琥珀色の戯言

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【読書感想】フランクリン・ローズヴェルト-大恐慌と大戦に挑んだ指導者 ☆☆☆☆

フランクリン・D・ローズヴェルトアメリカ史上唯一4選された大統領である。在任中には大恐慌第二次世界大戦という未曾有の危機に直面した。内政では大胆なニューディール政策で景気回復に努め、外交ではチャーチルスターリンと協力してドイツ・日本と戦い、勝利への道を開いた。ポリオによる不自由な身体を抱えつつ、いかにして20世紀を代表する指導者となったか。妻エレノアらとの人間模様も交え、生涯を活写する。


 フランクリン・ローズヴェルトルーズヴェルト)といえば、太平洋戦争で、日本に立ちはだかったアメリカの大統領、というイメージが強いのです。
 教科書的には、ニューディール政策大恐慌を乗り切ろうとし(この本を読むと、現在では十分な効果をあげられなかった、と評価されているようです)、第二次世界大戦では連合国を勝利に導いた大統領。

 どんなすごい人だったのだろう、と思いながら読み始めたのですが、著者が紹介している、その「生い立ち」は、なんだか、あんまりパッとしないものなのでした。

 ローズヴェルトは、抽象的で論理的な思考を要する勉学に、ほとんど興味を抱くことはなかった。大学で積極的に学んだのは、以前から関心を持っていた海軍史や、実社会に出てから役立ちそうな経済学のような科目だけだった。大学での成績はCの少し上といったレベルであり、お世辞にも優秀な学生とは言えなかった。のちにハーヴァード大学時代の思い出として語っているのは、勉学ではなく、友人と行った悪ふざけの数々であった。退屈な講義が延々と続くイギリス史の授業では、教授が最初に出席をとったあと、学生に背を向けて板書している間に、窓から抜け出して遊びに行ったことを後年、懐かしげに回想している。
 ローズヴェルトにとって、大学で最も大切だったのは、周りの学生から「一目置かれる」存在になることであった。そのためにまず、入学後すぐにアメリカン・フットボールのチームに入ろうとした。だが、体格が劣っていたため、体育会のチームには入部を許可してもらえず、結局、1年生しかいない弱小の下部チームに入ることになった。それでも、そのチームのキャプテンに選ばれたことを、父母にあてた手紙で誇らしげに報告している。


 年の離れた夫婦のもとに生まれ、父親は早く亡くなったため、母親に溺愛・束縛され続けていたローズヴェルト。親類にセオドア・ローズヴェルト大統領がいる名門一族のひとりではあるものの、勉学に秀でたわけでも、若い頃から強いリーダーシップを発揮することもなかったのです。
当時のハーヴァード大学は、名門の子弟であれば入学するのは今ほど難しくはなかったし、卒業後、法律家になったものの、就職先からは「能力的に、法律家としての将来性はない」と見なされていました。
 
 「英雄」には、それらしい幼少時のエピソードや、「他の子どもより抜きんでたところ」がありそうなものなのですが、フランクリン・ローズヴェルトは「名門一家のちょっと自己顕示欲が強いマザコンのボンボン」みたいな感じなんですよ。
 こんな人が、アメリカで唯一、大統領に4回も選ばれたのです。
 いやむしろ、「英雄」ではなかったのが幸いしたのだろうか。
 自分の理念に殉じる、というタイプではなく、「わからないことは、わかる人にやってもらう」「状況に応じて、良く言えば臨機応変に、悪く言えば無節操に自分を変えることができる」ことが、長期政権を維持できた理由だったのかもしれません。
 そういう点では、日本の第二次安倍政権に近いのかな、とも思いました。

 ブレーントラスト(大統領にアドバイスをする組織)の活用の仕方は、ローズヴェルト独自のものだった。さまざまな政策課題について科学的な知見を用いて検討し、専門分野に精通している人々を中心に政策を立案させた。それを国民に説明して、理解を得ることも重視され、政策の解説者や教育者としての役割を担った。

 大統領就任直後にローズヴェルトは、見解の違いにはこだわらず、利用価値があると判断した人を積極的に登用すると表明していたが、実際にローズヴェルトは、ブレーントラスト内の意見の相違にはほとんど注意を払わなかった。専門家に意見を戦わせておき、あらゆる見解が出そろった後、自分で最終的な決定を下した。ローズヴェルトは、アイディアを行動に変える「スイッチボード」(電話の交換盤)になるのが自分の役割だと考えていた。
 献身的な側近をそれぞれの分野の専門家として重用することで、職務に忙殺されることなく、就任後も自分の生活のペースを貫いた。朝は8時半にゆっくりと目を覚まし、ベッドで朝食をとりながら、新聞5紙に目を通した。そのまま寝室で側近からブリーフィングを受けて、その日のスケジュールとアポイントメントについて説明を聞いた。10時過ぎになって、やっと車椅子に乗り、執務室へ移動した。前任者のフーヴァーは、毎朝8時前に執務室に現れて、夜遅くまで仕事をした。ローズヴェルトは、特別な案件がない限り午後6時に仕事を切り上げた。その後はプールに行って不自由な足の筋肉をほぐし、マッサージをしてもらった。

 ローズヴェルトは、ラジオ放送を巧みに利用した最初の大統領だった。アメリカでは1932年には1800万台のラジオが普及しており、全世帯の半数以上が少なくとも1台のラジオを所有していた。ラジオを持っていない人々も、何か重要なニュースがあれば、近所の商店や友人宅などで放送を聞いていた。以前にもラジオで話をした大統領はいたが、放送を政治的に利用することはなかった。ローズヴェルトは就任演説からラジオ放送を始め、目の前にいる聴衆だけでなく、ラジオの向こう側で耳を傾けている国民ひとりひとりを意識しながら話をした。
 就任後は、炉辺談話というラジオ番組を持ち、そこで政治を語った。番組は不定期で、1933年から1944年の間に合計30回放送された。「友よ」あるいは「アメリカ国民のみなさん」という呼びかけで始まり、その時々の重要な施策を取り上げて、国民に説明した。原稿は自身の手で何度も練り直し、誰もが理解できるような平易な言葉で語りかけた。金融や財政などの難解な政策についても、比喩を多用するなどして、わかりやすく解説した。ラジオを聞いている人々は、自宅のリビングに大統領が訪ねてきて、現在取り組んでいる仕事について語ってくれているかのような錯覚を覚えた。放送を通じて、ローズヴェルトは、国民にとって偉大な指導者であると同時に親しい友人になった。


 フランクリン・ローズヴェルトというのは、不思議な人だなあ、と思いながら、僕はこの本を読んでいたのです。
 名門一家の出身とはいえ、その「直系の本流」にいたわけではなかったし、学生時代も「目立とうとはしたけれど、いまひとつパッとしない」存在でしかありませんでした。
 興味があることには一生懸命取り組んではいたものの、抜きんでた能力があるわけではなく、ポリオで身体も不自由になってしまったのですが、「天才ではなかった」からこそ、ローズヴェルトは、国民の気持ちがわかる大統領になれたようにも感じます。
 自分の能力を過信していなかったから、有能な人たちの意見に従うことにも抵抗感が少なかった。
 
 ちょうどいい塩梅のポピュリズムとマイペースさ、人使いの上手さが、フランクリン・ローズヴェルトをあの時代に必要な指導者にしたのです。
 前漢の高祖・劉邦みたいな人、だったのかもしれません。

 第二次世界大戦に関しては、アメリカという国は、武器の輸出などで経済的な恩恵を受け、恐慌から脱出できた一方で、「なるべく自分たちの血を流したくない」と考えていたこともわかります。
 そんななかで、ローズヴェルトは、国民の厭戦ムードとチャーチルからの援軍要請の板挟みになりながら、アメリカの世論を参戦に向けていったのです。
 この本を読んだかぎりでは、日本がうまく立ち回れば、アメリカとの全面戦争は避けることができたのではないか、という気もするんですよ。
 それが、日本人を幸せにしたのかどうかはわかりませんが。

 この時期(1913年から7年以上にわたる、海軍次官をつとめていた時期)のローズヴェルトは、望みどおりの職務に就き、前途洋々の人生を歩んでいるかのように見えた。しかし、私生活においては、この間、深刻な問題が生じていた。ヨーロッパ戦線の視察からの帰国の途上、大西洋を横断する船の中で体調を崩し、自宅へ戻っても不調が続いた。スペイン風邪(インフルエンザに罹患していた。普段は旅の荷物は自分で解くが、床に伏していたため、(妻の)エレノアが代わりにスーツケースを開けて荷物の整理をした。するとそこには、かつてエレノアの秘書だったルーシー・マーサーから夫に送られてきたラブレターの束が入っていた。
 それはエレノアにとって青天の霹靂だった。自分と仲のよいルーシーと夫が不倫関係にあるとは夢にも思ったことがなかった。とてつもない衝撃を受けたエレノアは、この時の気持ちを友人に次のように話している。「自分が生きている世界の底が抜けたように感じました。私は初めて、自分自身と自分が置かれている状況、自分をとりまく世界に向き合うことになりました」。
 エレノアは、ローズヴェルトにルーシーとの関係を問いただし、すべてを白状させた。そして、失われた信頼を取り戻すことは難しいと告げた。二人は離婚を考え、家族や親しい人たちに相談した。だが、(ローズヴェルトの)母のサラは、離婚を認めなかった。もし離婚するならば、財産を相続させないと言い放った。(ローズヴェルトの盟友だった)ハウも離婚すれば、政界でのキャリアは終わりだと忠告した。結局、二人は離婚を思いとどまり、その後も夫婦として生活を続けることになった。だが、夫婦間の亀裂は修復されることはなく、政治家とその妻というパートナーシップだけが残った。


 フランクリン・ローズヴェルトには絶えず愛人がいて、夫婦の5人の子どもたちは、結婚と離婚を繰り返していたのです。
 当時のアメリカに『週刊文春』が無かったのは幸いでしたが、「政治家としての資質や能力」と「配偶者や親としてのモラルの高さ」は、必ずしも一致しないみたいです。
 いち国民としては「よき家庭人だけれど、無能な政治家」が大統領になるよりも、「どんなにひどい夫・妻であっても、国民にとって有用な人」がトップにいてくれたほうが良いと思うんですよ。
 もちろん、「よき家庭人であり、素晴らしい大統領」であれば言うことはないのですが、そういう人は稀有な存在です。
 身内を愛する才能と、政治家として国民全体に目配りをする能力とは相反するのではないか、とさえ感じます。
 もし、ローズヴェルトがスキャンダルで失脚していたら、世界史は別のものになっていた可能性もあるんですよね。

 フランクリン・ローズヴェルトは、そういう「私人としての倫理観と政治家としての能力」や「どういう人が政治をやるべきか」を考えずにはいられない「偉人」なのです。


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