琥珀色の戯言

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【読書感想】僕たちのゲーム史 ☆☆☆☆☆


僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

内容説明
本書は、ゲームと共に生きてきた「僕たち」のための本です
僕たちの暮らしの中にゲームが登場して、30年ほどの時が流れました。本書ではその歩みを辿ってゆきますが、ソフトの売り上げ、あるいはハード戦争といった事柄に重心を置いた記述はしていません。なぜなら、日本のゲームは、「ボタンを押すと反応する」という基本を巧みにアレンジしつつ、一方で「物語」との向き合い方を試行錯誤してきた歴史を持っているからです。このような視点でゲーム史を編むことで、「スーパーマリオのようなゲームはもう生まれないのか?」「最近のゲームはつまらなくなったのでは?」といったあなたの疑問にもお答えできるようになりました。さあ、ゲーム史をめぐる冒険の旅に出ましょう!


内容(「BOOK」データベースより)
スーパーマリオはアクションゲームではなかった。誰も知らなかった、僕たちとゲームの30年史がここにある。


この330ページあまりの新書を読み終えて、僕はなんだかとても著者が羨ましくなってしまいました。
ああ、こんな「ゲーム史」を、僕も書いてみたかったなあ!って。


「ゲームの歴史」に関する本はたくさんありますし、僕もかなりの数を読んできたのですが、これまで物足りなく感じていたのは、どうしても、ゲームウォッチからファミコンプレイステーションという家庭用ゲーム機の話ばかりになってしまう、ということでした。
 本をつくる人たちの立場を考えると、初期のマイコンゲームを知らなかったわけではなく、限られたページ数でまとめるために、「あえてカットした」場合も少なくなかったのでしょう。
 NECのPCシリーズやFM-7、シャープX1などの初期のマイコンゲームで遊んだことがある人は、ファミコンユーザーに比べると、やっぱり少数派だろうし。


 でも、僕のなかには、「ゲーム史、とくに初期のゲーム史を語るのであれば、マイコンゲームにももうちょっと詳しく触れるべきだ」という思いが、ずっとあったのです。
 この『僕たちのゲーム史』では、『惑星メフィウス』でスターアーサーが逮捕されるときの「主人公の姿がみえる」カメラアングルや『ミステリーハウス』(アメリカ版)の「探索アドベンチャー」としての魅力まで語られています。
 『ミステリーハウス』という同じタイトルのゲームが日本のマイコン向けに発売された際には、アメリカ版での「殺人事件」要素がカットされ、「館探索ゲーム」になっていました。
 僕は当時「なんだか物足りないなあ」と思っていたのですが、著者はこの新書のなかで、「中途半端なミステリ要素を排除して、『ミステリーハウス』の魅力を抽出した」と評しています。
 たしかに、今から考えてみると、アメリカ版は「勝手に人がバタバタ死んでいく」だけで、「推理」の要素は乏しかったのだなあ、と。
 30年も経ってから、僕自身も新たにわかったことがある。
 

 著者は、「いまの時代からの俯瞰的な視点」とともに、「当時のゲームクリエーターたちのリアルタイムの発言」をきちんと検証しています。
 この「ゲーム史」を読んでいると、当時のことをいろいろ思い出してしまうのです。
 『スーパーマリオブラザーズ』を、発売当時、宮本茂さんが「アスレチック」という言葉で評したそうなのですが、著者は、「アスレチック」をこんなふうに紹介しています。

 アスレチックというのは、正式名称を「フィールドアスレチック」という、野山を活かしたコースに丸太やロープを利用した障害物を設けて走破する、ちょっとしたアウトドアスポーツのことです。現在でもあちこちの自然公園でコースを見ることができます。
 70年代末から80年代にかけてフィールドアスレチックは一般的になり、子供たちにもよく知られていました。1979年にはトミー(現在のタカラトミー)が「アスレチックランドゲーム」という玩具を発売してヒットさせましたし、翌年に刊行された『ドラえもん』のコミックス第19巻には「アスレチック・ハウス」というひみつ道具が登場します。

アスレチックランドゲーム!
僕も持ってましたこれ。
いやほんと、マイコンゲームだけではなく、テレビゲームの周辺にまで、目配りがされているんですよねこの新書。視野が広い。


著者は冒頭で、こう語っています。

 ゲームの歴史を語りながら僕が説明しようとしている、ゲームの「変わらない部分」と「変化する部分」とは、次のようなものです。僕は以下の2つの点に注目しながら、ゲームの歴史を整理して語っていきます。


・変わらない部分……ボタンを押すと反応すること
・変化する部分手……物語をどのように扱うか

僕が「テレビゲーム」に最初に触れたときに感動したのは、「ボタンを押すと、画面に表示されたキャラクターがその指示に従って動くこと」でした。
「そんなの当たり前じゃないか」と言われてしまうかもしれませんが、それまでは「テレビ画面に表示されているもの」は、「ただ、黙って見守るもの」だったんですよね。
いまでは当たり前のことが、当時は「革命的」だったのです。
iPhoneで遊んでいるうちの3歳の息子をみていると、「自分の行動が画面に反映されること」への驚きや感動は、まったくない世代なのだなあ、と感心してしまいます。
そりゃあ、生まれたときにはもう、プレステ3があった世代だものね。


著者は、「ゲーム史における大きな転換点」が「1997年」にあったと述べています。

 この、1997年という年に注目してください。


 もし「長いゲームの歴史を、どこか一カ所で区切ってくれ」と言われたら、僕なら1997年を選びます。というのも1997年は、ゲームにとって、過去と未来が交差する年だったと思うからです。
 つまり、世代交代を思わせるような出来事が起きました。また、従来のゲームを突き詰めたような作品も生まれました。
 1998年以降のゲームを楽しめる人たちは、それ以前に取っつきにくさとを感じるかもしれません。逆に1997年までのゲームが好きだった人は、それ以降のゲームは大きく変化してしまい、あまり遊びたくないと思うかもしれません。
 その大きな変化とは、つまりはこの本のテーマの一つである、ゲームの「変化する部分」が大きく動いたということでもあります。ようするに、日本のゲームがずっと追求してきた「物語をどのように扱うか」という挑戦が、一つの頂点に至ったのが1997年だったのです。

 1997年はプレイステーションで『ファイナルファンタジー7』が発売された年でした。
 著者は、それに加えて、「美少女ゲームを『物語性』重視に変えたゲーム」である『ToHeart』が発売された年であることも指摘しています。
 ちなみに、ゲームボーイで『ポケットモンスター』が発売されたのが1996年の2月。

 また、1997年は、インターネットが爆発的に普及しはじめた年だったそうです。


 これまで、「物語は、ゲームを肉付けするためのもの」だったのが、『ファイナルファンタジー7』くらいから、「物語を読ませるためのゲーム」が主流になっていくのです。
 そして、ネットの普及で、「ゲームで遊ぶこと」だけではなく、「ゲームを他者とのコミュニケーションの道具にすること」も、より一般的になってきました。
 僕はこれまで遊んだことがないゲームなのですが、『ひぐらしのなく頃に』という作品では、「ゲーム中に語られなかったストーリーを、ユーザーが補完し、それをみんなで語り合うこと」が行われていたそうです。
 ここでのゲームは「余白」をつくりだすためのツールとなっています。
 なんて高度な知的遊戯なんだろう!


 著者は、日本と西欧での「ゲームの進化の分かれ目」として、みんなで協力して「物語を深めること」に向かっていった日本と、「ゲームシステムを進化させること」を追求していった西欧との比較をしています。
 西欧でFPS(一人称視点でのシューティングゲーム)がメインストリームにあることについて、僕などは「西欧人はドンパチが好きだからなあ」なんて考えてしまっていたのですが、実は、『ドゥーム』などのFPSの作者たちが、パソコンでの「自作ゲームの改造」を積極的に容認し、その「二次創作」がネットを通じて共有され、「ユーザーたちが協力してゲームシステムそのものを深めていった」ことが大きかったんですね。


 「物語」を深めていった日本と、「ゲームシステム」を進化させていった西欧。
 もちろん、すべてのゲームがそうだった、というわけではありませんが、この傾向が「日本のゲームの欧米での苦戦」につながっていくのです。
 

 ここまでを振り返ってみると、次のように言えるのではないでしょうか。
 前章でお話したように、日本のゲームは「ゲームの外部=コミュニケーション」を充実させようとしました。しかしプレイヤーを「ゲームの内部」に触れさせることには及び腰だったのです。
 そういう意味では、日本のゲームがMOD(ソフトの内容を勝手に改造する行為)=ゲームの内部を充実させるものに否定的なのに、イラストなどの二次創作=ゲームの外部を充実させるものには寛容だというのは面白いですね。どちらも法的には微妙な存在なのですが、最近の日本のゲームがコミュニケーション性を重視しているからこそ、そんなことが起きているのかもしれません。


 最後に、ゲームの現在と将来について。
 僕自身は、「GREEDeNAソーシャルゲーム(=カジュアルゲーム)なんて、ゲームの退化であり、堕落だ!」なんて、ちょっと思っていたのです。
 
 
 著者は「ゲームと現実の時間の流れ」に対して、次のような考えを述べています。

 この本の冒頭で、僕は任天堂の岩田社長による2003年の「日本のゲーム市場ではゲーム離れ現象が進行している」という発言について書きました。
 実はその時に岩田さんは、「あらゆる娯楽はユーザーの限られた時間を奪い合う競争の中にいる」とも発言していました。
 これは確かにその通りなのでしょう。しかしそれは「娯楽のための時間」と「それ以外の日常生活の時間」が別々のものだという考え方です。つまり「ゲームは現実の時間を離れ、別の自分、別の人生を体験するものだ」という昔ながらの考え方に似ているのです。
 携帯電話のゲームやフェイスブックのゲーム、あるいは『モンスターハンター ポータブル』のようなゲームには、それとは違った時間の流れを感じないでしょうか。人々はゲームをやりながら、同時に生活している。つまりゲームが現実と乖離せずに、2つの時間を重ね合わせるようにしてプレイヤーを楽しませる娯楽になっているのです。

 ネットワークゲームのような「別の世界をつくって、そこで第二の人生をはじめるゲーム」や、「現実逃避のためのゲーム」ではなく、「現実とゆるやかにつながったままで、遊ぶゲーム」。
 いちばん変わったのは「ゲームとの距離感」ではないだろうか。
 もしかしたら、僕が「ゲームの退化」だと感じていたものは、「ゲームが多くの人々にとっての生活の一部になったこと」なのかもしれません。
 それは「ゲーム」じゃなくて、「気分転換の道具」みたいなものじゃないのか?
 でも、たぶんこの流れは、「ひとつのゲームの進化」なんですよね。
 もちろん、これからも「コアなゲーマーを満足させるためのゲーム」は造られ、進化していくことになるはず。


 ゲーム好き、とくに『スペースインベーダー』やマイコンゲームから、ゲームを愛してきた人には、たまらない一冊だと思います。
 『僕たちのゲーム史』というタイトルだけど、『僕自身の歴史そのもの』でもあるなあ、と、いろんなことを思い出しながら読みました。
 その一方で、生まれたときからプレステが目の前にあった人がこの新書をどう読むのかにも、すごく興味があります。


 素晴らしいものを読ませていただいて、ありがとうございました。

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