琥珀色の戯言

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【読書感想】限界集落の真実 ☆☆☆☆


限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

内容説明
限界集落はどこも消滅寸前」は嘘である。危機を煽り立てるだけの報道や、カネによる解決に終始する政府の過疎対策の誤りを正し、真の地域再生とは何かを考える。


内容(「BOOK」データベースより)
高齢化が進み、いずれ消滅に至るとされる「限界集落」。だが危機を煽る報道がなされているのに、実際に消滅したむらはほとんどない。そこには逆に「限界集落」という名付けをしたことによる自己予言成就―ありもしない危機が実際に起きる―という罠すら潜んでいる。カネの次元、ハードをいかに整備するかに問題を矮小化してきた、これまでの過疎対策の責任は重い。ソフトの問題、とりわけ世代間継承や家族の問題を見据え、真に持続可能な豊かな日本の地域社会を構想する。

 僕はこのジャンルについては、まったくの門外漢なので、「こういうものなのか……」と、ただただ感心しながら読みました。
 予備知識がほとんど無いこともあり、そんなに読みやすい本ではなかったのですが、いままで僕が抱いていた「過疎」のイメージが大きく変わったのは事実です。

 まず、ある地域での一コマから始めることにしよう。筆者がフィールドワークとしている青森県某町での取材風景である。
 某町A集落は、津軽半島北端の海岸部にある。津軽半島一帯は、もともとはアイヌの活動地帯であり、江戸時代の記録にはそうした人々の姿を確認できる。しかしむろんいまはアイヌ系の集落は見当たらず、沿岸に点在するのは、多くが漁の網元や雇いの漁師が定着してできた和人の集落である。A集落に暮らす人々の家系も、もともとは漁業、海運に携わって財をなした人々であり、ここは豊かな海村だった。しかし現在、人口約80人。うち65歳以上人口比率が70%を超える。限界集落とは高齢化率が50%以上の集落のことだから、ここも定義上、立派な限界集落である。そこで、町会長さんに話を聞いてみると、意外なことを言う。「ずいぶんと、ここには記者さんたちが来ました。困ったことはないかと聞かれる。一番困るのは困ったことがないことです」。
 いまここで生活するのにとくに困ることはない。確かに若い人たちはこの地域から出て行った。しかし残った高齢者も多くは元気で暮らしており、山の畑に行ったり、漁に出かけたり、村の会合に出たり、祭礼を行ったりを毎日忙しく過ごしている。
 多くの過疎集落でいま、人口減少が進むでけでなく、高齢化率(65歳以上人口比率)が高くなってきている。しかし高齢化率が高いから、集落の解体がすぐに起きるわけではない。年寄りばかりになっても、助けがなければ生活が崩壊するという状況にはない。これでは、「限界などと言うな!」という方が確かに正しい。
 では集落の限界は本当にないのだろうか。今後ともこうした集落は、同じように続いていくのだろうか。過疎高齢化の現実は、放っておいてよい状況にあるのだろうか。

「過疎という言葉は本来、1960年代に使われ始めた行政用語」なのだそうです。
しかし、それから50年近く経っても、「過疎といわれる土地でも、みんなそれなりに暮らしている。
それは、住んでいる人たちの、その環境への「慣れ」だと言えるのかもしれないけれど、少なくとも著者がフィールドワークを行っている「過疎地」には、あまり悲壮感はないように思われます。

 先述の通り、大野晃氏の限界集落論では、65歳以上の高齢者が集落の半数を超え、独居老人世帯が増加すると社会的共同生活の維持が困難な「限界集落」となり、この状態がやがて限界を越えると、人口・戸数ゼロの集落消滅に至るとされている。すなわち、「高齢化の進行→集落の限界→消滅へ」というプロセスが予言されているわけである。
 この限界集落の概念は1990年前後に提起されたが、大野氏自身が言うように、それは注意喚起のためのものだった。このまま放っておけば危機が来るかもしれませんよという、将来のリスクを示すものだったのである。しかしその警告から20年経って、集落が現在もいまだに維持されていることを考えると、この「高齢化→限界」図式による集落消滅の予言は当然のことながら再検討されなければならない。
 そこで問題となるのが、2007(平成19)年8月に国が発表した、過去7年の間に、過疎地域だけで191の集落が消えたという数字である(『国土形成計画策定のための集落の状況に関する現況把握調査』、以下、2007年国調査とも示す)。この数字は、メディアでセンセーショナルに取り上げられ、何度も繰り返し報じられた。
 だがその内容を見てみると、ダム・道路による移転や集団移転事業、自然災害等が含まれており、高齢化のために共同生活に支障が生じ、消滅に至った集落が191あったというわけではない。それどころか、本章でみていくように、調べた限りでは高齢化の進行による集落消滅は、全国の中でまだ一つも確認できない。


 「限界集落は、まだ生きていた」

 人が住んでいるところには、それなりの歴史があるし、住む理由もある。
 そもそも、「本当に生きていくことが難しい場所」であるのなら、大部分の人は、引っ越しをしてしまうはず。
 過疎地での生活は不便で不幸だというのは、「都会からの視点」でしかないのです。
 僕自身も、都会(とくに東京)では、日常生活を送るために、いちいち歩かなければならない(田舎だと、どこでもだいたい車で行ける)ということに、驚かされるんですよね。
 必ずしも高齢者だからといって、「田舎暮らし」のほうがラクというわけではないでしょう。
 車の運転ができないと、田舎暮らしはかなり不便だし。
 でも、若者や僕のような中年の将来のことを考えると、「田舎でも暮らせるという選択肢」を確保しておくのは、けっこう大事なことだと思うのです。


 僕は、この新書を読むまでは、「福島の原発に近い地域人たちは、放射線のリスクを負ったまま地元に住みつづけるより、移住したほうが良いのかもしれないな、と考えていました。
 実際に、そのほうが「合理的」だと主張している人もいます。


「限界に至っている集落を、なぜ残さなければならないのか」「全体の効率性からいって、公的資金を投入してでも、条件不利な地域から離れてもらって、より便利な場所に住み替えてもらうほうが合理的なのではないか」という問いに対して、 この新書のなかで、著者はこう答えています。

 一方で効率性・経済性・合理性を追求する立場がある。現代日本社会では、とくに1990年代以降、この価値が急速に我々を取り巻き、絶対的価値のように振る舞い始めた感がある。これはおそらく、より新しい世代が社会の激変の中で編み出してきた、新しい時代を乗り切るための新しい思考法なのだろうか。
 他方で、我々の生活の中では、「このささやかな暮らしがいつまでも続きますように」、「自分の子孫や孫が、大きな苦しみや不幸に見舞われることなく、安心・安全のうちに過ごせますように」、こういう願いもまた、当然の価値として存在する。これは、世代を越えて親・子・孫へと受け継がれてきた価値である。
 前者が自由主義・競争主義を軸とした、平成日本に現れていた新しい主導的価値であるとするなら、後者はもともと日本社会に根付いてきた伝統的価値と言えるものだ。ところで前者がたしかに新しい時代に適合するためのものであるとしても、それがつねに勝者・敗者の色分けに専念するのに対して、後者の価値は旧態的ながらも、我々人間一人一人を大切にし、また他者の暮らしを尊重することにもつながる、共生の理念と言ってよいものである。むろん、社会が存続していく上で、全体の効率性の観点は無視されるべきものではなく、激動の時代の中で経済や国家を運営していくのに必要不可欠なものではある。しかしまた、効率性を重視するあまり、暮らしの「安心・安全・安定」が脅かされるなら、何のための効率性なのかということにもなる。
 ところで、この二つの価値は、議論の展開の仕方においても、大きく異なる性格を持っている。効率性を重視する価値の観点からすれば、限界集落をどう扱うべきかの問題は、過疎高齢化の進んだ集落を、政府や専門家、あるいは経済がいかに支え、救えるのかという発想にならざるをえない。そしてこの発想から始めれば、その結末も当然、何をどこまで救済すべきなのかという話になるのも道理なわけだ。
 しかし、暮らしの安全・安心・安定の価値から見れば、政府や行政がどう救うかという発想以前に、地域の中で暮らす人々自身がどうしたいのか、あるいはこの地に関わりのある人々が今後もこの地とどう関わり、どう行動するつもりなのか、当事者たちの主体性が問われることになる。あるいは、すでにふるさとを失った人間にとっても、本来、日本社会を構成する重要な基盤であったむらや町といった地域社会を、自分自身も含めて今後、どのように社会全体として受け継ぎ、日本という社会をどんなふうに設計したいのか、他者の問題ではなく、自分自身の問題として問うことである。

「効率性」はたしかに大事です。
「無い袖は振れない」し。
でも、たしかに「効率性を重視するあまり、そこに住む人たちの暮らしを犠牲にするのを厭わない」という姿勢には、怖さを感じるのです。
他人が住む土地には、「合理的」な判断ができても、自分が住んでいる土地だったら、どうだろうか?
いつか自分もその「犠牲になる側」に立つかもしれない「効率性至上主義」は、誰のためのものだろうか?
もちろん、「人が住めなくなってしまった土地」になってしまえば、どうしようもないのでしょう。
しかしながら、「地元の人たちが、その土地にこだわる理由」というのも、当然あるのです。
「合理的な視点」は、もしかしたら、「自分を不幸にしてしまう視点」なのかもしれません。
そもそも、日本という国そのものが、いまや「限界集落」になりつつあるとも言えるわけで。


 正直、著者の立場が、「こういう研究をしている人たちのなかで、どういうポジションにあるのか?」「専門家たちのあいだでは、トンデモ学者扱いされているのではないか?」なんてことは、門外漢である僕にはよくわかりません。
 医学関係の新書のなかには、「一般の人たちには口当たりが良いけど、学術的な裏付けに乏しかったり、著者の個人的な思い込みで書かれている本」も散見されるので。
 もしかしたら、この著者は、偏った見方をしているのかもしれないけれど、僕が読んだ範囲では、この「過疎化」について素人にもよくわかる良書でした。

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