琥珀色の戯言

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【読書感想】ドリフターズとその時代 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

戦後日本で大衆の心性をつかみ、最高視聴率50・5%のお化け番組「8時だョ!全員集合」を生んだザ・ドリフターズ。本書は演劇研究者の著者が、これまでなされなかったという「ドリフを歴史的に位置づけ、全体像を描き出そうという試み」に挑んだ異色作。

いかりや長介を家長に、チームワークの笑いを追求したメンバーらの軌跡を、その時代とともにたどり、「日本人にとってドリフとは何だったか」に迫る。


 僕が小学生の頃は、現在のように週休2日が主流ではなく、学校の休みは日曜日だけでした。
 学校があまり(というか全然)好きではなかった僕にとっては、明日は学校に行かなくてもいい土曜日の夜は、タイムボカンシリーズとドリフの『全員集合』を観ながら安心して過ごせる、週に一度の至福の時間だったのです。

 『オレたちひょうきん族』が登場し、「何が起こるかわからない、ハプニングと楽屋オチの笑い」の登場によって、僕も「ドリフはもう古い」と、『ひょうきん族』に乗り換えたのですが、いま、2022年になっても、ドリフの番組がCS放送ではキラーコンテンツになっていたり、地上波でもしばしば採りあげられているのに比べて、『ひょうきん族』が再評価される機会は少ないのです。

 それは、作り込まれた、台本をしっかりつくり、リハーサルを重ねたコントと、その場の「ノリ」を重視した笑いの違いであり、どちらかが優れている、というわけではないのですが。

 いかりや長介さんや居作昌果さん(「全員集合」プロデューサー)をはじめとして、当時の関係者が『全員集合』の内側を語っている書籍は少なからずあるのですが、この本は、後世から、あるいは外部から「俯瞰した『全員集合』を語った」ものです。

 徹底的にアイデアを出し、台本をつくり、きちんとリハーサルをして観客の前での一発勝負の「本番」に臨む、というドリフターズのやり方は、メンバーやスタッフに大きな負担をかけるものでした。
 しかしながら、そのおかげで高視聴率を長年維持し、メンバーやスタッフには大きな成功をもたらしたのです。
 ただ、視聴者が「テレビに予想外のハプニングを期待する時代」になると、ドリフのコントは、「完成されすぎていて物足りない」と感じられるようになっていったのです。

 そして、ドリフターズの中でも、すべてを仕切っていた、いかりや長介さんの独裁期から、志村けんさんの台頭による世代交代が起こりました。

 志村さんは「いかりやさんのセンスはもう古い」と感じ、『全員集合』のネタ会議にも、いかりやさんは参加しなくなってしまうのですが、「ドリフターズの歴史とその後」を考えると、「アドリブ任せではない、台本をきちんと作り込んだ笑い」を追い求めたという点で、志村けんさんは、いかりや長介さんと同じ道を進んだ唯一無二の後継者だったのです。

 もし、ふたりがもっと長く生きていれば、どこかで、志村さんといかりやさんが「昔はお互いに意地を張っていたからな」と酒を酌み交わすこともあったのではないか、という気がするのです。

 吉川英治さんは、小説『三国志』のあとがきで、「『三国志』は、曹操にはじまって孔明に終わる、2人の英雄の物語」だと書いていましたが、『ドリフターズ』も、「いかりや長介志村けんという2人の偉大な芸人の成功と相克の物語」だと言えそうです。

 ドリフの笑いもまた、進駐軍クラブからはじまった。言葉が通じないからこその、音楽をともなった身体的な笑いが原点である。しばしば指摘されるように、『オレたちひょうきん族』などと比べて、ドリフに普遍性があるといわれる所以だろう。いかりやは稽古においても、「ボケ」や「ツッコミ」といった言葉ではなく、音楽用語を使っていたと語る。ドリフにとって音楽と笑いは切り離すことができなかった。
 現在、音楽と笑いはかけ離れた存在のように感じられる。だが、歴史を振り返れば、両者は密接に結びついており、ドリフこそが王道だ。エノケンは浅草オペラの出身で抜群の音楽センスをもち、芸談をするといつも音楽の話となったという。「万歳」はもともと音曲をともなう芸能で、横山エンタツ花菱アチャコのコンビによって「しゃべくり漫才」が隆盛となってからも、音曲漫才は根強い人気があった。日本の笑いから音楽の要素が抜け落ちていくのは、
1980年のマンザイブーム以降であり、つまりはドリフ以降である。


 僕はこれを読んで、オリエンタルラジオ出世作である『武勇伝』というコントを思い出したのです。「リズムネタ」を「安易だ」と嫌う人もいるのですが、音楽を取り入れたネタというのは「原点回帰」であるとも言えそうです。


 著者は、ドリフを支えてきた加藤茶さんについて、こんな話を紹介しています。

 現在にいたるまで五十年以上にわたって活躍している加藤(茶)だが、これまで「加藤茶論」なるものが書かれることはほとんどなかった。また、そのキャリアに比して、加藤自身が語る芸談も少ない。例えば、仲本(工事)による加藤評は次のようなものだ。

 加藤は天才だもん。思わず口をついて出ることが面白いし、いるだけでホッとするとこもあるしね。テレビに出始めのころなんて、ほんとにかわいくて、いい男でしたよ。今でいうと、お笑いもできるアイドルみたいだよね。だから加藤は天才、志村は秀才かな。(文春オンライン)


 加藤は自分でネタを発想するよりも、相手にあわせてリアクションし、ネタを膨らませる才能があった。居作昌果に言わせれば、受け身の形で笑いを生み出す「柔」のタイプである。一方、いかりやと志村は物事を突き詰めて考え、理屈と計算で動くタイプだった。加藤は次のように語る。「僕は、他人が考えたものでも面白くできちゃう。志村と長さんは自分が考えたものじゃないと面白くできないんですよ。人が考えたものは絶対に受け入れないし、受け入れられないんですよ」(『EX大衆』2009年3月号)。加藤は二人のどちらが考えたネタでも、絶妙な間とリアクションで実演し、融通無碍に笑いをとっていった。そこにはやはり、天性の才能が感じられる。


 いかりやさんと志村さんは、ともに「自分が考えたことしか面白くできない」がゆえに、『全員集合』の末期には、主導権争いが起こってしまったのです。
 そして、この本を読むと、加藤茶という「他人が考えたことを面白くできる天才」の存在が、ドリフの要になっていたことと、仲本工事高木ブーの二人も、ネタでの役割だけではなく、独裁的になりがちないかりや長介さんと周囲とのバランスをうまくとるために不可欠な存在だったことが伝わってきます。
 大槻ケンヂさんが『高木ブー伝説』という曲で、「オレは何もできない高木ブーだ!」と歌っておられましたが、穏やかな高木さんは、いかりやさんにとって数少ない「愚痴をこぼせる相手」だったのです。
(もちろん、大槻ケンヂさんも、高木ブーさんをバカにしていたわけではなく、そういう「役割」を理解していたと思いますし、「こんな曲を歌わせておいていいのか」と、いかりやさんや所属事務所が問題視した際に、高木さんは「若い奴が馬鹿やってるんだから許してあげようよ」とむしろ擁護し、許可を出したという話もあります)

 いかりやさんと志村さんの「不仲」が喧伝されるようになり、二人がコントで共演することも長年なくなってしまうのですが(志村さんが「いかりやさんとは一緒にやりたくない」と言っていたという関係者の話も紹介されています)、いかりやさんが個性派俳優として評価されるようになり、志村さんも、『全員集合』のときのいかりやさんと同じような立場で番組を仕切る立場になって、わだかまりは改善されつつあったようです。
 

 二人は師匠と弟子でありながら、同じグループのメンバーになった。その複雑な関係性が、愛憎入り交じった感情を生んだのだろう。それにくわえて、周りが詮索しすぎた面もある。私も含めて、ファンはみなドリフの関係が気になるのだ。いかりやは亡くなる二年前、志村との仲を次のように語った。私はこの言葉を信じたい。

 私と志村じゃ、十九も年が違いますからね。仕事以外では、なかなか分かりあうのは難しいかもしれません。でも、不仲というわけじゃない。(『person』2002年4月号)

 2004年3月20日午後3時30分、いかりやは入院先の病院で永眠した。


 思えば、いかりやさんも、志村さんも、グループとしての活動がほとんどなくなってからも、ずっと『ドリフターズ』のメンバーであり続け、その一員として亡くなったのです。

 メンバーだけではなく、スタッフ、あの『全員集合』のセットを作っていた人たちや、ライバルだった萩本欽一さんのことにも触れられていて、「あの時代に『ひとりの観客』として観た『ドリフターズ』」を僕もあれこれ思い出さずにはいられませんでした。

 本番中に急に停電になった回は、当時、『全員集合』の人気が落ちてきていたなかで、ものすごく話題になり、視聴率も高かったそうなのですが、今思うと、「徹底的に作り込んだ完成度の高いコント」よりも「ハプニング」が人々を引き付ける時代になった象徴とも言えますよね。


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