琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ブログを読むこと、そして書くことの「責任」


忘れられないブログ (…と思った(2007/11/9))

何年か前だと思うが、あるブログサービスのランキングの最下位から順に読んでいったことがある。上位にはない面白さがあるんだろうなぁと、お宝発掘のような遊び気分で。一つ一つ読み進めているうちに、あるブログが目に留まった。殺風景なデザインのそこには、生きる苦しさが切々と綴られていた。死への望みを支えにようやく生きているような人による、胃酸を嘔吐するような内容の日記だ。コメントは一つも付いていない。比較的マメに書かれていた日記は、最も古いログから数ヶ月後のある日を境に、ぷつんと更新が途絶えている。

もちろん、ブログに「何か」を書くというのは、誰かに何かを伝えることなのでしょうけど、その一方で、ブログを読むという行為もまた、誰かから「何か」を受け取ってしまうことなのだ、ということなのです。このブログの書き手に、「偶然の読者」は何かしてあげられたのか? 「読んだよ」と形にして伝えることによって、何かが変わったのか? 
その答えは、たぶん誰にもわからないのです。

ただ、ひとつだけ言えることは、少なくともこのエントリを書いた人は、そのブログを読み、その声を聴いてしまったことは、ある種の「責任」みたいなものを感じずにはいられなかった、ということなんですよね。「私が何かしてあげれば、『結果』は違ったのだろうか?」と。
僕や僕の周囲の人々の経験からすると、「死に向かっている誰かを支えてあげる」、もっと露悪的な言い方をすれば「死のうとしている人にもたれかかられる」というのは、なまやさしいことではありません。ひとりの人間のベクトルを「死」から「生」に向けさせるためには、それこそ、ひとりの人間の「全身全霊」が必要とされます。片手間に誰かを救うことなんてできないのです。
高校時代に村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだときには、ワタナベが直子の死のあと、比較的早い時期にミドリを求めるのは「不誠実」だという気がしたのですが、今の僕は、あそこまで直子につきあってあげたワタナベは、本当に偉いなあ、と感じます。たぶん、直子の両親の「大変さ」は、もっと切実で悲惨なものだったと思いますが。

もちろん、「ブログを読んだだけの関係」なんていうのは、法的にも倫理的にも責任を問われるようなものではありません。
ただ、こうやって多くの人の「剥き出しの感情」に触れるというのは、面白いことである一方で、とても危険なことだし、自分の心に本来はつかないはずの小さな傷をたくさんつけていくことなのかもしれないな、という気がするのです。

そして、「書く側」も、やはり、そういう意識は持っていないといけないのですよね。
「感情を表出する」というのは、それだけ、誰かに何かを「受け取らせてしまう」ものだから。
一度誰かに読まれてしまえば、後で消してしまったとしても、それは、「なかったこと」にはできないものだから。

参考:向こう側の人たちへ (イチニクス遊覧日記(2007/11/8))

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