糧を得るほうが、自分にとってはスポーツ選手になるよりは向いている」と子どもの頃から思っていたので、ずっと打算で勉強してきました。本当は読書やテレビゲームのほうが好きでしたし。まあ、みんなそんな感じなのだろう、と。
 ところが、高校時代に進学校で、「世の中には、本当に勉強が楽しいという人が存在している」ということを思い知らされたのです。もちろん、彼らも「勉強はつらいし、やりたくないこともある」と言うのですが、それは、僕が「面白いけれど難しいゲームを攻略するときに感じている充実感みたいなものに近いように思います。
 
 僕は長年、森博嗣先生が書いたものを読んできて、ずっと「なんてすごい人なんだ。こういう人の考え方や生き方を見習おう」としてきたのです。
 でも、長い付き合いの末、森博嗣という人は、希少な人間で、真似できるような存在ではないし、参考にするというよりは、「世の中にはこんな人もいるんだなあ」と感心して気分転換するくらいがちょうどいいと思うようになりました。
 そもそも、森先生自身も「別に参考にしてもらおうと思ってこういう本を書いているわけじゃない、と、ずっと仰っていますし。
 森博嗣先生はすごいけど、森博嗣の本を読んだからといって、特別な人間になれるわけでもないし、立派なことをしているわけでもない。
 「世の中には、こんな考え方もあるのか」と読み流してしまって構わないし、読む側も「面白いから読んでいる」で良いのですよね。
 

 もっと簡単に述べると、勉強というのは、その行為に目的があるのではない、という点が重要なのだ。なにか、ほかに目的がある。そして、そのための過程が「勉強」と呼ばれているだけである。したがって、その過程を楽しめるかどうか、という問題は、本来の目的が見えていないわけで、そもそも問題でもない。どうでも良いことだといっても過言ではない。
 わかりやすく例を挙げよう。たとえば、金槌で釘を打つこと、これが「勉強」というものの本質である。もし、金槌で釘を打つことが楽しいという人がいれば、それはそれで幸せである。一生その趣味を続けて、釘を打ち続ければよろしい。しかし、普通は、釘を打つ目的がほかにある。その目的が、釘を打つ行為を始めるよりもさきにある場合は、釘を打つ目的がほかにある。その目的が、釘を打つ行為を始めるよりもさきにある場合は、釘を打つことが楽しく感じられるだろう。自分が作りたいものがどんどん出来上がっていくし、また、釘の打ち方もしだいに上達するはずである。これもまた、楽しい体験となる。だが、その楽しさは、「作りたいもの」へ近づくプロセスが生み出している。 一方、まだ作りたいものがない人、作る目的がない人に、釘の打ち方を教えるとしたら、どうだろうか? それを教わる人は、いったい何が楽しいのか、まったくわからない。非常につまらない、と感じるだろう。もっと楽しいことが沢山あるのに、どうしてこんなことをしなければならないのか、と考えるはずだ。


 僕はこれを読みながら、勉強というのは、ロールプレイングゲームRPG)のレベル上げみたいなものなのか、と考えていたのです。
 ゲームの場合には、倒したいボスがいたり、ストーリーを先に進めたい、という目的がはっきりしているから、単調なレベル上げもできるのです(とはいえ、やっぱりあまり楽しいものではないので、最近はあまりレベル上げを意識しなくても良いRPGが多くなっています)。
 ときどき、ずっとレベル上げをしているのが好き、なんて人がいるのも、勉強に近いかもしれません。

 子どもの場合、目的を実現するための「方法としての勉強」というのは、その「目的」がはっきりしていないだけに成立しにくいところがありますよね。
 子どもに限らず、人生において、「本当に自分がやりたいこと」を見つけるのは、案外難しいものだなあ、と僕も棺桶に膝くらいまで浸かりながら考えてしまうのです。
 そして、「自分がやりたいこと」を見つけるための公式があるわけでもない。

 森先生は、この本のなかで、「社会の変化に対して、学校で行われている『教育』は、ついていけなくなっているのではないか?」と指摘しています。

 競争を煽る仕組みは、社会の中に沢山潜んでいるように見える。マスコミは、とにかく競争をエンタテインメントとして大々的に伝える。努力をして勝ち得たという個人のドラマが大好きだ。そこでは、「感動」というキーワードで、大勢を引きつけることが可能だからだ。大勢を引きつけることがマスコミの目的であり、人を集めることで商売が成立している。
 一方、社会の動向を俯瞰すれば明らかだが、人類は個人主義へ向かおうとしている。かつては、大勢で力を合わせないとできなかった労働は、機械が担うようになった。力を結集する必要はもはやない。みんなが同じことをするメリットは、完全に薄れている。それよりも、個人の才能をそれぞれに伸ばし、誰かが新しい創造や発見をすれば、その利益を大勢が享受できる、という社会になっている。
 つまり、個人はそれぞれ別のことをする方が効率が良い。得意なものを究め、それを実現する過程では、チームを作る必要があるけれど、同じ場所に集まらなくても良い。世界のどこにいても、情報は共有できる時代だ。すなわち、現代における最先端のチームというのは、国や企業を超えた少数によって形成される。
 そういった世の中にあって、マスコミやエンタテインメントは、まだ身近な人間関係に縛られたドラマを創出しようとしている。家族愛、友情、絆、触れ合い、助け合い、といったキーワードを大勢に押しつけて、そういった涙や感動こそが「人間性」だと主張している。だが、これは古い。現実から既に乖離している。

 事実上、家に引き籠もったままで生活が可能になってきている。仕事も買い物も、あるいは各種の手続きも、すべてネットで処理できる時代になった。
 
 引き籠もりと聞くと、なんとなく「不自由さ」みたいなものをイメージする人が多いかもしれないが、この手のライフスタイルを実践している知合いが、僕には数人いる。
 彼らは、実際には引き籠もっていない。自然の中で生活していたり、世界中を飛び回っていたりする。どこにいても、またいつでも仕事ができるからだ。仲間もいるけれど、歩調を合わせる必要がない。実際に人と会う機会がないし、また時間的にずれていても支障がない。
 子供は、大人よりも自由奔放であり、決まった時間に同じ場所に集まり、椅子に長時間じっと座っていなければならない環境に順応できない場合が多い。今まではそれを強制し、従わない子供は病人扱いを受けて排除された。しかし、大人になったら、そういう人も今なら立派に働けるだろう。椅子に長時間座らず、好きな場所で好きなときに好きなだけ作業をする。自分のペースで仕事をする。誰かと歩調を合わせなくても良い。そんな職種は増えている(ただし、それなりの技量を身につけるために勉強は必要だし、仕事をなれば、シビアな競争も当然ある)。
 けれども、子供のうちは、そういった個別で自由なタイプの学校がない。少なくとも日本にはない。大人になるまで我慢をしなければならないのが現在の実情だ。これは、おかしな話ではある。
 好きな時間に、好きな場所で勉強ができる。先生と時間がずれていても質問ができ、授業が受けられるシステムは、今の技術でいとも簡単に実現できるはずなのに、何故、そういった学校を作らないのだろうか?


 森先生は、現在の「みんなが指定の時間に教室に集まってやる勉強」を完全に否定しているわけでもないのです。
 「自分よりも能力のある子供を見ることも勉強になるし、逆に、自分よりも能力がない子供を見ることも同じくらい大事な機会だ」とも書かれています。
 今回の新型コロナウイルスの流行で、僕自身も「リモートワークやネットを使っての授業というのは、やればここまでできるものなのか」と痛感しているのですが、その一方で、医療関係者や宅急便の配達員、コンビニ店員やゴミ収集を行う人のように、「現状では、人間がやるしかない仕事」が少なからず存在していて、それが社会を支えるには不可欠であることを思い知らされました。
 ネットだって、サーバーは「モノ」であり、それを管理・運営する人がいないと機能しないのです。

 だから昔のやり方に戻ろう、という話ではなくて、それこそ「人それぞれ合ったやり方があるのだから、全ての人が引き籠もる必要もない」ということなのだと思います。
 実際、人間関係抜きで、能力と成果だけで評価される世の中というのは、かなり生きづらいのではないか、という気もしますし。

 本書は、子供向けの本ではないし、子供に勉強させたい親が読んでも、ほぼ意味がない。もし子供に勉強させたかったら、まず親が勉強すること。親が勉強に熱中している姿を見せること。そうすれば、「なにか楽しいことがあるのだな」という雰囲気が子供に伝わるはずである。教育とは、本来そういうものではないか、と僕は考えている。


 とりあえず、大人が勉強することが大事なのは、間違いないと思います。
 しかし、思い返してみると、僕の両親が、新聞や週刊誌以外の本を読んでいた記憶って、ほとんどないんですよね。
 結局、人というのは、他者の影響を受けることもあれば、なぜだかわからないけれど、突然変異的に何かをやりだすこともある、としか言いようがないのかもしれません。
 それでも、勉強は、しないより、しておいたほうがいい。

 ……って、森高千里さんが歌っていたのは、今でも覚えています。


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