Kindle版もあります。
お別れの言葉は、言っても言っても言い足りない――。急逝した作家の闘病記。
これを書くことをお別れの挨拶とさせて下さい――。思いがけない大波にさらわれ、夫とふたりだけで無人島に流されてしまったかのように、ある日突然にがんと診断され、コロナ禍の自宅でふたりきりで過ごす闘病生活が始まった。58歳で余命宣告を受け、それでも書くことを手放さなかった作家が、最期まで綴っていた日記。
サッカーのワールドカップやオリンピックの時期がやってくるたびに、若い頃から、僕はこう思っていました。
「あと何回、自分はワールドカップ(あるいはオリンピック)を観ることができるのだろう?」
僕はスポーツを自分でやるのは苦手ですし、スポーツ観戦も広島カープの試合以外は、世間で話題になっているものくらいは乗っかって観戦する、という程度なのですが、何年かに一度、定期的にやってくる大イベントというのは、自分の「余命」を意識するきっかけになっているのです。
いま50歳だから、まあ、あと3回くらいは……でも、それでは男子日本代表のW杯制覇は、観ることができそうにないな……
人類の歴史や、いま、ウクライナで起こっている戦争を思えば、次の大会が無事に開催されるという保証はどこにもないし、そもそも、自分がいつまで生きていられるかなんてわからない。僕の両親は50代で亡くなっているのです。
山本文緒さんの訃報には、驚きました。
58歳という年齢は、この時代に人が亡くなるには早すぎますし、2020年に上梓された、山本さんの『自転しながら公転する』は、ベストセラーになり、僕も「山本文緒さん、復活したなあ!」と思っていたのです。
上記の感想にも書いているのですが、僕は「恋愛小説」というのが昔から苦手で、山本文緒さんは「恋愛成分が多すぎて、あまり手に取らない作家」のひとりでした。
でも、『自転しながら公転する』は、けっこう素直に読めたし、良い作品だと感じました。
あらためて、山本さんの作品を読んでみよう、と思っていたのに。
山本さんは2021年4月に膵臓がんと診断され、その時にはすでに最も進行している「ステージ4b」だったのです。
抗がん剤の治療も試みてみたものの、副作用がひどくて断念し、緩和医療をすすめ、なるべく自宅で過ごしていく方針となった、2021年5月からの日記が収録されています。
読み終えての僕の印象は、少なくとも、この日記に書かれている範囲では、山本さんは「自分に酔わない人」あるいは「自分に酔った姿を他人に見せたくない人」だったのだな、というものでした。
もう余命4ヶ月、とか言われたら、「もっと生きたい!死にたくない!」みたいな心の揺れや葛藤だってあったと思うのです。毎年健診を受けていたのに、こんなに進行するまで癌が見つからなかったことに対して、言いたいこともあったはず。
山本さんは、病気が進行し、身体的・精神的に辛い状況になっても、いや、なっていけばいくほど、「作家」として、自分の身体に起こっていること、日々考えていることを淡々と記録しているのです。
「末期がん患者の山本さん」を、「作家・山本文緒」として記録し続け、そして、自分のことよりも、残されるであろう夫のことや、周囲の人にお別れをすることばかり気にしているようにも見えます。
そして思うのは、この文章のこと。
私はこんな日記を書く意味があるんだろうか、とふと思う。
こんな、余命4か月でもう出来る治療もないという救いのないテキストを誰も読みたくないのではないだろうか。
これ、『120日後に死ぬフミオ』のタイトルで、ツイッターやブログにリアルタイムで更新したりするほうがバズったのではないか。
でもそれは望んでいることからはずいぶん遠い。そんなことだから作家としてイマイチなのかもしれない。
だったら何も書き残したりせず、潔くこの世を去ればいいのに、ノートにボールペンでちまちま書いてしまうあたりが何というか承認欲求を捨てきれない小者感がある。
せめてこれを書くことをお別れの挨拶として許して下さい。
僕自身も、山本さんの域には程遠いものの「書かずにはいられない人間」だと思っているので、自分がそんな状況になったら、どうするだろうか?と考えながら読みました。山本さんが「やり方によっては、バズる(大きな話題になる)のでは」と書かれているのも、「書きたい、読まれたい人間の一面」ではありますよね。人生そのものを「ネタ」にしてしまう。逆に「ネタとして昇華できる」から、生きていける、死んでいけるところもある。
僕だったら、もっと「命や生きることの大切さについて」とか、説教がましく書き連ねてしまうのではないか。心残りや愚痴ばかりを遺してしまうのではないか。
正直、この日記に関しては、「書かれなかったり、本にするにあたって、削除されたりしたところ」もあるのではないか、と僕は想像しています。
山本さんは、こんな「遺書のような日記」を書きながらも、「読んでいる人や残された人たちが、あまり悲しくなったり、いたたまれない気持ちになったりしないように」配慮しているようにみえます。
あるいは、「まだもう少し書けるのではないか」と思っているうちに、病勢が進行して、その日が来てしまったのかもしれません。
私はなんとなく自分の寿命を90歳くらいに設定していて、贅沢をしなければその辺りまでは生きていけるお金を貯めた。
そのお金は私に安心を与えたけれど、今となってはもう少し使っても良かったのかもしれない。例えばもう仕事は最低限にして語学をやったり体を鍛えたり、お金じゃなくて時間のほうを使えばよかったのかもしれない。
でもどんな人でも自分のデッドエンドというのは分からないものだ。この後に及んでまだ私はデッドエンドを摑めていなくて、安くなっていたパジャマを買ったりしている。
読み終えて、「えっ、これで、ここで終わり?」みたいな感じもしたんですよ。
当たり前のことなんですが、実際の人間の死というのは、「ほんとうは、君を、ずっと愛していた……(ガクッ)」「ご臨終です」みたいなドラマチックなものではないことがほとんどです。
人って、こんなに中途半端というか、キリが悪い感じでも、命を終えてしまうのだな、と、あらためて思い知らされます。
余命が限られた状態でも、体調が落ち着いているときは、ギリギリまで「普通の生活」をしている、しようとしている、ということも。
がんの末期であっても、好きな作家の本は面白いし、NetflixやYouTubeを観ながら、何気なく過ごす時間もあるのです。
いろいろと、スッキリしないからこそ、この本には「ナマの人間の生きかた、死にかた」が描かれているような気がします。
最期まで「作家」だった山本文緒さん、この本を読んだ人がどんな感想を持ったか、知りたかっただろうなあ、それだけは心残りだったかもしれないな、と思いつつ。