琥珀色の戯言

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【読書感想】村上春樹は,むずかしい ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
はたして村上文学は,大衆的な人気に支えられる文学にとどまるものなのか.文学的達成があるとすれば,その真価とはなにか――.「わかりにくい」村上春樹,「むずかしい」村上春樹,誰にも理解されていない村上春樹の文学像について,全作品を詳細に読み解いてきた著者ならではの視座から,その核心を提示する.


 長年、村上春樹作品を読み続けてきた著者が、「デビューから現在まで、村上春樹という作家が辿ってきた道のり」を概観していった新書です。
 基本的に「デビュー作の『風の歌を聴け』からの村上春樹作品をすでにひととおりは読んでいる村上春樹ファン、あるいは小説好き」向けで、「村上春樹を読んでみたいけれど、どれがオススメかな」というようなブックガイド気分で購入してしまうと、置いてけぼりにされてしまうこと必定です。


 著者は、冒頭で「東アジアでの村上春樹への評価」について、こんな話を紹介しています。

(2012年に早稲田大学で行われた国際シンポジウム「東アジア文化圏と村上春樹――越境する文学、危機の可能性」において)


 村上春樹と、いま生まれつつある東アジア文化圏の意義についてさまざまな問題が論じ合われたが、そこで、右のような東アジアの文学者、知識層における村上春樹実相にふれ、深いショックを受けたのである。
 それによると、「村上春樹は東アジアではほとんど読まれていない」。
 むろん文学作品などふだん読まない若い読者には広く読まれている。一方では「大人気」なのだが、しかし、高度な読書人、知識層、文学者たちには、ほぼ読まれておらず、受け入れられておらず、また、「リスペクトもされていない」。


 僕は村上春樹ファンなので、著者が何だか粗捜しばかりしているような気がして、あまり好感は持てなかったのですが、村上春樹という作家が、こうして率直な批評の対象になるということそのものが最近ではけっこう珍しくなっている、というのは、言われてみればそうだよな、と。
 ノーベル文学賞候補であり、長篇を書けば書店の開店時間が早まり、「予約受付中!」の告知がなされる村上春樹という人は、日本の「世界文学方面」を担う存在でもあり、良くも悪くも「アンタッチャブル」な存在になりすぎているのかもしれません。
 ファンは「村上春樹をつまらないという人は、センスがない」と思い込み、アンチは「あんなのは『文学』じゃない、読む価値もない」と食わずぎらいであることを恥じないのです。
 批評家たちも、他の小説と同じように村上春樹作品を批評することに、及び腰になっているところもありそうです。
 中には「村上春樹はとにかくすごい!」を飯の種にしているように見える人もいますけど。


 「東アジアのインテリには読まれていない」と言っても、以前観たNHKの番組では、東アジアでの村上春樹作品は「ライフスタイル文学」として広く読まれてもいるのです。
 そして、このシンポジウムで村上春樹作品を語っている東アジアのインテリたちは、中国とか韓国に対する「日本人の視点」として、村上春樹作品を受け入れがたく感じているところもありそうです。


参考リンク:『世界が読む村上春樹 〜境界を越える文学〜』の備忘録(いつか電池がきれるまで)


 この『世界が読む村上春樹 〜境界を越える文学〜』という番組のなかでは、このような話が紹介されていました。

台湾のカフェ『ノルウェイの森』のオーナーの話。

「それまでの台湾では性の描写があいまいにされていたんだ。『ノルウェイの森』では性が直接的に描かれ、若者たちを惹きつけたんだ」
「笑い話だけど、台湾の人たちは、村上春樹の小説を読んでから、自宅でパスタやチーズを食べるようになった。それまでは自宅でパスタを作る人は、ほとんどいなかったよ」

 村上作品には『ノルウェイの森』を代表作とするリアリズム系と、『羊をめぐる冒険』などのファンタジー系の2つの系統があるが、地域によって、人気のある作品は違う。
 東アジアでは、森が高くて羊が低い。
 ヨーロッパでは、羊が高くて森が低い。


 あまりにも売れてしまうと、どうしても「あんな俗なものなんて」と思われてしまうところはあるのでしょうね。
 「人気」とか「文壇と距離をおいていること」とか、さまざまなバイアスもあって、「村上春樹(を語ること)は、むずかしい」のだろうなあ。
 批評を生業としている人にとっては、避けては通れないけれど、正面から対決するには、あまりにも大きな存在になりすぎているのかもしれません。
 日本においては、突出して「売れる純文学作家」になってしまっているだけに、なおさら。


 著者は、この新書の意図を、このように説明しています。

 村上自身が、自分は日本の近現代文学の異端者であり門外漢だと、長年にわたり、国の内外で言明してきた。そういう姿勢はいまも変わらない。村上は日本文学の伝統と対立している。村上自身をはじめとして、村上の批判者たちも、村上の愛読者たちも、みんなこの対立図式を信じている。これがいま村上をめぐって新しく浮かび上がってくる理解の定式、新しい紋切り型なのである。
 したがって、村上に関しては、シンプルに、ただ彼を日本の近現代の伝統のうえに位置づけることが、いまもっともチャレンジングな、時宜に適した批評的企てとなる。村上自身の自己認識はさておき、彼が日本の近現代の純文学としても位置づけ可能な広がりをもっていることに目を向け、村上を村上自身が敵視している日本の純文学の枠内に位置づけること。このことがいま、この定型を打破する批評的な企てなのである。


 実際に、発表順に村上春樹作品を辿っていくと、作品そのものはアメリカ文学の影響を強く受けているものの、日本の文学の系譜を完全に外れているものではない、ということもわかります。
 そして、僕が「政治的ではない、個人の文学」だと思いこんでいた村上春樹作品は、その初期から、「政治的なもの」を内包していたのだ、ということも。
 村上さんの作品で、実社会への「コミットメント」がはっきりしてくるのは、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件が発生した1995年がひとつの転機だと思っていたのですが、それ以前の作品にも、学生運動ベトナム戦争といった、社会的な背景が織り込まれていたのです。
 僕はこれらの時期に物心ついていなかったので、それを見つけ出すことができなかったのだけれども。


 ちなみに、地下鉄サリン事件の被害者たちにインタビューした『アンダーグラウンド』は、「ノンフィクション」かどうかの論争を巻き起こしたそうです。

 ノンフィクション作家たちが反発したのは、ノンフィクション作品の基本ともいうべき「事実(ファクト)の裏をとる作業を村上が、行わないだけでなく、行わないことを自分の方法とすると、そこに述べていたからである。村上は述べた、――ここに話されたもとになったものはあくまで事件以降、9か月後から1年9か月後までの被害者の方たちの「記憶」だ。ある精神科医が述べているように極端にいえば「我々は自分の体験の記憶を多かれ少なかれ物語化する」。


 これに対して、「裏をとることのないノンフィクションとは言語矛盾でしかない」と批判したのが佐野眞一さんだった、というのは、「それブーメラン!」って言いたくもなりますが、「実際に起こったこと」を描こうというノンフィクション作家たちにとっては、たしかに納得出来ない手法だったと思われます。
 ただ、この『アンダーグラウンド』でさまざまな「普通の人」にインタビューをしたことが、この後の村上春樹作品の登場人物を多彩にしたことは、間違いないようです。


 たぶん、みんなもっと、村上春樹作品を、自由に語っても良いのではなかろうか。
 あらためて考えてみると、文壇から離れているとか、インタビュー嫌いとか言われながらも、いまの時代を生きている作家のなかで、村上春樹さんほど「肉声」が世に出ている人は、少なくとも日本にはひとりもいないんですよね。
 それだけ世の中から求められてもいるのだろうし、けっして「沈黙を貫いている」わけでもないのです。
 村上春樹と同じ時代を生きているのというのは、けっこう凄いことなんじゃないか、と僕は思うのです。
 村上春樹という人は、良く言えば「進化し続けている」、皮肉っぽく言えば「揺れている」作家なんですよね。
 その「揺れ」みたいなものは、きっと、リアルタイムで読んでいる人間だけが味わえる特権なんじゃないかな。

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