琥珀色の戯言

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【読書感想】司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
国民的作家として読み継がれている司馬遼太郎。そのあまりの偉大さゆえに、司馬が書いた小説を史実であるかのように受け取る人も少なくない。しかし、ある程度の史実を踏まえているとはいえ、小説には当然ながら大胆な虚構も含まれている。司馬の作品は、どこまでが史実であり、何が創作なのか?吉田松陰坂本龍馬高杉晋作が活躍する司馬遼太郎の名作をひもときながら、幕末・維新史の真相に迫る。


国民的作家・司馬遼太郎
僕も子ども(といっても中学生くらい)の頃から、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』『関ヶ原』などを夢中になって読んでいたものです。
当時も「定番作品」だったのですが、あれから30年経っても、まだまだ読み継がれているのですから、本当にすごい。
この新書は、歴史研究家であり、作家でもある著者が、「司馬遼太郎作品の虚実」について歴史的な文献や資料にあたりながら分析したものです。
著者は長年山口県で研究をされており、幕末維新の長州での史実については、とくに造詣が深いようです。

 ただし、司馬遼太郎が描く「戦国武将」や「幕末志士」に、自身を重ねる政治家や実業家といった指導者が後を絶たないことに、ある種の不安を覚える。総理大臣の椅子を得た者たちが、司馬遼太郎作品を愛読書に挙げるのを見るたび、本当に「この国」は大丈夫だろうかと心配になってしまう。
 偉人に憧れ、尊敬し、その生き方を真似ようとすることにケチをつけるつもりはないが、司馬遼太郎が描いたのは小説、つまりフィクションだ。美事(みごと)なエピソードの羅列である。読者はそれを承知の上で、娯楽として楽しめばいいのだが、すでに多くの日本人にとって司馬遼太郎作品は「歴史教科書」と化してしまっている。小説ではあるが、そのような読まれ方をしていないという現実があるのだ。
 それは全て読者側の責任かと言えば、そうとも言えぬ一面もある。例えば物語のあちこちに司馬遼太郎自身が顔を出し、史料を提示したり、史跡や子孫を訪ねたりする。当然、読者にノンフィクションのような印象を与えることを意図したものだろう。読んでいると、果たしてこれは本当に小説として書いたのだろうかと、首を傾げたくなる部分もある。

 一人か二人の特別な英雄が出現し、さっそうと時代を変えてしまうといった、いわゆる「英雄史観」で貫かれていることがその第一。人物を好き嫌いで評している部分が多いのが、その第二。また、歴史が進む上で重要な要素の多くが、意外と物語から除外されていることも気になった。

 司馬遼太郎さんが、膨大な史料を集めて、小説を書かれていたことは、よく知られています。
 ただ、それだけに、「司馬史観」の「偏り」は、「誤り」というよりは、意図的に操作されたもの、だとも思われるのですよね。
 司馬作品の中には、実際に存在しなかった「歴史的資料」に基づいているような記述もみられるそうです。


 まあでも、僕がこれまでに出会った司馬遼太郎愛読者たちには、「司馬遼太郎が100%歴史的事実を書いている」と考えている人は、そんなにいませんでした。
 そもそも、いまの時代の他人の気持ちだってわからないのに、歴史上の人物が本当は何を考えていたかなんてわかりはしませんし、『竜馬がゆく』を読んで、坂本龍馬を「尊敬する人」として挙げている人も、結局のところ、「史実の竜馬はさておき、『司馬遼太郎が描いた坂本龍馬』を尊敬している」のではないかと。
 司馬遼太郎という人は、「歴史上の人物を土台にして、小説の主人公として理想的な人間像をつくりあげ、世に送り出した」とも言えるわけで。
 もともと司馬さんのデビュー作は『梟の城』という忍者小説ですし、「自分はノンフィクションを書いている」と公言されてもいないんですよね。


 ああ、でも世の中には、そういう「区別」がついていない人も、多いということなのでしょうか。
 個人的には、「尊敬する人物」が架空の人ではいけないのだろうか?と思うのですが、司馬作品の場合には「実在する人物だけど、実像とズレてしまっている」のがよくない、ということなのかなあ。


 この新書が面白くない、というわけではなくて、「司馬遼太郎が書かなかったこと」を追いかけていくと、司馬さんも日本の戦後という時代を生きた人のひとりだったのだなあ、と、考えずにはいられません。
 吉田松陰天皇観について、著者はこんなふうに書いています。

 一方司馬遼太郎は松蔭の天皇崇拝者としての言葉は引用しない。「天下は一人の天下なり」といった、有名な松蔭の強烈な言もここでは出てこない。松蔭の天皇観は、当然ながら浮かび上がってこない。司馬遼太郎は昭和40年代の大衆小説の中に、天皇の問題を持ち込むことを、避けようとしているかのようである。

「征夷は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世、それ吾れを何とか謂わん」
 と、いま自分たちが将軍を殺さねば、後世の者から非難されるとまで主張する。これを藩に提出するのだから、やはり正気の沙汰ではない。
 現代において、松蔭は高い志を持った教育者として評価される。最近の国会議員へのアンケートでは、尊敬する人物の上位に常に入っている。しかしそうした流れの中では、松蔭がテロリズムを肯定し、大いに奨励したことについて語られることは無い。

 この「一人の天下」の「一人」は、天皇のことです。
 また、高杉晋作が創設した「奇兵隊」は、すべての隊士が平等だったのではなく、出自によって「区別」されていたことや、高杉晋作の辞世の句として知られる、

 おもしろき こともなき世を おもしろく

 が、臨終の場で詠まれたものではないことも紹介しています。
 この高杉晋作の最期は『世に棲む日日』のなかでも、いや、歴代の司馬作品の中でも、ドラマチックな場面のひとつなのですが……


 著者は、この逸話の他にも「司馬遼太郎が書いたことによって、史実のように扱われるようになってしまった根拠不在の伝承が少なからずある」ことを指摘しています。
 個人的には、こういうのは、そんなに目くじらたてなくても……とも思うんですけどね。
 ただ、「人魚姫の像」とかと違って、「明らかなフィクションだと、誰が見てもわかるわけじゃない」ということを「まぎらわしい」と感じる人もいるのでしょう。

 司馬遼太郎は「資料がなければ、もはや想像するしかないが、それでもよい」(『司馬遼太郎「完結した人生」、毎日新聞社学芸部編『私の小説作法』昭和50年』とも語っている。後年ロシア側の史料が公開された時、『坂の上の雲』の答え合わせを行った人がいて、間違っている箇所が幾つもあったと聞いたことがあるが、当然であろう。そのようなことで作品の価値が上下するわけではない。この手紙には何やら等身大の司馬遼太郎のメッセージが込められている気がしてならないのだ。
 司馬遼太郎が独自の価値観で歴史の空白を埋め、生み落とした数々の作品はこれからも人々を魅了してやまず、読み継がれてゆくことだろう。作品は今後も映像化され、その舞台になった地は、官も民もお祭り騒ぎに明け暮れるはずだ。地元で語り継がれた「本物の歴史」は掘り下げられることなく忘れ去られ、司馬遼太郎が紡ぎ出した「英雄物語」が逆輸入のすえ、いつのまにか現地に伝わった話であるかのごとく都合良く喧伝されている例を、私は身近でも嫌というほど見てきた。

 著者の歴史研究家としての溜息が伝わってくるような文章です。
 司馬遼太郎が悪いのか?と言われると、そういうわけじゃないのだと思います。
 今年(2014年)本屋大賞を受賞した『村上水軍の娘』に対して、「こんな娘がいたなんて、嘘を書くな!」と怒っている人は、見たことがありませんし。
 司馬遼太郎という人の影響力があまりにも大きくなってしまったからこそ、こんな新書が書かれてしまうのです。
 僕は司馬作品は司馬作品で面白いし、史実は史実で面白い、と思いますが、史実を研究している人にとっては、「ちょっとひとこと言いたくなる」のもわかります。
 ここに書かれている史実も「司馬遼太郎への反論」だからこそ、多くの人が興味を持ってくれる、というのも事実でしょう。


 そして、司馬遼太郎という人もまた、これから、「歴史小説の題材」になっていくのでしょうね。
 この本を読んでいると、歴史小説といっても、書いた作家自身が生きた時代の視点から逃れるのは難しいということも、考えさせられるのです。

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