ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話*ホームページを作る人のネタ帳
↑のエントリと、このエントリへの「はてなブックマークでの反応」について。
僕はAmazonもリアル書店も頻繁に利用するのですが、確かにどちらも一長一短あり、という感じです。
ただ、地方都市在住者としては、最近の「中規模書店」での文芸書の壊滅っぷりには愕然とするばかりなのですけど。
「ジュンク堂書店」の田口さんが書かれているように、ジュンク堂などの大型書店では、「棚」というのは担当者の「作品」なのですが、地方の一般的な「本屋さん」では、すでに「個性を発揮しようが無い」状態なわけで。
ちょっと「気持ち悪い」と思われるかもしれませんが、僕にとって、リアル書店に行く最大の理由は「好きなものに物理的に囲まれることができる」からなんですよね。そして、「世の中には本が好きな人がこんなにたくさんいるのか」と再確認することもできますし。そして、書店員さんが書いたPOPを見て、「これ、この店のどの人が書いたのかなあ」なんて想像してみるのです。ちょっと官能的なシーンがある本だったら、「おおっ、このお姉さん(っていっても僕より年下)が、この本をっ!」などと、妄想にふけってみたりして。
あまり人と接するのが得意じゃないけれど、完全な孤独にも耐えられない僕にとっては、「書店の空気感」が「ちょうどいい」のですよね。
逆に本屋と言うのは、ほぼ全ての本が平等であり、どれを買うかは本人が調べ、考え、選び、そして購入に至ります。
ニュースサイトに「紹介順」があるのと同様に、書店もディスプレイのされ方、あるいは、「どの本が書店に置かれるか」によって、かなりの差別化がされていますし、僕はむしろ、「ここの書店員さんはどんな本をお薦めしているのだろう?」と思いながら書店をぶらぶらすることが多いです。
ただ、「ネットで評価されている本」っていうのは、なんというか「勉強になる本」に偏りがちなんじゃないかな、とも思うんですよね。
僕にとっての書店の最大の強みっていうのは、「物質としての本」がたくさんあるという「空間の魅力」なのかもしれません。
普通に考えればどこにでもあるような新刊書目的で行くのなら、混んでてだだっ広い大型書店に行くよりは、近所の本屋さんのほうが「効率的」なのですが、ついつい大きな書店に行ってしまうのは、やっぱり「物質としての本が好き」だからなのかなあ。
その一方で、「普通の本屋さん」がバタバタと潰れている、というのも悲しい現実なんですが。
そうそう、この話の真偽についてなのですが、この『私はレンタルお姉さん』での記述によると、
1人のニートに、外に出て行く気を起こさせて、次のステップに移らせるまでの目安は1年。
私は基本的に、こんなアプローチをしています。
最初は手紙やハガキ。1通、1通手書きで、読んでもらえるように工夫をしながら、自己紹介やニュースタート事務局についての簡単な紹介などを書いて出します。週に1回の割合で、1ヵ月ほど出し続けることが多いです。
次は電話。出てもらえないことも多く、あまり話しが弾むということはありませんが、電話に出てもらえたら、日常の生活の様子を聞いたり、訪問の予告などをしています。
電話に出てもらえない場合も、最初の手紙から1ヵ月半から2ヵ月が経過したころには、初回の訪問をするようにしています。訪問は、近いところなら週1回、遠方なら月1回または月2回と、状況に応じた周期になります。
訪問活動では、私に慣れてもらうことが先決で、警戒心が解けたら、一緒に外出したりもします。私1人ではなくだんだんと、他のスタッフや寮生などにも同行してもらい、「人との楽しいコミュニケーション」を重ねて、ある程度、安心感をもってもらえたところで、寮に入る、アルバイトを始める、学校へ戻るなど、目標とする次の行動を起こすように促して、本人がそれを行動に移したところで、私たちの仕事は終了となるのです(なかなか、そう順調にはいかないものですが)。
「専門家」でもこのくらいのペースでやらないと「適応」は難しいと判断しているということなので、いくら「書店に興味がわいた」といっても、そんなに簡単に外に連れ出せるものなのか?とは思います(そのあたりの経過は、端折っているのかもしれませんが)。ましてや、大規模書店なんて、「人だらけ」なのだし。
しかし、この話とこの話に対する「ブックマーク」でのリアクションを読んでいると、こんなことも考えてしまうんですよね。
この話が、「フィクション」であったとしたら、「全く価値が無い」のだろうか?
僕たちは「感動的な話」「いい話」だと思えば思うほど、それが「事実」であることを望みがちですし、ネット上では、その傾向は顕著のようです。「感動的なフィクション」というのは、どんどん肩身が狭くなっていっている感じで、誰かが「いい話」を書くと、誰かが「でも、これ実話?」って言い始めるんですよね。
赤の他人である読者にとっては、それが実話か作り話かによって、何かの「現実的な影響」を受けるわけではないのに。
僕は最近、「よくできたフィクションを消化し、必要な栄養分だけを自分に取り込む力」が、どんどん失われてきているのではないか、と感じているのです。どんな「実話」だって、そこに「語り手」が介在している限りは、なんらかのフィルターがかかっているはずなのに。
「ノンフィクションだから感動してもOK」「フィクションだから騙されるな!」という「二者択一」こそが、逆に「自己啓発セミナー的な落とし穴」なのです。
それが「物語」である限り、「ノンフィクション」も「フィクション」も受け手にとっては、「ひとつの情報」にしか過ぎません。大事なのは、「それが事実かどうか」よりも、「その話から、何を感じ、何を生かしていくか」なのです(あるいは、「楽しければ事実でも嘘でもどっちでもいいや、というスタンスもあり)。
「実話じゃないから意味がない」と全否定するというのは、「実話だから鵜呑みにする」というのと、結局のところは似たようなものだと思われます。
ひろゆき氏に「嘘を嘘だと見抜けないような人は、『2ちゃんねる』を使いこなせない」という名言がありますが、現代は、「実話であるということが過大評価されすぎている時代」なのかもしれません。
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