Kindle版もあります。
第19回大佛次郎論壇賞、紀伊國屋じんぶん大賞2020 W受賞
『居るのはつらいよ』の東畑開人、待望の新書第一作!聞かれることで、ひとは変わる――。
カウンセラーが教える、コミュニケーションの基本にして奥義。
小手先の技術から本質まで、読んだそばからコミュニケーションが変わる、革新的な一冊。「「聞いてもらう技術」? ふしぎな言葉に聞こえるかもしれません。その感覚をぜひ覚えておいてください。このふしぎさこそが、「聞く」のふしぎさであり、そして「聞く」に宿る深い力であって、この本でこれから解き明かしていく謎であるからです。」
――本文より
人の悩みというのは、結局、お金か人間関係に尽きる。
誰が言っていたのかは忘れてしまいましたが、確かにその通り、ではあるんですよね。
僕も他者とのコミュニケーションにはずっとコンプレックスを抱えており、いろんな本を読んだり、話を聞いたりしてきたのですが、ピンと来ないというか、コミュニケーション能力が向上したというよりは、めんどくさい人間関係を減らして生きていくようになってしまいました。
この新書がAmazonのランキングの上位に入っているのを見たときも、「ああ、また『聞く力』『コミュニケーション技術』の本か……」と思ったのです。こういう本を読んだときには、いつも「参考になるなあ!」という気分になるのですが、けっこう「研究」してきたはずの僕の現状を考えると、本を読んだくらいで「聞く力」が身につくものでもなさそうです。
そんなに人と話すことが好きなら、こんなに読書ばかりしてないし。
著者はこの本の冒頭で、「聞く」と「聴く」の違いをこんなふうに述べているのです。
受動的なのが「聞く」、能動的なのが「聴く」。
あるいは、心理士としての僕なりに定義するならば、「聞く」は語られていることを言葉通りに受け止めること、「聴く」は語られていることの裏にある気持ちに触れること。
そんなふうに整理してもいいかもしれない。
著者は「ずっと、『聴く』のほうが難しい、レベルが高いと思っていた」そうです。
僕も読みながら、そりゃ、相手の気持ちを考えながら一生懸命傾聴するほうが難しいよなあ、と感じていたのです。
ところが、この文章の続きには、こう書かれています。
浅はかでした。
どう考えたって、「聴く」よりも「聞く」のほうが難しい。
「なんで?」と思われるかもしれません。
でもね、「話を聞いてくれない」とは言うけれど、「話を聴いてくれない」と書くと違和感があると思いませんか? 「聞けない」ことはよくあるけれど、「聴けない」というのはすごくレアな例です(イヤホンが壊れたときくらいですかね)。
つまり、「なんでちゃんとキいてくれないの?」とか「ちょっとはキいてくれよ!」と言われる時、求められているのは「聴く」ではなく「聞く」なのです。 そのとき、相手は心の奥底にある気持ちを知ってほしいのではなく、ちゃんと言葉にしているのだから、とりあえずそれだけでも受け取ってほしいと願っています。
言っていることを真に受けてほしい。それが「ちゃんと聞いて」という訴えの内実です。これが本当に難しい。僕らにはどうしても相手の言うことを真に受けることができないときがあるからです。
たとえば、「愛している」と言われて「この人、遺産狙いなんだろうな」と思う時、僕らは真意を読み取ろうとして、目の前にある言葉を無視しています。
あるいは、「あなたの言葉に傷ついた」と言われて、すぐさま「でも君にも問題があってさ」と考え始めるとき、僕らは相手の言葉を一瞬で跳ね返しています。
僕らには聞きたくない時があり、聞く余裕がないときがある。「聞く」は声が耳に入ってくることだから簡単そうに見えるけど、僕らはしばしばその耳を塞いでしまうのです。
僕自身、仕事で他者の話を「聴く」ことはできるのに、なんで身内や仲間内のコミュニケーションがこんなに重荷に感じるのだろう、と思うことが多いのです。
「まったく耳に入らない」と「仕事で接する人たちに対するように丁寧にリアクションしすぎる」の間、「ちょうどいい塩梅で受け止める」ということが、けっこう難しい。
著者は「聞くための小手先の(というか、ちょっとした具体的な)技術」を紹介しています。「その話にふさわしい時間や場所を相手に決めてもらおう」とか「沈黙や表情をうまく利用しよう」などです。
しかしながら、話はそれで終わりません。
ただし、実は問題があります。
小手先が使えるのって、余裕のあるときだけであることです。余裕がなくなると、小手先のことなんて考えていられなくなります。違いますか?
しかもね、余裕がある時には、小手先なんかなくても、僕らは人の話をきちんと聞くことができます。だって、「聞く」ってみんなが普段からやっている、人間の基本的な営みなのですから。
わかりますか? ここが難しいんです。
うまく話を聞けないから、あなたは聞く技術を必要としている。だけど、聞けないのはあなたが余裕を失くしているからであって、そういうときには小手先を教えられても、うまく使えません。
世に流通する聞く技術が抱える根本的な矛盾がここにあります。
だとすると、必要なのは小手先以上のことです。僕らは小手先の向こうへ行かなくてはいけない。
ならば、余裕がなくなるのはどういうときなのか?
答えはシンプル。相手との関係が難しくなっているとき、これです。
ムカつく同僚の話、ギクシャクしているパートナーの話、対立しているチームメイトの話、こういうものを僕らは聞けません。頭では5秒待とうと思っていても、1秒たりとも待てなくなり、即座に反論してしまいます。
それだけじゃない。
相手も穏便じゃないから、秘伝オウム返しなんて使おうものなら、ムカつかせること間違いなし。
詳しく尋ねるための小手先だって「うるさい! どうしてそんなこともわからないんだ!」って気分を害するものになってしまいます。
聞くことの本質は、相手との関係性にあるということです。
関係がよければ話を聞けるし、関係が悪くなったなら、話を聞けなくなります。
話が聞けないのは、技術がないからではなく、関係が悪くなっているからです。だから、次のように問わなくてはなりません。
相手との関係が悪くなったとき、それでも話を聞くためにはどうしたらよいのか?
答えはシンプル。
まずは聞いてもらう、からはじめよう。
僕は以前、数ヶ月間海外を旅していたときに、「言葉が通じない」ことにすごくストレスを感じ続けていたのです。
英語が得意、とは言い難いけれど、それなりに勉強もしてきて、まあ、日常会話レベルなら、できるんじゃないかな、と思っていたんですよ。
ところが、観光地の店員さんなどは愛想よく僕の話を聴こうとしてくれるけれど、日本人や観光客が珍しい場所では、「英語が苦手な外国人」に、早口で何かまくしたててきて、こちらの言葉には「は?」と肩をすくめて立ち去ってしまう人が多かったんですよね。
そうやって「言葉も通じない人」として見下されているように感じはじめると、どんどん話す自信を失っていきました。
中には、こちらが困っているのを見かねて、拙い英語でも、なんとか聞き取って助けてあげよう、としてくれた人もいたんですけどね。
結局のところ、コミュニケーションというのは、小手先の技術よりも、「相手がこちらの話を聞こうとしてくれているか」のほうが、大きいのだと思います。
恋人時代は、側から見ればくだらないやり取りでも、「心が通じている」ように感じていても、結婚して関係が悪くなってくると、真面目に話し合おうとしても、罵声のぶつけ合いになってしまう。そうなると、もう、何を言っても通じないし、傷つけ合うだけ、と、話そうとすることさえ無くなってしまう。
コミュニケーションの技術が拙いから、人間関係がうまくいかない、というよりは、お互いに好ましく思っていれば何をやっても許し合えるし、いけすかない奴のやることは、なんでも気に障る。
仕事などで「聴く」ことにはテクニックを活かせても、親しい人、身近な人の話をうまく「聞く」のは、人間関係がこじれてしまうと、どうしようもない面があるのです。
おそらく、今「聞く」がこれほどに必要となっているのは、社会が慢性的な欠乏状態にあるからなのでしょう。
「失われた30年」と言われるように、僕らの社会は残念ながら、うまくいっていません。少子高齢化や格差など課題は山積みで、多くの人が不安を抱えています。
そして、それを短期的に解決することも、社会にはできません。ある課題をケアすれば、別の課題が生じるというように、資源が圧倒的の不足しているから、人々の痛みを消すことができずにいる。
余裕のない社会がそれでも社会であり続けるために、「聞く」が求められています。しかし余裕がないからこそ「聞く」自体が不全に陥っている。
これが僕らの置かれている状況です。
ポイントは孤独です。
孤独こそが聞かれねばならないのですが、孤独を聞こうとすると、聞く人も孤独になります。そして、孤独になると、人は聞くことができなくなります。
「聞く」の中核にあるのは孤独の問題です。
自分の側に余裕がないと、「聞く」のは難しいと著者は述べています。
本当に、その通りだと思います。
僕自身、なんで他者にあんなにきつく当たったり、話をちゃんと聞かなかったのだろう、と後悔することは多々あるのですが、そういうときは、僕自身も心に余裕がなかったんですよね。
でも、こちらの事情はさておき、相手にとっては「まともに話を聞いてくれない人」でしかありません。
余裕がない、孤独な人間どうしが、お互いに「聞いてもらおう」とすることが悲劇を生むのです。実際は、そんな状況ばっかりなんですが。
自分がちゃんと聞いてもらえているときにのみ、僕らは人の話を聞くことができます。聞いてもらわずに聞くことはできない。
必要なのは体をモジモジとさせて、「ちょっと聞いて」と言うことです。誰かに話を聞いてもらってください。
いや、それじゃダメなのかもしれない。
「ちょっと聞いて」と言うためには、まわりに「なにかあった?」と言ってくれそうな人がいなくてはいけない。希望がないときに、僕らは助けを求めることができないのだから。
だとするならば、必要なのはまず「聞く」かもしれない。
……聞く技術……でも……聞いてもらう技術……しかし……聞く技術……とはいえ……聞いてもらう技術……
ああ、話が堂々巡りになってきた。
どっちでもいいはず。
あなたに可能な方から始めるしかない。
誰かの話を聞いてもいいし、誰かに話を聞いてもらってもいい。
どちらから始めても、「聞く」はきっとグルグルと回りはじめるはずだから。
「聞けない」と「聞いてもらえない」の悪循環を、「聞く」と「聞いてもらう」の循環へ。
「聞く技術」と「聞いてもらう技術」。
どちらも大事ではあるのだけれど、当事者のどちらか一方がどんなにすごい技術を持っていても、相手が心を完全に閉ざしていれば、「通じない」のです。
何かの「きっかけ」があれば、うまく回っていきそうなのだけれど、その「きっかけ」はどうすれば生み出せるのか、著者自身も決定的な答えを出せてはいないのです。
そして、「わからないことは、わからないとちゃんと表明されている」からこそ、この本の「真摯さ」が伝わってきました。
ああ、みんなうまく聞けない、聞いてもらえないことで悩んでいるんだよな、自分だけじゃないんだ。
それに気づくだけでも、少しラクになる、そんな本だと思います。