琥珀色の戯言

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【読書感想】「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考 ☆☆☆☆☆

「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考

「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考

  • 作者:末永 幸歩
  • 発売日: 2020/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


Kindle版もあります。

内容紹介
★各氏が大絶賛!!
藤原和博氏「美術は"思考力"を磨くための教科だったのか! とわかる本」
山口周氏「"考える"の前に"観る"がある。"観る"がなければ"考える"もない」
中原淳氏「爆発的に面白い!! 『図工2』の僕が、現代アートに惹かれる理由がわかった」
佐宗邦威氏「人間の"知覚"と"表現"という魔法の力を解放してくれる一冊! 」

700人超の中高生たちを熱狂させ、大人たちもいま最優先で受けたい授業が書籍化!!

_____

いま、論理・戦略に基づくアプローチに限界を感じた人たちのあいだで、
「知覚」「感性」「直感」などが見直されつつある。

本書は、中高生向けの「美術」の授業をベースに、

  • 「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、
  • 「自分なりの答え」を生み出し、
  • それによって「新たな問い」を生み出す

という、いわゆる「アート思考」のプロセスをわかりやすく解説した一冊。

論理もデータもあてにならない時代…
20世紀アートを代表する6作品で「アーティストのように考える方法」が手に入る!
「自分だけの視点」で物事を見て、「自分なりの答え」をつくりだす作法が身につく!

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「これまで担当した100冊近くの書籍のなかで、
間違いなくいちばん面白いなーと思いながらつくりました」(担当編集)


 僕はもう半世紀近く生きてきたオッサンなのですが、この本を読んでいて、なんだか悔しくなってきたのです。
 僕が美術館とか博物館、水族館に時間をつくって行くようになったのはこの10年くらいです。
 おかげで、出張の際などに、時間をもてあますことはなくなったのですが、「現代アート」は、ずっと苦手でした。
 アンディ・ウォーホルは、なんだかカッコいい、とは思うけれど、スープ缶は「アート」なのか?
 マルセル・デュシャンの『泉』が「アート」だなんて、言いくるめられているみたいで、やっぱり腑に落ちない。

 けっこういろんな作品をみたり、本を読んだりして、ようやく最近になって、現代アートを「俺を説得してみろ!」と思いながら観られるようになってきたのですが、僕が子どもの頃にこの本を読んでいたら、あるいは、この授業を受けていたら、美術館の現代アートのコーナーを「はい、観たことにする!」と足早に駆け抜けずに済んだはず。

 タイトルは「13歳からの」となっているのですが、大人も読めます。というか、「現代アートなんてわけわかんない、そもそも、なんであれが『アート』なの?」と思いながら生きてきた僕のような大人たちにも、ぜひ読んでみていただきたい。読んでいてなんだか自分の世界が広がっていく感じがしますし、自分の子どもにも読ませてみたくなりますよ。

 さらに深刻なのは、私たちは「自分だけのものの見方・考え方」を喪失していることに気づいてすらいないということです。
 話題の企画展で絵画を観賞した気分になり、高評価の店でおいしい料理を味わった気分になり、ネットニュースやSNSの投稿で世界を知った気分になり、LINEで人と会話した気分になり、仕事や日常でも何かを選択・決断した気分になっている。
 しかし、そこに「自分なりの視点」は本当にあるでしょうか?

 いま、こうした危機感を背景として、大人の学びの世界でも「アート的なものの考え方」が見直されています。
 一部ではこれは「アート思考(Art Thinking)」という名称で呼ばれています。ピカソのいう「アーティストのままでいられる大人」になるための方法が、ビジネスの世界でも真剣に摸索されているのです。

 ところで、「アーティストのように考える」とはどういうことなのでしょうか?

 結論からいえば、「アート」とは、上手に絵を描いたり、美しい造形物をつくったり、歴史的な名画の知識・ウンチクを語れるようになったりすることではありません。
 
「アーティスト」は、目に見える作品を生み出す過程で、次の3つのことをしています。

(1)「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、
(2)「自分なりの答え」を生み出し、
(3)それによって「新たな問い」を生み出す

 「アート思考」とは、まさにこうした思考プロセスであり、「自分だけの視点」で物事を見て、「自分なりの答え」をつくりだすための作法です。


 この本では、20世紀に生まれた6つの作品を自分の目で見ながら、「アートとはどういうものなのか?」について考えていく形式になっています。
 いずれもかなり有名な作品ではあるのですが、その一方で、「これが『アート』なのか?」と疑問を抱く人も多いのではないかと思われます。
 ところが、この時系列に並んでいる6つの作品をじっくりと見て、思ったことを口に出し、少し手を動かしていくだけで、自分にとっての「アート」の範囲がどんどん広がっていくのを感じるのです。
 
 同じ「アート」という言葉で表現されるものでも、西欧ではルネサンスまで「神の教え」がテーマであり、それ以降は「いかにそこにあるものを写実的に、そして美しく表現するか」が重視されてきたのです。ところが、「ある技術」の発明により、人間が描く「絵画」は、大きな方向転換を迫られることになりました。
 いかに人間がリアルな絵を書こうとしても、その技術にはかなわなかったから。

 「何が描いてあるのかわからない現代アート」が生まれた背景には、そういう「(本物そっくりの)上手い絵に価値がなくなった」という時代背景があったのです。

 著者は、マルセル・デュシャンの『泉』という作品について、こんなエピソードを紹介しています。

 2018年、上野の東京国立博物館で、デュシャンの作品を中心とした企画展が開催されました。《泉》は展覧会のポスターにも使われ、目玉作品として扱われていました。
 私はこの展覧会に行った際、人々がこの作品をどのように観賞するのかをついでに観察してみたことがあります。
 
 《泉》は、腰の高さほどの白い台の上で、ガラスケースに覆われて展示されており、たくさんの人がこの作品の前で足を止めていました。なかには、この作品の姿を目に焼きつけようとするかのように、腰をかがめて作品に顔を近づけている人もいます。ガラスケースをゆっくりと一周し、いろいろな角度から作品を観察している人もいました。
 鑑賞者たちは、作品の形態・質感・表面のわずかな傷・サインなどをじっくりと見つめていました。
 そんな鑑賞者たちの姿を観察しながら、私は考えました。
 
 「もしもデュシャンがこの場に居合わせて、人々のこのような姿を見たら、どんなリアクションをしただろうか?」

 美術館で真面目に観賞していた方々には悪いのですが……きっとデュシャンは鼻で笑っただろうと思うのです。実際、彼は《泉》についてこう語っています。

 「最も愛好される可能性が低いものを選んだのだ。よほどの物好きでないかぎり、便器を好む人はいないだろう」

 前述のとおり、《泉》に用いられた便器は、デュシャンがつくったものではなく、とくに珍しい造形のものでもありません。唯一、デュシャンが自ら手を動かした「サイン」ですら、黒いインクで雑に(それも、偽名が)描かれているだけです。
 美術館で立派なガラスケースに入れられ、いかにも「どうぞ、よーく観賞してください」といわんばかりに展示されてはいたものの、やはりそこにあるのは「ただの便器」だったのです。


 「ただの便器」を記憶にとどめておこうと、隅々まで「観賞」してしまう人々……僕もその場にいたら、たぶんそうしていたと思うのですが……
 《泉》という作品に関しては、便器そのものの魅力、というよりは、どこにでもある便器を「アート」だと主張したことに対する人々の反応そのものが「アート」だとも言えるのです。

 アートって、「なんでもあり」だし、それに対して感じたことは、何一つ「間違い」ではない。「こんなのアートじゃない!」という否定すら、「アート」の一部になってしまう。
 まあでも、なんだか、煙に巻かれているような話ではありますよね。

 最近の「アート」は、もっとカオスというか、美術館にずっと展示できるようなものでもなくなっているのです。


fujipon.hatenadiary.com


 この本には、こんな「アート」が紹介されています。

 コンセプチュアル・アートは、作品の内容(扱われている題材)を重要視する芸術でした。これは作品の形式(見た目)を重視するモダニズムに対する懐疑から出現してきた潮流です。それに対し、リレーショナル・アートは作品が産出する「関係性」に強調点が置かれている芸術と理解できます。


(中略)


 ティラヴァニ(リクリット・ティラヴァニ:1961~)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれのタイ人アーティスト。現在コロンビア大学で教鞭を執っています。幼少期から外交官の父に連れ添って、様々な国での生活を体験しました。不慣れな異文化への適応や言語を共有しない人々との意思疎通の必要性は、彼の芸術実践を本質的に形作りました。

 ニューヨークのポーラ・アレン・ギャラリーでのパフォーマンス《無題1990(パッタイ)》(1990)は、彼の名を一躍世間に知らしめました。これは、文字通りギャラリーを訪れた人にパッタイ(タイ風焼きそば)を振る舞うパフォーマンスです。以降も《無題1994(ビューティ)》など展示空間で食べ物を振る舞うパフォーマンスを通して、ティラヴァニは来場者の間にコミュニケーションを創出する芸術実践を継続してきました。
 ティラヴァニはパフォーマンスに自身のルーツと関係するタイ料理だけではなく、展示先の国に特有の食べ物を用います。日本での個展のオープニングでは、焼き魚や梅干しが振る舞われました。彼の芸術実践に参加した多様な国籍の人々は、自らが属する文化圏から離れて異なる文化に触れることになります。鑑賞者は慣れ親しんだ習慣から距離を置き、新鮮な目で世界を可能性に開かれます。ここには「大地の魔術師たち」展から引き継がれる多文化主義的な関心が観察できます。


 焼きそばをつくって来場者に配るのも「アート」なのです。
 個人的には、それは「出店」じゃないのか、とも思うのですが、そういうのを「面白い!」と感じる人が多い世の中のほうが、楽しそうではありますよね。


 絵を描くのが下手だから、暗記することばかりだから、『美術』の授業なんて大嫌い!という人にこそ、ぜひこの本を読んでみていただきたい。本当の「アート」って、そういう、はみ出してしまう人たちのためにあるものじゃないか、と思えてくるはずだから。


fujipon.hatenablog.com

現代アートとは何か

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芸術闘争論 (幻冬舎文庫)

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