- 作者: 青沼陽一郎
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2007/07
- メディア: 文庫
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (7件) を見る
Kindle版もあります。今回僕はこちらで読みました。
- 作者: 青沼陽一郎
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2014/05/16
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (1件) を見る
内容(「BOOK」データベースより)
疑似国家さながらに、日本を敵視し、テロの恐怖に陥れた犯罪集団「オウム真理教」。多数の犠牲者を出した一連の事件は世界中を震撼させ、「教祖」は一九九五年五月に逮捕される。その犯罪を裁く「世紀の法廷」は、九六年四月東京地裁で開廷した。しかし、そこで繰り広げられた八年間のやりとりは、あまりにも不可解で喜劇的だった。そのとき、教祖はいかに振る舞い、弟子たちは何を語り、弁護人はどこにいて、裁判官は何を裁いたのか?裁判を傍聴し続けた著者が、裁判員制度の導入を前に、大いなる疑問とともに提示する、真実の法廷ドラマ。
オウム事件とは、何だったのか?
あまりにも長く、そして不毛であったため、裁判員制度導入のきっかけの一要因ともなったと言われている、「オウム裁判」を、8年間にわたって傍聴してきた著者による「真実の法廷ドラマ」。
僕もこの裁判については、目に入ってくる範囲で見てきたつもりだったのです。
裁判の途中から、麻原彰晃被告の精神が荒廃し、まともな受け答えもできず、裁判の継続が困難になったと伝えられていたんですよね。
でも、著者の「執念のレポート」を読んでいると、「その麻原被告の状態は、どこまでが『病気』で、どこまでが『演技』だったのだろうか?」と考えずにはいられません。
男は、開廷と同時に裁判の大前提として最初に行われる人定手続きにおいて、裁判長の質問のこう答えていた。
「名前は、なんといいますか」
「麻原彰晃です」
「松本智津夫、ではないですか」
「その名前は捨てました」
「職業はなんですか」
「オウム真理教主催者です」
日本中の大きな注目を集めてはじまった時点では、ここまでグダグダな裁判になるとは思ってもみませんでした。
結局、「教祖」は「真実らしきこと」を何も語らず、自分の世界に引きこもったまま、死刑囚として現在も過ごしています。
それにしても、この裁判の様子、著者がまとめてくれたものを読むだけで、なんだかいたたまれない気持ちになってきます。
つまり麻原は英語にもなっていない”インチキ・イングリッシュ”を並べて独自の世界を漂っているのだ。
「ナンバー5、ケース。ツツミ サカモト」
麻原は気持ちよさそうに続ける。それでも、裁判所にしても傍聴側にとっても救われたのは、彼が事件ごとに独り善がりの英語陳述を終えると、あらためてそれを日本語に翻訳してくれたことだった。というのも時折、英訳できない単語が出てきて、例えばサリン生成の原料を「あれ? 三塩化リンだから、あれ? スリー シー エル……あれ? いいんだよな」と自問自答して混乱してみせたり、本人は気付いていないかもしれないが「ハヤカワ イズ ノット オカザキ」などと、無意味な発言があったからだ。
裁判長も次第にこのパターンを飲み込んで、あまり日本語にこだわった注意をしなくなった。そのかわりに、「ちょっと待ちなさい。メスカリンについては日本語で説明してないから」と日本語に期待をかけるようになる。これに対して、
「オー! アイ アム ソーリー!」
麻原もすっかりその気だった。このような英単語の羅列による意見陳述など、日本人の裁判ではおそらく初めてだろう。まして、本人が予てから執拗に希望した意見陳述を、このような形で行うとは……。それだけに、この有様には法廷中の誰もが戸惑い、驚き、呆れていた。
麻原は、かつて自らが叫んだ通り、法廷を劇場に変えてしまっていた。傍聴席の人々の注目を浴び、驚きと失笑を買いながら更に脚光を浴びる。その姿は、さながら”芸人”のようだった。
なんなんだこの茶番は……
しかしながら、この段階ではまだ「意味がありそうな言葉を発している+意思疎通ができている」分だけ、まだマシだったのです。
その後、麻原彰晃は、どんどん壊れていき(というか、ある意味ずっと「壊れ続けていた」のかもしれませんが)、証人として召還されても宣誓に応じなくなり、被告人質問にも、反応しないか、ブツブツとわけのわからないことを呟くだけ、という状態になっていきます。
著者は、そんな中でも、麻原が発言しようとしたタイミングが何回かあったことを指摘しており、裁判官、検察官、弁護人が、形式にこだわりすぎずに、とにかく「教祖の言葉」を引き出そうとしていれば……悔やんでいるようです。
結局、この裁判は「麻原彰晃に翻弄され続けた」だけの8年間であったようにも思われます。
このあまりに不毛な裁判に、傍聴席も倦怠感に包まれていきました。
もちろん、記者も片手で数える程しかおらず、真剣にメモをとっている姿はほとんどなくなった。ある女性ジャーナリストなどは、法廷に英字新聞を持ち込んで辞書を引きながら読んでいたり、校正刷りのチェックに余念がなかったりと、まさに裁判所のいう”不体裁な行い”を平気でやっていた。法廷入口の脇には、傍聴にあたっての注意事項が掲載されていて、そこには「新聞や本を読むなど不体裁な行いをしないこと」とちゃんと書かれている。
そして何よりも、回を重ねるごとに、主役である麻原が大きく変わっていった。まずはその体格だ。初公判で見たでっぷりとした姿はもはやなく、まるで着ぐるみを脱いだように痩せ細っていった。伸び放題だった髪と髭も短く刈られ、白髪が目立つようになった。心なしか、頭の旋毛のあたりが薄くなっている。体つきだけを言えば痩せて健康的に見えなくもないのだが、その肉体に覇気が感じられない。法廷に居るというより、置かれている感じだ。インチキ英語混じりの独白もいつしか影を潜め、うつむいている姿が多くなった。顔をしかめたり、大きな欠伸をしたり、両手を膝の上について前に乗り出したり、座りなおしたり、見せるのはそんな動作くらいになっていった。
意思疎通が可能であった裁判の初期に、もうちょっと、なんとかできたのではないか……
著者の溜息と憤りが伝わってきます。
遺族が傍聴席から遠ざかるようになったのも、長期化だけが問題ではなかった。「事件の真相を究明する場だと考えていたものが、そうではなかった」失望で、裁判所から遠ざかるようになった、と大山さんは言った。時間と金を費やしたのに、期待したものが何も得られなかったのだ。
僕は「麻原彰晃って、精神が荒廃していく病気だったんじゃないか」と思っていたのですが、2004年2月27日の死刑判決のときのことを、著者はこう書いています。
そして、午後の三時を過ぎたところで、小川裁判長が言ったのだ。主文を言い渡すから、正面に立つように、と。ところが、麻原を取り巻く十人を超す刑務官が立ち上がって証言台までの道筋を用意し、被告人が自主的に立ち上がるのを待ち受けたものの、当の麻原が立ち上がろうとしない。普段なら、目の見えないことを気遣うように刑務官が手を添えてやれば、すんなり腰を浮かべて、だらしなくも言われる通りにしていたのに、この時はその手を振り払ってしまったのだ。
明らかにいつもと違う態度だった。そこで、脇にいた刑務官が麻原の腕を掴んで、引っ張り起こそうとする。ところが、今度は全身に力を込めて頑として立つまいとする。主文を告げられる瞬間を遠ざけようと、立たされることに必死に抵抗する様は、まさに”駄々っ子”そのものであり、不様だった。そこで他の刑務官も加わり、全員で腕や衣服を掴み、強引に立ち上がらせる。十人近くの力が加われば、麻原にはなす術もない。途中から抵抗をやめた麻原は、だらしなく証言台の前に引きずり出された。
なんのことはない。この男、とぼけた振りをしながらも、自分の置かれた状況はわかっていたのだ。死刑を宣告される瞬間を怖れた惨めなまでの抵抗姿勢が、そのことを証してしまった。
もちろん、すべてが演技だったというわけではないでしょうし、むしろ、そんな演技を8年にわたって続けられるというほうが、信じ難いような気もします。
とはいえ、麻原彰晃は「何もわからない状態では、なかった」のです。
少なくとも「死刑判決」というものを理解し、怯えるくらいの判断能力はあった。
この本を読んでいると、いや、読んでいるだけで、ひたすら無力感にさいなまれるのです。
あの事件は、いったい、何だったのだろうか?と。
弁護人「村井の作った潜水艦に乗ったことはありますか」
端本「あります。寂れたところで、漁港でも、海水浴場でもない、ちょっと手の加えられた入り江でした。
潜水艦と言ったって、ドラム缶を二つつなげた形状のもので、透明な洗面器が上についていました。内部は、自転車をこぐように、椅子に座ってペダルで方向を変えられるようになってました。それも、中に乗り込んでから、洗面器を接着剤で取り付け、『これくらいならすぐに取れるから』と……。そうしたら、いきなりビスでとめはじめたんで、ぼくは『やめてくれ!』と言ったんですけど、『クレーンで吊るすだけだから』と……。クレーンで、そのドラム缶を吊るして、水面ギリギリで写真を撮ったら、それが潜水艦だと、機関誌でお茶を濁せるはずでした。
それが、備え付けのインターフォンで、「大丈夫か」と聞いたら、タイミングよく、ジャラジャラ! ズボズボ!……と。あとで聞いたらクレーン車ごと横倒しになって、海に落っこちたと知りました。その瞬間は、え!? 悪い冗談だろ!?と思って……」
弁護人「海底まで沈んだのですか」
端本「海底まで沈みました。5メートルくらいだったと思います。クレーンから落ちてすぐ、水が入ってきて、海底についてからも、凄い勢いで水が入ってきて……」
弁護人「結果としては、どうなったのですか」
端本「結果としては、今ここにいます。ドラム缶に水が入ってきて、その間に地元のダイバーの人が助けに来てくれました。時間にして15分くらい沈んでいました。水面を見上げながら、バカらしいと考えました。ほら、よく、人が死ぬ前に走馬灯のようにいろんなことが浮かぶっていうじゃないですか。あんな感じで、本当にいろいろ自分の人生が浮かんできて……、もし、オウムと巡り合わなければ……、そう思いました」
弁護人「潜水艦で、何をしたかったのですか」
端本「水中都市構想ですよ」
弁護人「麻原の言う?」
端本「同じことですよ。水中都市構想と潜水艦。そのあとで面と向かって、麻原に言ったんです。『いったい何を考えているんだか! こんなバカな作りはないですよ!』と。そうしたら、麻原は、『それは、お前が否定的な観念を持つから、そうなるんだ!』と、言うんですよ。麻原はもう、バカでバカでバカで、どうしようもない!」 (1997年10月20日/端本悟公判・被告人質問)
本当に、なんでこんな「バカでバカでバカなこと」を大勢の人が、やってしまったのだろう?
そして、それがどんなにバカげたことであっても、巻き込まれて亡くなった人たちは、帰ってこない。
それでも、「忘れない」ことくらいしか、僕にはできないと思うのです。
そして、「こんなことがあった」というのを、次の世代に、伝えていきたいのです。
こういうことは、人類の歴史上初めてではなかったし、きっとこれが最後ということもないでしょうから。