琥珀色の戯言

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【読書感想】ジャガー自伝 みんな元気かぁ~~い? ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

何よりも千葉を愛し、誰よりも千葉に愛された男の一生。なんでも自分で作ってみる。やってみればできないことなどなにもない。大丈夫だよ、といつも歌っていた。「洋服直し村上」のおばちゃんたちを従えて、衣装もスタジオも住居も自ら作り、音楽も録音もライブもCD制作もPVもTV番組も、すべてDIYでやっていた男の人生は、千葉の戦後史そのものであった。


 ジャガー星に帰還された、ジャガーさんの自伝(ライターによる聞き書きかもしれませんが、少なくとも本人の話が元になっていると思います)。
 僕がジャガーさんをはじめて知ったのは、『コンプティーク』というマイコンゲームから特撮、アニメ、テーブルトークRPG、アイドル、サブカル系ネタなんでもあり、という雑誌でした。
 千葉に、自分で番組を買い取ってプロモーションビデオを流している異形のミュージシャンがいる!という半ばネタみたいな扱いで、九州在住の僕にとっては『HELLO JAGUARハロー・ジャガー)』は、「一度観てみたいけれど、観る方法がなかった」のです。
 いまや、ちょっとしたレア映像みたいなものはオンデマンドで観ることができるものが多いですし、(違法なものもありますが)YouTubeにアップロードされているものもたくさんあります。
 
 ジャガーさんという人は、インターネット以前の時代に、自分が創ったものを自分の力で世の中に拡散しようとしていたわけで、地元にライブハウスを建て、ミュージシャン志望の若者たちを経営する会社で雇っていたのです。
 ジャガーさん自身は「物好きを極めたミュージシャン」みたいなイメージで、大ヒット曲があるわけではないのですが、ジャガーさんが撒いた種は、いろんなところで花を咲かせているのです。

 ジャガーさんの「帰還」が発表され、この「自伝」が出たときには、「まあ、『ジャガー史観』に沿った、本当だかウソだかわからないような自伝なんだろうな」と予想していたのです。
 読んでみると、ジャガーさんの地球上での仮名「村上政彦」さんが、持ち前の器用さと好奇心で、戦後の高度成長期の日本、そして地元の千葉で事業を成功させ、ずっと「自分でできることは、自分でやること」にこだわり続けながら生きてきた姿が直球で綴られていることに驚いたのです。

 クリーニング取次店をそこで実際に開店してみると、興味深い点にすぐに気がついた。クリーニングに出すついでに、洋服直しの依頼が山のように来たのだ。
 ジャガーのおぼろげな昔の記録だと、穴が開いたりほつれたりした洋服を直してもらいたいときは、一緒に住んでいるお母さんやおばあちゃんに頼んでいた。ところがこの辺りはそれをやってくれる人がいない。だからクリーニング店に依頼が舞い込んでくる。新興住宅街として発展を遂げつつあった本八幡には、東京に通勤する共働き・核家族がたくさん移住してくるようになって、洋服直しをする時間と人がいない家庭が増えつつあったのだ。
 ジャガーはもともと高校時代から洋裁をやっていたので、そんな洋服直しの依頼に臨機応変に対応していった。するとそっちのほうがどんどん忙しくなってきたので、クリーニングのほうは1年も経たずにやめ、洋服直しの専門店としてそれ一本でやっていくことにした。
 
 こうしてジャガーが世を忍ぶ仮の本業「洋服直し村上」が誕生する。多分、1968年のことだったと思う。
 その看板は、父が描いてくれた。その頃はまだ木更津の中学校で教師をしていて、母と妹と長浦に住んでいたけれど、ちょうどこの年から内房線は長浦まで線路が複線になり、しかも電車が走るようになった。昔と比べて長浦は少なくとも1時間以上は近くなったと思う。千葉もだいぶ便がよくなったものだ。沿線の風景も更地だった広大な埋立地が、いつしか巨大なコンビナートに様変わりしていた。


 僕はこの本を読んでいて、事業を縮小しながらも「洋服直し」という業態が現在まで続いているということに、意外な感じもしたのです。1970年代前半生まれの僕でさえ、今の感覚では、「洋服は着られなくなったら捨てて、新しいものを買う」ものなので(あまり良い服をもっていない、というのはあるのですが)。

 驚かされるのが、ジャガーさんの器用さで、学生時代には蒸気機関車の模型や自動車(オート三輪)を自作し、のちには自社ビルやスタジオも自分で設計して、自分と社員で建てています。千葉テレビで放送されていた『ハロー・ジャガー』も、自作のスタジオで撮影し、完成した状態でテレビ局に持ち込んでいたそうです。

 今、改めて記事を読み直してみると、社長が財力に物を言わせ、番組を買い取ってロックをしているという紹介のされ方が多い。それまでのロックといえば、貧乏を我慢し続けて矢沢永吉のように”成りあがる”ものだったけど、それとは真逆のルートを辿ってロック界に現れたジャガーは、「上がり成り」や「ロック界の田中角栄」と呼ばれるようになった。
 

 ロッカーになって成り上がるなんていうのはもうダサイのかもしれません。それよりは、ビジネスで成り上がって、それからロッカーに。こっちのほうが、どう見たってチャンスがありそうだし、大イバリで好きなことをやっていられる。 
                                     ──「週刊プレイボーイ」1986年9/9号


 これら紹介記事を読んで、反感を持ったロック好きもいたと思う。”金持ちの道楽”と思った人もいるかもしれない。今でこそZOZOTOWNを創業した前澤友作氏のように元バンドマンだった社長や、ロックを「続けている社長も珍しくなくなったけど、当時、社長ロッカーはまだ珍しい存在で、ある種のイロモノとして見られる部分もあった。
 それに当時は日本国中に「財テク」や「土地投機」など、お金に敏感な雰囲気が充満していた。「ビジネスで成功してからロッカーになったほうが、チャンスがありそうだ」という先ほどの記事の一文は、まるでその後続く狂乱の時代、バブルの予兆であるかのようにも見える。


 YouTubeの創成期も、「動画で人気者になって、ひと山当てたい」という無名の人たちがたくさん参入してきたわけですが、環境が整ってくると、芸能人など、他のジャンルですでに有名な人たちが自分のチャンネルを開設して、再生数を稼ぐようになりました。これもある種の「上がり成り」と言えそうです。
 「曲どころか番組さえ自分ですべて作ってしまう」というジャガーさんのやり方は、時代を先取りしていたのです。

 「上がり成り」という言葉をつくった、みうらじゅんさんとの長年の交流や、デーモン小暮閣下との「競演」など、サブカル者の僕にとってはニヤニヤしてしまうようなエピソードもたくさん収められています。

月曜から夜ふかし」に初めて出たのは、母が亡くなってほどない2015年10月のことだった。MCは、千葉は稲毛出身のマツコ・デラックスさん。番組で「HELLO JAGUAR」の冒頭が流れるや、
「アレを観て育ってるから私たちは強いのよ。あの時代の千葉県民はみんな強いの」
 そうマツコさんは言ってくれて、その日はTwitterのトレンドに「ジャガーさん」というキーワードが入ったり、ジャガーWikipediaにアクセスが集中してページが表示されなくなったりしたようだ。
「あっジャガーさん懐かしい! やだ16:9の画面で観るの初めて!!」
 そんな声もネット上で見かけた。この番組によって昔からのファンの記憶のスイッチが押されただけでなく、新しい人たちにも届いたようで、
「ねえ、マツコ・デラックス千葉テレビの話をしているんだけど、親父はこの番組のこと知ってる?」
「知ってるも何も、俺がこの番組の担当だったんだ……」
「え~~~~~っ!?」
 まさか「HELLO JAGUAR」を立ち上げた本人だと知らずに聞いた息子さんから驚かれた、元千葉テレビの櫻井守さんの姿もあった。


 この本のなかには、ジャガーさんの曲の歌詞もたくさん収録されています。ジャガーさんがつくった歌詞は、自身の体験や記憶に基づくものがほとんどで、ジャガーさんは、物事を抽象化するのが苦手、あるいは、嫌いだったのかもしれません。正直、これを大ヒットさせるのは難しいだろうな、とも思いました。
 その一方で、「その人らしさ」を突き詰めると、「個人的な体験を紡いでいくこと」しかなくて、ジャガーさんは、それを愚直なまでに続けてきた人のようにも感じるのです。
 ネットで長年文章を書いている僕も、「自分にしか書けないこと」って、結局「自分の日記」しかないのかな、という気がしています。

 ジャガーさんは、ずっと古臭くて、そして、新しい。
 ダサくて、とてもカッコいい。


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