琥珀色の戯言

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【読書感想】私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏 ☆☆☆☆

私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

  • 作者:永江朗
  • 出版社/メーカー: 太郎次郎社エディタス
  • 発売日: 2019/11/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

内容紹介
反日、卑劣、心がない。平気でウソをつき、そして儒教に支配された人びと。かかわるべきではないけれど、ギャフンと言わせて、黙らせないといけない。なぜなら○○人は世界から尊敬される国・日本の支配をひそかに進めているのだから。ああ〇〇人に生まれなくてよかったなあ……。

だれもが楽しみと知恵を求めて足を運べるはずの本屋にいつしか、だれかを拒絶するメッセージを発するコーナーが堂々とつくられるようになった。そしてそれはいま、当たりまえの風景になった──。

ヘイト本」隆盛の理由を求めて書き手、出版社、取次、書店へ取材。そこから見えてきた核心は出版産業のしくみにあった。「ああいう本は問題だよね」「あれがダメならこれもダメなのでは」「読者のもとめに応じただけ」と、他人事のような批評に興じるだけで、無為無策のまま放置された「ヘイト本」の15年は書店・出版業界のなにを象徴し、日本社会になにをもたらすのか。

書店・出版業界の大半が見て見ぬふりでつくりあげてきた〝憎悪の棚〟を直視し、熱くもなければ、かっこよくもない、ごく〝普通〟で凡庸な人たちによる、書店と出版の仕事の実像を明らかにする。


 いわゆる「ヘイト本」は、どんな人たちがつくって、売っているのか。
 差別的だったり、断絶を煽ったりするような本が世に出ることを、出版社や書店は、どう考えているのか?

 大手書店が、韓国や中国に対する「ヘイト本」のフェアを行い、興味を引くようなPOPをつけて販促をしているのをみると、僕も正直、「この書店は、売れればなんでもいいのかよ!」と思うのです。

 でも、この本を読んで、考え込んでしまいました。
 僕自身はネットでの情報やタイトル、著者をみて、「ああ、これは『ヘイト本』だな」と認識し、買う本の候補からは外している」のですが、それは、ある意味、「ヘイト本という先入観にとらわれて、相手の主張を確認することもなく排除している」ともいえるわけです。
 本来、他者の意見を否定するのであれば、それをまずきちんと理解してからであるべきでしょう。
 そうなると、「ヘイト本を批判するには、ヘイト本(とされているもの)をきちんと読むべき」なんですよね。
 そこまで真摯になることは、現実的には難しいし、「ちゃんと読まないと、ヘイト本は批判してはいけない」というのも、ヘイト本の著者や出版社を儲けさせるだけ、という気もするのですが。


 著者は、書店からヘイト本を排除すべきだ、と言っているわけではないのです。
 もちろん、そういう本だけを集めてフェアを開催し、手書きのPOPで大々的に売るべきだ、と主張しているわけでもありません。

 著者は、福嶋聡さんの「言論のアリーナ」論について、この本のなかで何度も触れています。

 福嶋さんの『書店と民主主義──言論のアリーナのために』(人文書院、2016年)を引きながら、著者はこう述べています。

 福嶋聡は、つぎのように述べている。

 書店員は、どうすればよいのだろう? 「ヘイト本」など売りたくないと思うなら、自らの信念に従って速やかに書棚から外すべきなのか? だが、ただでさえ売上が落ちている中で、実際に売れている本を書棚から外すのは難しい。何より、「自らの信念に適う本」のみで店舗を形成・維持することのできる書店員は、まずいない。
 といって、その基準を外に求め、法規制などを望むのは、ものごとをますますおかしくする。外的な権威により規制の導入は、差し当っては強力な援軍になったとしても、必ず諸刃の剣として、自分に返ってくる。(『書店と民主主義』p.3)


 それは、単純に、判断を読者(消費者)にゆだねるということではない。自分とは違う意見の本を読むことで、自分も強くなる。ヘイト本ヘイトスピーチに反対する者は、ヘイト本を読むことで、ヘイト本を批判する力も強まるだろう。敵を論破するために敵の本を読む。まあ、敵にカネが渡るのはちょっといやだけれども。

 そして、ある言説を批判しようとすれば、相手の言っていること、書いていること、考えていることを知らなければならないのは当然である。その影響がどのような形で、どのような大きさで現れているかを知ることも必要である。対抗する思想を載せた書物を抹殺・排除することは、有効な反論をむしろ不可能にし、そうした思想を持つ人、共鳴する人が実際にいるという事実を隠しつつ温存してしまう。本を出す(パブリッシュ)ということは、公の場(パブリック)に出てくること、議論をぶつけ合う闘技場(アリーナ)に出て来てくれるということなのだ。批判する側にとって、むしろ歓迎すべきことなのである。(同p.6)


 わたしも福嶋の意見に心から賛同する。ひとりの客として、読者として、このような書店で本を買いたいと思う。もしもわたしが書店員になることがあったら(あるいは書店を経営することがあったら)、このような店にしたいと思う。


 ひとりの本好きとしては、たしかに、「こういう書店で本を買いたいと思う」のです。
 しかしながら、ここまでの勤勉さと心意気がすべての書店に求められるのであれば、ほとんどの書店は働き手がいなくなってしまうでしょう。
 いまのほとんどの書店員は安い給料+少ない人数で、配本されてきた書籍を並べてレジ打ちをするだけで目一杯、というのが現実です。
 
ヘイト本」を上梓している出版社のなかには、偉い人が「自分も嫌韓・嫌中に傾倒している」場合もあるのですが、ほとんどの出版社は「それなりに売上が計算できる本」として、やや後ろめたい思いもありつつ、出しているようです。
 雑誌が売れなくなり、どんどん規模が縮小している出版業界で、「売れないけれど、良い本」を出し続けていくためには、「内容的には多少問題があっても、売れる本」で補填していくことが必要だ、と考えている人もいるのです。
 実際、「ヘイト本」は話題になったり、それなりに売れているのに対して、「反ヘイト本」のベストセラーって、あまり聞いたことがありませんし。
 いざとなったら、「表現の自由」「解釈の相違」と主張すればいい。
 「ヘイト本」の多くは、露骨な「〇ね!」というような言葉や差別的な決めつけは避け、「あの国の伝統的な文化はこれこれで、その影響を受けているからダメなんだ」というような書き方をされていて、「アウト」にならないような工夫もされているのです。

 
 保守派の若手論客、古谷経衡さんへのインタビューでは、こんな話も出てきます。

古谷経衡:ネット右翼というのは本を読まないので。タイトルしか読みませんから。


──古谷さんのいう「ヘッドライン右翼」ですね。


古谷:そう。ヘッドラインしか読まない。アマゾンとかのヘッドラインしか読みませんから。本を買ったとしても読まないので。


──嫌韓反中本を買うのは圧倒的に高齢者が多いようですが。


古谷:そうです。70歳前後が中心ですから。ネット右翼はもう少し若くて40代。彼らは動画に依拠しています。でも(ヘイト本のつくり手は)そういう構造を知らないので、40代が買っていると思っているんですよね。最近はだいぶわかってきましたけど。当時はネット右翼が買っていると誤解していた。寄稿している人が「韓国はけしからんという記事をオークラのムックに書きました」とツイートしたら、リツイートが100件以上も来るわけですよね。編集者は喜びますが、実際はそのうちの何人が買っているのか。買っているのは(リツイートする世代より)もっと上の世代なのに。


 関係者の話を読むと、「ヘイト本」の読者は高齢者が多くて、若い人たちはネットで活動しているけれども、若いといっても40代。さらに、「ヘッドラインしか読まない『ヘッドライン右翼』」!
 ただ、この「タイトルだけみて反応し、中身は読まない」というのは、ネットでは、右翼に限らず、よくある話だと思います。
 原文にあたらず、誰かの感想や反応をみただけで、的外れな怒りをぶちまけてる人は、少なからずいるのです。

 総じていえば、出版関係者の話を読むと、著者や僕のようにな書店に思い入れがある人間が危惧しているほど、いまの書店の影響力は大きくない、という気はしました。少なくとも、若者が書店に並んでるヘイト本の影響で、どんどん「右傾化」している、というわけではなさそうです。
 古谷さんは、日韓共催の2002年のサッカー男子ワールドカップと、小林よしのりさんの『戦争論』の影響が大きかったのではないか、と仰っていますが、1970年代はじめの生まれの僕には、共感できる見解です。

 とはいうものの、書店の現場の実情を知ると、個々の本の中身について書店と書店員が責任をもつのは無理だな、と思わなくもないのである。扱っているすべての書籍・雑誌について責任をもつのが理想ではあるけれども、現実はそうなっていない。この20年、どの書店も慢性的な人手不足である経営を続けるためにあちこちの経費を削って、人件費もとことん削って、なんとかしのいでいるのがいまの書店の実情だからだ。従業員を増やそうにもお金がない。
 たとえばチェーン店の場合は、ひとりの店長が「エリアマネージャー」とかなんとかいう肩書きで、四店舗も五店舗も管理していることがある。それぞれの店舗では全員がアルバイト学生とパートタイマーだったりもする。そうした店ではレジのキャッシャーと入荷した書籍・雑誌を開梱して店頭に出して並べる仕事とで従業員は手いっぱいになっていて、とても入荷した本一点一点の中身までは吟味できないというのもわかる。
 だが、それがヘイト本かどうかはタイトルでわかる。タイトルだけでわかるようにつくられているのがヘイト本だから。書店でひと月も働いていると、サブタイトルや帯のコピーを見れば、内容も想像がつくようになる。せめてそういう本の扱いだけでも変えることはできないのか。忙しいことは言い訳にならない。


 本当に「忙しいことは言い訳にならない」のか。
 結局のところ、「ヘイト本」をつくりたい、売りたい、という人は、そんなに多くはないのです。
 でも、いまの「本」に関する厳しい経済事情が、少しでもお金になりそうなものに飛びつかなくてはならない、あるいは、排除できない状況を生んでいる。
 本当は、もう少し良い本が売れる環境、本に関する仕事がお金になる状況であれば、ヘイト本は「自主規制」されていたかもしれません。
 それならもう、本屋なんか、なくなってしまってもいい、のか?


 著者は、この本のなかで、「マイノリティにあたる人々が、自分の出自を責めるヘイト本が書店に並んでいるのを目の当たりにしたときの気持ちを想像してみてほしい」と訴えています。
 こちら側からみれば、「あんなのネタみたいなもので、みんなまともに読んじゃいないよ」と思うような内容でも、名指しで非難され、敵視されている側としては、平静でいられるわけがない。「イジメじゃなくて、イジリですよ」っていうのは、いじめる側にとって都合のいい理屈でしかありません。

 書き手、編集者、出版社、書店、読者と、本の流通にそって、さまざまな人に取材して書かれているのですが、特定の誰かが悪い、というわけではなくて、それぞれの事なかれ主義や「稼がないと飢え死にしてしまう」という危機意識や「みんなやっていることだから」という言い訳が、ヘイト本を生み出し続けているのです。

 

書店と民主主義: 言論のアリーナのために

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インタビュー術! (講談社現代新書)

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