琥珀色の戯言

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自伝の人間学 ☆☆☆☆


自伝の人間学 (新潮文庫)

自伝の人間学 (新潮文庫)

自分を哂してこそ、自伝は面白い。本田宗一郎から湯川秀樹ビートたけし山口百恵まで。自分史を書こうとする人も必読!

人はなぜ自伝を書くのか? 自己の記録が大好きな日本人は、数多の自伝、回想録を残している。しかし、その作品群には身を切るような深い自省や貴重な記録性がある一方で、醜い自己誇示もある。実業家、ノーベル賞科学者からスポーツ選手、タレント、そしてテロリストの自伝までをも俎上に載せ、その人間性を徹底的に探究する。自分史を書きたい人も必読。『自伝の書き方』改題。

 この本が新潮選書の一冊として最初に出版されたのは1988年だそうです。正直、なぜ20年前のものを今さら……という気がしたのですが、読んでいて、意外と「古い」という感じはしませんでした(もちろん、最近の「自伝」は採り上げられていませんが)。
 というか、この本、「自伝の紹介」というよりは、著者の保阪正康さんが、「『自伝の評論』というのを名目に、自分が嫌いな有名人たちをこき下ろして快哉を叫ぶための本」だとしか思えないんですよね。
 佐川急便の創始者、佐川清さんの自伝『ふりむけば年商三千億』に対しては、

 佐川は、いじめられっ子が自殺することに腹を立てている。「どうして人にいじめられたくらいで死を選ぶのだ」と胸ぐらをつかんで叱りつけたい気持がするそうだ。その理由というのは、次のようなことだ。
<ただ、佐川清という、現在いささか社会のお役に立っている人間にもこんな時代があったのかとい、今、いじめられている子供たちにこの本を読んで貰い、その中から何か、私の望みをいわせて頂ければ「生きる希望」「生きなければならない」という気持ちを奮い起こしてくれれば、と思うのである>
 前述の論をもういちどくり返すが、人は成功者になるとなぜ講釈をたれたがるのか。ビジネスの成功者が人間修練の極地を極めたと錯覚するためだろうか。いや創業者たちの自伝や自分史を読んでいくと、しだいにわかってくることなのだが、彼らは成功するにつれ、自らの周囲の人物の甘言に馴らされていくのである。外部の人間とて、経済的な利益を得るために、甘言を無責任に弄するのである。その結果どうなるか。自らは相応の人物だと錯覚してしまう。それが彼らのテリトリーの間なら許されるが、ひとたび利害関係のない荒野にでると、”裸の王様”になってしまう――そのことに気づいていないのだ。佐川の自伝はその典型である。佐川の自伝を読んで、自殺を思いとどまる少年がいるとはとうてい思えないが、彼がそう信じることが裸の王様になっているのだと自省してみるべきなのではないかと、私には思えるのである。

 という、かなり辛辣な評を書かれているのですが、これはまだほんの一例で、筆者はこんな感じで有名人たちの「自伝」をメッタ斬りしまくっているわけです。いや、僕もこういう本を読んで自殺を思いとどまる青少年がいるとは思えませんが、これって、「自伝に対する評論」を超えて、「人格攻撃」にエスカレートしてますよね。この本の3分の2くらいは、こういう感じの内容なんですよ、ものすごいことに。
 まあ、だからこそ「毒にも薬にもならないタイコ持ちの紹介本」よりは「ひきつけられる」のですけど。
 「人間学」というより、「偉い人たちに上から目線で噛み付きまくっている、勘違いしたオッサン(保阪正康氏)の暴走っぷりを生温かく観察する本」としてなら、一読の価値はあると思います。要するに、一種の「トンデモ本」なんですけどね。

 人はなぜ自伝を書くのか。いやなぜ書きたがるのか。
 自伝とは、そもそも近代人の自我の表出で……といった堅苦しい論は一切抜きにして、初めに結論をいってしまえば、次の二つに収斂できる。つまり「書きたいから」とそれと対極に立つ「書きたくないから」の二点である。私は、明治期からの有名無名を問わず多くの人の伝記本に目をふれてきたが、「人はなぜ自伝を書くのか」という設問を根底に据えて読んでいけば、「書きたいから」と「書きたくないから」のいずれかによって、人は自伝を書いているといっていい。
「書きたいから」というのをくわしく分類すれば、
 (一)自分の人生を書きとどめておきたい(内的衝動)
 (二)自分がいかにして成功者になったか(自己誇示)
 (三)自分の人生を児孫に伝えたい(教訓)
 (四)自分の歴史的役割を残しておきたい(記録性)
 (五)自分の特異な体験を広く後世に伝えたい(特異性)
 という具合に分けられるだろう。むろんすべての自伝の根底に内的衝動があるといっていいのだが、この内的衝動にのっかる部分(自己誇示、教訓など)が多いか少ないかによって、それぞれのパターンに分かれていく。
 一方、「書きたくないから」という理由で自伝を書くといえば、何だか矛盾しているように聞こえる。しかし、明治からこの方、著名人と称される人たちの伝記本のなかには、編集者や門弟に促されて、しぶしぶ書いたという自伝も多いのだ。それに、本音をいえば決して書きたくないのだが、しかし自分が書いておかなければ、第三者によってどのように書かれてしまうのか判らないと恐れて、あえて書いておこうという自伝の類である。

 こんなふうに、けっこう興味深いところもあるのですが、どちらかというと、自伝を書こうという人にとっては、「こんな『悪意の読者』だっているんだよなあ……」というネガティブな感慨のほうが大きい本だと思われます。しかし、こんなにたくさんの人の自伝を集めて、がんばって読んだ結果の産物がこの「自伝を通じての人格攻撃集」っていうのは、なんだかとても勿体無い話ですよねえ。
 それはそれで「面白い」のだけど。

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