琥珀色の戯言

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【読書感想】もっと言ってはいけない ☆☆☆

もっと言ってはいけない (新潮新書)

もっと言ってはいけない (新潮新書)


Kindle版もあります。

もっと言ってはいけない(新潮新書)

もっと言ってはいけない(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
この社会は残酷で不愉快な真実に満ちている。「日本人の3人に1人は日本語が読めない」「日本人は世界一“自己家畜化”された民族」「学力、年収、老後の生活まで遺伝が影響する」「男は極端、女は平均を好む」「言語が乏しいと保守化する」「日本が華僑に侵されない真相」「東アジアにうつ病が多い理由」「現代で幸福を感じにくい訳」…人気作家がタブーを明かしたベストセラー『言ってはいけない』がパワーアップして帰還!


 物議をかもしつつ、ベストセラーとなった『言ってはいけない』の続編です。
 
 
 前作『言ってはいけない』への僕の感想はこちら。
fujipon.hatenadiary.com


 今回も、内容的には「差別につながったり、倫理的な禁忌にふれたりする」ということで一般的には採りあげられないような学術的な研究結果をセンセーショナルに提供している新書、なんですよ。


 ただ、読んでいて途中からどんどん大風呂敷が広がってきて、著者の「仮説」がいかにも事実らしく展開されているところには「あれ?」と思わずにはいられませんでした。
 「仮説」を述べるのが悪いわけじゃないのです。
 でも、この新書全体の構成からして、「エビデンスを示す」「これまでポリティカル・コレクトネスの元で黙殺されてきた、科学的なデータをあらためて提示する」という方針が前半にあり(これはこれで、著者にとって都合のよいデータばかりが強調され、反証となるようなデータはあえて軽んじられている、と思うのですが)、中盤から後半にかけて、人類の成り立ちとか民族の特性、というような話になると、著者の「飛躍した推論や思いつき」がいかにも定説、真説であるかのように語られる、というのは、ミスリードを誘っているように感じるのです。
 実際は、「新書一冊にするには尺が足りないから、分量を増すためにいろいろ書いていたら、まとまりが悪くなってしまった」だけなのかもしれませんけど。


 ただ、この『言ってはいけない』シリーズは、あまりにも感情的に読まれることが多い、というのも事実なのでしょう。
 著者が「煽っている」「挑発している」という面はあるにせよ。

 こんなことは当たり前だというかもしれないが、世の中には統計的事実と定義を混同するひとがいる、それもものすごくたくさん。
言ってはいけない』で、行動遺伝学によれば「一般知能(IQ)の遺伝率は77%」と述べた。これは統計学的事実で、「知能の分野のばらつきの約8割を遺伝で説明できる」という意味だ。
 ところがこれに対して、「親が高卒なのに子どもは東大に入った」とか、「医者の知人の子どもは高校中退だ」などの(たまたま知っている)経験的事実を引き合いに出して、「この本に書いてあることはデタラメだ」と自信たっぷりに断言する批判があふれた。インターネットのレビューを一瞥すれば、この類がいかに多いか驚くだろう。中学校で習うようなことだろうが、統計的事実を経験的事実(外れ値)によって否定することはできない。
 これは典型的な誤謬だが、それとは逆に、「統計的事実の一般化」という誤解も頻繁に見られた。
「知能における遺伝の影響は思っているより大きい」というのは行動遺伝学が双生児研究によって積み上げた知見だが、そこから「知能は遺伝で決まっている」と決めつけることはできない。「喫煙はがんのリスク因子」という統計的事実から、「喫煙者はかならずがんになる」といえないのと同じだ。ヘビースモーカーでも長寿をまっとうするひとはいる(ただし、喫煙ががんのリスクを高めることはまちがいない)。
 ところがヒトの脳は、直観的には因果律しか理解できないようにつくられているため、あらゆる出来事に無意識のうちに原因と結果の関係を探す。これが自分にとって不愉快な統計的事実を定義と混同し、それを否定するために経験的事実を「ブラックスワン」として持ち出すいちばんの理由だろう。
 わかりやすい例外を強調すること(こんなヒドい話がある)は、ポピュリストによるプロパガンダの常套手段でもある。気に入らない意見を封殺するために同じ手法を使うなら、ナチスがこれを効果的に使ってユダヤ人を絶滅しようとした歴史を思い出すべきだろう。


 この本に対するスタンスは、「こういう考え方もあるのか」「こんな説もあるのか」という、半信半疑、くらいがちょうどいいと思うんですよ。
 著者は、「まともに読めない読者」を批判しているけれど、著者の主張も「自分にとって不愉快なデータや統計的事実はスルーしたり、問題点ばかりを強調している」ところがあるから。


 「リベラル」なひとたちは、遺伝率の低い’(努力が報われる)社会のほうが「政治的に正しい」と考えている。だがなかには「ゲイ遺伝子」のように、生得的であることが差別をなくすのに有利な場合もある。だとすればわれわれは、「性的指向は遺伝的だが知能は遺伝しない」政治的に正しい社会を目指せばいいのだろうか。
 行動遺伝学に対する正当な批判に、「遺伝率は相対的なものだから、”知能の遺伝率は80%”のように、絶対的なものとして語るのはおかしい」がある。
 私(人格)は遺伝と環境によってつくられ、環境は共有環境と非共有環境に分けられる。これをまとめると、


 私(人格)=遺伝+環境(共有環境ー非共有環境)


となる。
 共有する遺伝子と共有環境はきょうだいをお互いに似させるちから、異なる遺伝子と非共有環境は別々にするちからだ。一卵性双生児は同一の遺伝子をもっているが、非共有環境(友だち関係)の効果によって異なる人格になる。――家庭内でも兄・姉と弟・妹で扱いがちがうこともあるだろう。
 この単純な足し算と引き算からわかるように、環境の影響が大きくなれば遺伝率は下がり、逆に環境の影響が小さくなれば遺伝率は上がる。
「子どもたちの教育程度に差があるのは、親の経済状態によって進学できるかどうかが決まるからだ」という主張は、ある程度は正しい。
 しかしそうなると、社会がどんどん平等になれば、生育環境(親の経済状態など)のちがいはなくなっていくのだから、原理的に遺伝率は上がっていくはずだ。――遺伝と環境の影響がそれぞれ50%として、生育環境の影響率が30%に下がれば遺伝率は70%に上がる。
 これとは逆に、どんどん社会が不平等になれば、親が金持ちか貧乏人かで受けられる教育がまったくちがうのだから、生育環境の影響が大きくなって遺伝率が下がるはずだ。
――同じく遺伝と環境の影響がそれぞれ50%として、生育環境の影響力が70%に上がれば遺伝率は30%に下がる。


 著者は1985年に発表された、ノルウェーの大規模な双子データを使った研究について、こう述べています。

 この研究が示すのは、「リベラルな社会ほど遺伝率が上がる」という単純な事実だ。だとすれば「リベラル」なひとたちこそが、環境のちがいで人生が決まることのない遺伝率100%の理想世界を目指さなくてはならない。


 ここまで露悪的にならなくても……という感じではありますが、完全な機会平等が実現されれば、その結果として出てくる「差」は、遺伝的な「才能」の差だけになる、ということなんですね。
 ただし、人間社会において、「すべての人々が、完全に同じ環境で生育し、同じ教育を受ける」という仮定そのものが、ありえない(あるいは、今の人間社会のレベルでは、きわめて困難、というか不可能である)ということは忘れてはならないと思います。
 僕個人としては、「まずは機会平等を目指す」というのは、それが困難かつ不可能であるだけに、妥当な方針ではないかと考えているのです。
 無理かもしれない、と思っていても、だからといって、その理想を捨てたら、収拾がつかなくなってしまう、というか……


 「差別はよくない」「それぞれの人間の可能性は無限で、みんな環境や努力で何者にでもなれる」という思想が、かえって人を不幸にする、あるいは追い詰める場合もあることを著者は指摘しているのです。

言ってはいけない』でも述べたが、行動遺伝学が発見した「不都合な真実」とは、知能や性格、精神疾患などの遺伝率が一般に思われているよりもずっと高いことではなく(これは多くのひとが気づいていた)、ほとんどの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さいことだ。――音楽や数学、スポーツなどの「才能」だけでなく、外交性、協調性などの性格でも共有環境の寄与度はゼロで、子どもが親に似ているのは同じ遺伝子を受け継いでいるからだ。
 ところが子育ての大切さを説くひとたちは、親の努力によって子どもの運命が決まるかのような主張をする。これがほんとうだとすれば、子育てに成功した親は気分がいいだろうが、「失敗」した親は罰せられることになる。
 どんな子どもも親が「正しい教育」をすれば輝けるなら、子どもが輝けないのは親の責任だ。「犯罪が遺伝する」ことがあり得ないなら、子どもが犯罪者になるのは子育てが悪いからだ――という理屈もいまでは「言ってはいけない」ことになったので、「社会が悪い」となった。「人権」を振りかざす”自称”リベラルが目指すのは、「努力が報われる」遺伝率ゼロの世界なのだ。


 しかし、その目標が完全に達成されて、みんなが同じ環境で同じ教育を受けられれば、「遺伝的な違い」だけが露わになってしまう、という、なんとも居心地の悪い状況になっているわけです。先述したように、そんな状況は現実的ではないとしても。
 親の側からすれば、「すべては親の教育の影響」というのは、うまくいっていれば鼻高々でしょうけど、大部分のそうではない人にとっては、救われない考え方なのです。
 そもそも、ほとんどの親は、子どもをうまく教育して、幸せになってもらいたい」とそれぞれ努力をしているはず。
 それでもうまくいかない親に「お前が失敗したからだ」と全責任を負わせるのは、あまりにも酷な話でしょう。
 著者によると、『言ってはいけない』への反響には、自分の子どもの教育がうまくいかなくて責任を感じ続けていた親たちからの、「救われた」という声が、少なからずあったそうです。
 
 読んでいると、「もう、やれるだけのことをやって、あとは運だから、恨みっこなし!」ってあきらめるくらいでちょうど良いのではないか、と思えてくるんですよ。遺伝的な差異というのは、人間にとっては、「どうしようもない部分」ですから。
 でも、近い将来のテクノロジーでは、遺伝子の操作などによる「遺伝的な平等」も、可能になるかもしれません。
 そうなったときに、人間は、その「平等」を選ぶのだろうか?


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