ところで、世の中には、「村上春樹は、エンドロールを全部観る映画ファンの気持ちがわかってない!」と(あるいは、彼は「選民的だ」とまで)憤っていらっしゃる方もいるようなのだが、村上春樹フリークである僕からすれば、あれは作家・村上春樹としての「露悪主義」みたいなもので、「こう書くと怒る人がいる」なんていうのは百も承知上で、ああいうふうに書いているに決まっているのだ。
そして、作家としての「求心力」(あるいは、集客効果)を上げるためには、「バランスの良い、八方美人的な意見」よりも、「多少偏りがあっても、インパクトがあったり、一部の人に確実に深く頷いてもらえる意見」のほうが重要なのだと思う。
こういうのは、芸能界とかでも一緒なのだろうけど、「100人全員が、好きでも嫌いでもない人」よりは、「100人のうち99人に嫌われていても、1人にものすごく好かれている人」のほうが、商業的には「価値がある」のだ。
だって、「好きでも嫌いでもない人」は、本もCDも買ってくれないという意味では、「大嫌いな人」と同様の価値しかないのだから。「売れる」という観点からは、100分の0より100分の1のほうが上だし、100分の1でも、対象が100万人になれば、1万冊、あるいは1万枚。結果的には、けっこう大きな数字になるのだ。
これを書いていて思い出したのだが、僕の周りには、清原選手のファンというか、彼に好感を持っている人は全然いないけれど(ちなみに僕も嫌いだ)、清原選手が「球界の人気者」なのは、そこらじゅうにいる「毒にも薬にもならない野球選手」よりも「清原を見るために球場に行く」というファン層が、確実に存在しているからなのだろう。
こういうのはサイトにも言えることで、「誰にも嫌われない中庸のスタンス」というのは、批判もされにくいかわりに、誰にもブックマークしてもらえない、という面がある。
「なんでこんな極論に人が集まるんだ?」と常識人たちは思うことになるのだけれど、極論だからこそ、人は集まるのだ。