琥珀色の戯言

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【読書感想】昭和史の本質 良心と偽善のあいだ ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「国民の九割強は良心を持たない」――芥川龍之介の言葉を裏付けるかのように、時流におもねる偽善は、軍人にかぎらず政治家や知識人、多くの大人たちにも見てとれる。三百万を超える犠牲者を出したあの戦争、敗戦とともに始まった戦後民主主義……日本人は、いったいどこで何を間違えたのか。近現代の名作に刻まれた一文を手掛かりに多彩な史実をひもとき、過去から未来へと連鎖する歴史の本質を探りだす。


 保坂正康さんが、さまざまな作家の代表作の一節を抜き出して、それに関わる昭和史の史実とあわせて語った本です。
 
 このなかで、芥川龍之介の「国民の九割は良心を持たぬものである」という『侏儒の言葉』に収められている「修身」というタイトルの一節が紹介されています。

 この「良心」に関して、著者は、こんな事例を紹介しているのです。

 昭和31年3月の衆議院内閣委員会公聴会の記録を講談社の現代新書で編んだ折り、監修を行ったことがある。この公聴会はこの公聴会はこの年2月に憲法調査会法案が提出されたのを受けて、憲法改正に賛成、反対の学者を呼び、自民党社会党の代議士がそれぞれ現在の憲法についてどう考えているかを質した。このときに自民党の代議士だった辻政信が、憲法改正反対の学者に、あなたの戦前の説と戦後の説は違うではないか、「あなたは学者の良心というものを、そのときどきの政権に合わせるのか」と質している。
 その学者は、用いる言葉こそ違え、基本的な考え方に違いはないと答える。すると辻はあれこれと嫌味を言う。
天皇制のもとで、可能な範囲において、あなたは学者的な発言をなさったとおっしゃるが、しからば、将来共産主義政権ができたら、共産主義政権のもとにおいて、可能は範囲であなたの言論を学者の良心としてお述べになるつもりか。私は、昔から学者というものを非常に尊敬している。われわれがいわゆる軍部におって権力をとっておったときに、軍に反対した学者に私はほんとうに敬意を表したものであります。あの薄給でもって何にも誘惑されないで……」
 辻という人物はユニークである。戦前には軍を自分たちに都合のいいようにふり回して、そして戦後は政治家となってこんな言を弄している。「学者の良心」もいいかげんだと思うが、辻に代表される「軍人の良心」もまたなんともいいかげんではないか……。


 「良心」とは何か、というのは、ものすごく難しい問題だと思うのです。
 太平洋戦争に向かっていって、あの戦争に負け、戦後の復興から高度経済成長を遂げた日本の「昭和」というのは、本当にいろんなことが起こった時代ですよね。60年以上も続き、長かった、というのもありますし。
 そんななかで、「良心」とは何か? 「良心的なふるまい」とは、どういうものなのか? というのは、ずっと問われてきたのです。
 もちろん、平成、令和になったら、「良心」なんてどうでもよくなった、ということはないのですけど。

 著者は、開高健さんの小説『裸の王様』の、「体がゆらゆらするのを感じた」という一節から、「戦後の、裸の王様たち」について語っています。

 近代日本の最大の偽善とはどのようなことを言うのだろうか。昭和史に限ってもいいのだが、その光景とはどんな絵柄であろうか。
 私の見るところ、昭和20年8月15日に太平洋戦争が終わり、新しい時代が到来した時にそのような光景はいくつか演じられたのではないかと思う。例えば戦後のある時期に良心的だと評されている教育評論家の書いた自伝を読んだ時に、なるほどこういう人たちが戦後の進歩的知識人というのかと思った。
 彼は戦前、戦時下に徹底した皇国史観の教育を行ったそうである。旧制中学校に天皇のために死ぬことを説いた。それだけではない。少年非行兵の募集時には、生徒の家に行き、お国のために尽くせと説得した。教師には割り当てがあり、それをこなすのに必死だったのである。そして日本は戦争に負けた。この教師は反省する。
 自分は教育者として何と恥ずべきことをしたのか。新しい時代の民主主義の世にあって、どの面下げて教壇に立つのかというのである。しかし考え直す。いや、これからは戦争に反対する教育現場の先頭に立って働こうというのであった。つまり昨日と今日はまったく一変したが、掲げる目標は変えて、一生懸命に生徒に接しようというのであった。戦後派良心の代表とはこういう例を指すのではなかったか。
 ある新聞記者がいた、戦時下には軍の提灯持ちだった。いや軍が期待するよりも華々しい記事を書き続けていた。敗戦と同時に反省する。何と恥ずべきブンヤだったのか。そして田舎に退き、民主主義の新聞を発行する。良心的ジャーナリストと評されている。
 ここでは二人の例を挙げたのだが、これらの例は私には偽善の最たるものに思えるのである。妙な表現になるが、どんな時代になろうと常に「正義派」の側に位置して、生きていくタイプである。表向き何も反対できない。しかしその言い分はまさに裸の王様ではないだろうか。


 僕も、こういうのは、偽善というか、ちょっと卑怯な生き方だよなあ、と思うんですよ。
 太平洋戦争が終わったときにも、自分がそれまでやってきたことの責任をとって自分の命を絶つ、という選択をした人もいるわけです。
 上官の命令に従って行った残虐行為なのに、上官は「私はそんな命令は出していない」としらばっくれ、死刑になったB級、C級戦犯も少なくありません。

 でも、同じ立場になったとしたら、そこで自分がこれまでやってきたことを深く反省し、もう表に出ずに隠棲して過ごす、ということができるだろうか?
 
 自分は生まれた時代が悪かっただけで、そのときなりに一生懸命やってきた。時代が変われば、新しい時代の「正しいこと」に従って、また一生懸命やるだけだ。
 「反省」し、「転向」した、というのは、褒められることではないかもしれない。それでも、生き延びるためには、仕方がなかった。
 そもそも、自分も騙されていたのだし。


 著者はこういう態度に疑問を呈し、「偽善」だと述べているのですが、昭和というのは、「ほとんどの日本人が、これが『良心的』なのだと自分に言い聞かせながら、『偽善者』として生きた時代」だったように僕には思われます。

 ただ、その時代の背景や強者に「適応」するのは、悪いことではないですよね。「潔くない」ことではあっても。

 「常に正しい(とされる)側にいようとする人」というのは、平成、令和になっても存在しつづけています。
 いや、むしろ増えてきているのかもしれません。
 逆に、「正しい側にいることを意識していないと、いつ、足元をすくわれるかわからない時代」でもあるのです。
 それは、世の中の「空気」にみんなが流されてしまいやすく、誰もそれを止められない時代になっている、ということなのだよなあ。


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