琥珀色の戯言

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村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいこと


村上春樹、エルサレム賞受賞おめでとう!!! - モジモジ君の日記。みたいな。
↑のエントリに対して、僕はこんなブックマークコメントをつけました。

fujipon たぶん村上さんは普通に出席して、普通に「自分の作品を読んでくれているイスラエル人」たちに謝辞を述べて、普通に帰ってくるのではないかと思う。小説家というのは、作品で語ればいいんじゃないかな。 2009/01/26

それに対して、エントリ主のmojimojiさんは、こんなふうに書かれています。

mojimoji イスラエル, パレスチナ, 村上春樹, 文学 受賞スピーチも含めた全部が作品。>id:fujipon/id:wacking>なぜ?スピーチもその人の作品です。"小説家としての"作品ではないなら、スピーチへの批判は"小説家として"ではなく、人として批判されてるのです。 2009/01/26

村上春樹フリーク」である僕がこのmojimojiさんのコメントを読んで思ったのは、「たぶん春樹さんは、こういう文脈で”人として批判”されることに対して、何の痛痒も感じないだろうな」ということでした。「小説家が”ひとでなし”なのは当然だ」とかうそぶきながら、「やれやれ」とため息をつくくらいのもので。”小説家としての作品”に対する批判には、それなりにナーバスになることもあるかもしれませんが。
『翻訳夜話』でも、「作品の読み方を作者の印象で変えるのはおかしい」というような話を柴田元幸さんとされてました。

村上春樹氏 エルサレム賞受賞 - 無造作な雲
そして、↑のエントリみたいに、

今更ながら、20世紀を通じて左右両方の立場から地道にしかし着実に積み上げられてきた日本における政治と文学の断絶の根深さに、恐れ入るしかない。
春樹さんが、いや、文学者が、政治的な問題と無縁でいられるという神話は、どこに根拠をもつのだろうか。
少なくとも村上春樹という作家は、現実と向き合う姿勢(コミットメント!)をウリにしている小説家ではないのか。巻き込まれたわけじゃなく、自分から参戦したのじゃないのか。

というふうに僕のブックマークコメントを「解釈してしまう」人もいるわけで、本当に100文字制限のなかで何かを語るっていうのは難しいものですね。
「春樹さんが、いや、文学者が、政治的な問題と無縁でいられるという神話」を僕が語っているのか!と驚きましたよ本当に。
大事なのは、(政治的な問題も含めて)「作品」に何が書かれているかということで、スピーチやパフォーマンスで作家を評価するのは間違ってるんじゃないの?という意味だったんだけど。

いや、イスラエルがいまやっていることについて、苛立ちや無力感にさいなまれている人が多いのは理解できるんですよ、僕もそうだから。
ただ、だからといって、「村上春樹という人が、自分たちが望んでいるような方法でイスラエルで抗議行動をやらなければバッシングする」というスタンスはあまりに狭量なんじゃなかろうか。

僕はたくさんの村上春樹作品(小説だけではなくて評論や翻訳も含めて)に接してきているのですが、村上さんと言う人は、自分で翻訳をされることもあり、「自分の作品が外国語に翻訳されて、海外の読者に読まれること」に対して、非常に興味と感謝の念を抱いている人だと思います。
柴田元幸さんとの共著のなかで、「どんなに忙しくても、海外で自分の小説を翻訳している人からの問い合わせには、快く応じるようにしている」と仰っておられますし。
僕が「作品で語ればいい」とコメントに書いたのは、「小説」というのが、村上春樹という人間にとって、もっとも効果的な「武器」だからなのですよ。「有名な文学者・村上春樹イスラエルで批判的なスピーチをしたこと」よりも、「村上春樹の作品を読むイスラエル人がひとりでも増えること」のほうが、長い目でみれば、はるかに「平和のために有効」なんじゃないか、と考えているからです。
ノルウェイの森』あたりはそういう作品ではないかもしれないけど、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』には、そういう「警鐘」が含まれています。

内田樹先生が、著書『村上春樹にご用心』のなかで、村上さんの作品を引用しながら、こんなふうに書いておられます。

 家事は「シジフォス」の苦悩に似ている。どれほど掃除しても、毎日のようにゴミは溜まってゆく。洗濯しても洗濯しても洗濯物は増える。私ひとりの家でさえ、そこに秩序を維持するためには絶えざる家事行動が必要である。少しでも怠ると、家の中はたちまちカオスの淵へ接近する。だからシジフォスが山の上から転落してくる岩をまた押し上げるように、廊下の隅にたまってゆくほこりをときどき掻き出さなければならない。
 洗面所の床を磨きながら、「センチネル」ということばを思い出す。 
 人間的世界がカオスの淵に呑み込まれないように、崖っぷちに立って毎日数センチずつじりじりと押し戻す仕事。
 家事には「そういう感じ」がする。とくに達成感があるわけでもないし、賃金も払われないし、社会的敬意も向けられない。けれども、誰かが黙ってこの「雪かき仕事」をしていないと、人間的秩序は崩落してしまう。
 ホールデン・コールフィールド少年は妹のフィービーに「好きなこと」を問われて、自分がやりたいたったひとつの仕事についてこう語る。

 だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方へ走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。 (J.D.サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹訳、白水社、2003年、287ページ)

 高校生のときにはじめてこの箇所を読んだとき、私は意味が全然分からなかった。
 何だよ、その「クレイジーな崖っぷち」っていうのはさ。
 でも、それから大きくなって、愛したり、憎んだり、ものを壊したり、作ったり、出会ったり、別れたり、いろいろなことをしてきたら、いくつかわかったこともある。 
 「キャッチャー」仕事をする人間がこの世界には絶対必要だ、ということもその一つだ。
 「キャッチャー」はけっこう切ない仕事である。
 「子どもたちしかいない世界」だからこそ必要な仕事なんだけれど、当の子どもたちには「キャッチャー」の仕事の意味なんかわからない。崖っぷちで「キャッチ」されても、たぶん、ほとんどの子どもたちは「ありがとう」さえ言わないだろう。
 感謝もされず、対価も支払われない。でも、そういう「センチネル(歩哨)」の仕事は誰かが担わなくてはならない。
 世の中には、「誰かがやらなければならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならいんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。
 「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。ときどき、「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
 そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
 でも、自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間は「キャッチャー」や「センチネル」の仕事には向かない。適性を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。
 家事はとても、とてもたいせつな仕事だ。
 家事を毎日きちきちとしている人間には、「シジフォス」(@アルベール・カミュ)や「キャッチャー」(@J.D.サリンジャー)や「雪かき」(@村上春樹)や「女性的なるもの」(@エマニュエル・レヴィナス)が「家事をする人」の人類学的な使命の通じるものだということが直感的にわかるはずである。

 霊的成長というものがあるとしたら、それは「私がいなくても、みんな大丈夫。だって、もう『つないで』おいたから」というかたちをとるんじゃないかと思います。
 村上春樹の小説にはときどき「配電盤」が出てきます。
 例えば、『1973年のピンボール』。

 「配電盤?」
 「なあに、それ?」
 「電話の回線を司る機械だよ。」
 わからない、と二人は言った。そこで僕は残りの説明を工事人に引き渡した。
 「ん……、つまりね、電話の回線が何本もそこに集まっているわけです。なんていうかね、お母さん犬が1匹いてね、その下に仔犬が何匹もいるわけですよ。ほら、わかるでしょ?」
 「?」
 「わかんないわ。」
 「ええ……、それでそのお母さん犬が仔犬たちを養ってるわけです。……お母さん犬が死ぬと仔犬たちも死ぬ。だもんで、お母さんが死にかけるとあたしたちが新しいお母さんに取替えにやってくるわけなんです。」
 「素敵ね。」
 「すごい。」
 僕も感心した。  (『1973年のピンボール』、講談社文庫、1983年、48ページ)

 うーん、ウチダも感心しました。
 これはやはり「霊的生活」の比喩じゃないかなと思います。村上春樹って、「そういう話」ばかりしている人ですからね。
 霊的成長っていうのは、配電盤としての機能を全うするということじゃないか、と。私はそんなふうに思っています。
 私がいなくなっても、誰も困らないようにきちんと「つないで」おいたおかげで、回りの人たちが、私がいなくなった翌日からも私がいないときと同じように愉快に暮らせるように配慮すること。
 そういう人に私はなりたいと思っています。

 「個人主義的な文学」だというイメージを持たれがちな(というか、僕もそういう印象を持っていました)村上春樹作品というのは、実は、「目に見えないところ(あるいは、多くの人が目に留めないところ)で、ある種の『破綻の予兆』みたいなものを防ぐ防波堤になっている人たちの物語なのだ、ということなのでしょう。そして、彼らが極めて「個人主義的」に見えるのは、実際は、「多くの『センチネル』に向かない人々」にとっては、彼らの行動が理解不能だからなのかもしれません。
 でも、村上春樹作品というのは、しずかに、そして確実に世界中の人々に「『キャッチャー』として生きることの悲しみと尊さ」を訴え続けているのです。
 
 現在あの地域で起こっている問題というのは、人類にとって非常に大きいものではあるけれど、村上さんは、「人類全体」あるいは、「その構成員である個人個人」に対して、小説を書いている人であり、もちろん、「イスラエルの人々」も読者として想定されていると思うのですよ。

 id:mojimojiさんがイスラエルに入国して、偉い人に「直訴」するという方法ではなくて、日本でこうしてブログで主張をするという方法をとられているのと同じように、「ある目的を果たすためのやりかた」は、人によって違うはずです。できることできないこと、向き不向きは確実にあります。
 「村上春樹という有名作家」に期待する人がいるのはわかるけれど、村上さんは、たぶん、「村上春樹にできる範囲のことのなかで、自分がいちばん有効だと信じるやりかた」を実行されるのではないかと。
 それが、スーザン・ソンダクと同じ方法でないからといって、批判されるのは筋違いです。彼らは、別の人間なのだから。村上さんがスピーチでイスラエルの政策・軍事力行使についての擁護発言でもすれば話は違うのでしょうが、そんなことはまずありえないでしょうし。
 村上さんは、スピーチで政府の批判をするよりも、イスラエルの読者に感謝の辞を述べるほうが、「村上春樹にできること」としては、よっぽど平和に近づけると思っているのではないかと。
 小説家というのは、「作品に書くこと」を「現実との最高のコミットメント」だと信じている人種だと僕は考えます。
もちろん、スピーチだって上手いにこしたことはないけれど、野球選手をヒーローインタビューの面白さだけで評価してもしょうがない。

まあ、ここに延々と書いているのは、僕の勝手な想像でしかなくて、村上さんが本当に授賞式に参加されるのか、そして、授賞式でどんなスピーチをされるのかは、その状況になってみないとわからないんですけどね。

ただ、大事なことなので、もう一度繰り返しておきます。
ある目的を果たすための道は、必ずしもひとつではないし、人にはそれぞれ、自分のやりかたがあるのです。
それが他者に致命的なほどの痛みをもたらすものでないかぎり、誰かの「抗議」のやりかたが自分の意にそまないものだからという理由で、「人として批判されてるのです」なんて言うのこそ、「イスラエル的」じゃないの?
「正義」とか「大義」って怖いよ。
イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。


村上春樹にご用心

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