最近の震災・原発関連の報道、とくに「専門家たちの意見」をtwitterなどで見るたびに、僕はどんどん混乱していくのです。
これは、どれが正しいのだろうか?って。
以下は、以前別の場所で書いたものを一部改変しています。
『「科学的」って何だ!』(松井孝典・南伸坊共著/ちくまプリマー新書)より。
(「科学」についての松井孝典さん(惑星科学者・東京大学大学院新領域創成科学研究科教授)と南伸坊さん(イラストレーター)の対談をまとめた新書の一部です)
南伸坊:「科学にも限界がある」ということが、昔から言われていますよね。「限界がある」というアナウンスのほうが大きくなって、「現代の科学では解明できない」ってオカルト派得意のフレーズがあります。「そうだよ、科学では解明できない不思議なことってあるんだ」っていう。だからスピリチュアルとかがはやるのは、人々の科学者への対抗心みたいな心理があって、「科学ではわからない世界」という土俵にもっていきたいんです。
松井孝典:それはどうですかね。南さんがおっしゃったこと自体の中に矛盾がありますよ。
南:え? そうですか。
松井:素人の人は残念ながら絶対にその境界に行けないんです。ようするに、「わかる世界」と「わからない世界」の境界は科学者でないとわからないんですよ。ふつうの人には何がわからないのか、具体的にはわからないんです。
南:ああ、はいはい。
松井:「何がわかっていて、何がわからないか」をわかってない限り、わからない世界はわからない。僕はふつうの人からどんなことを訊かれても、たとえわかっていないことでも、わかっているかのように説明しますよ。いくらでも科学的に。でも、ふつうの人には、その説明のどこにまだわからない部分があるかは理解できない。したがって、ふつうの人のあいだで「何がわからない世界か」がわかるわけがない。
南:いや、そうなんですけど(笑)。今みたいに科学的に否定されることへの反発なんです。「現代の科学では解明できない」って、その時の呪文なんです。
松井:プロになって初めて、「わかるって何なのか」がわかるともいえるんですよ。自然に関していえば、わかっている世界とわかっていない世界の境界が、そのプロには明快にわかります。だってその境界のところを毎日毎日考えているのがプロなんですから。
南:そうですね。
松井:じつは、そこに境界があるのがわかるということは、そもそもプロということなんですよ。だから「科学ではわからない」という地平に、一般の人が立てるということ自体がありえないんです。
南:でも、誰か科学者が「いやこれは科学ではわかりません」ということを言ったんじゃないですか。だからこういう言葉が広まった。
松井:すべてに関して「科学的にわかりません」ということはない。どんな場合でも「ここまではわかっているけど、ここから先はわかりません」という言い方をすべきなのに、もし「いっさい科学的にわからない」という科学者がいたとしたら、その人の言葉が足りないんです。科学的インタープリター能力が高くない人、つまり科学者といえども言葉で説明できない人はたくさんいますから。
南:「わかる」ということと「言葉で説明できる」というのは、また別ですもんね。
松井:細かいところを飛ばして「科学的にわからない」と言っちゃう科学者もいるわけですよ。プロの間ではそれでもわかるんです。だけどそれを一般の人に言ったりすると、そういう誤解が生まれてしまう。そこがダメなんですね。
南:ああ、なるほど。
松井:科学者といってもピンからキリまでいるわけです。しかるべき研究者に訊いてくれれば、そんなことはないんですが。私なら「ここまではわかってますよ。ここから先はわかっていません。だけど、こういうふうにすればいずれわかるでしょう」というような言い方をしますが。
この松井先生の話、前半はかなり「わかりにくい」ですよね。僕は何度か読み返して、ようやく理解できたような気がしますが、さて、本当に「わかった」のかどうか……
南さんが、【今みたいに科学的に否定されることへの反発なんです。「現代の科学では解明できない」って、その時の呪文なんです。】と言い返してしまった気持ちのほうが「よくわかった」のも事実。
ここで松井先生が仰っておられることは、たしかに正論だと思います。「と学会」が採り上げる「トンデモ本」というのが一時期話題になり、「相対性理論は間違っている!」と叫んでいる「自称天才物理学者」が、「と学会」に嘲笑されていました。
僕も彼の「アインシュタインは間違っている!」「こんなことに気付かないなんて、現代の物理学者は無能!」という「非科学的な理論」をさんざんバカにしながら紹介記事を読んでいたのですが、物理学に疎い僕にとっては、「彼の理論のどこが間違っているのかは(「と学会」の人たちの解説がなければ)、自力では全くわからない」のですよね本当は。そもそも、「と学会」の人たちの「間違っている理由の科学的な説明」というのも、正確に理解できているのかは怪しいものです。
それでも、僕はつい、その「わかっていない似非科学者」を嘲笑ってしまう。「と学会」の人たちが嘘をついている可能性だってあるのにね。
まあ、そこまで言い始めたらキリがなくなってしまうので、結局のところ、発言者の社会的な信用度とかで判断するしかないのでしょうけど。
患者さんや御家族への病状説明でも、「基本的な医学知識を持たない人(肝臓って1個しかないの?とかいう人)」に病気について、医者が理解しているように「わかってもらう」のは、きわめて難しい。
実際は、完璧な理解ではなくても、おおまかなところを噛み砕いて説明して「この説明している医者は、少なくとも嘘をついたり、悪いことをしようとする人間ではない」ということだけでも伝わればいいなあ」という感じでお話をすることも多いのです。
この引用部の後半では、松井先生は、もう少しわかりやすく、
【すべてに関して「科学的にわかりません」ということはない。どんな場合でも「ここまではわかっているけど、ここから先はわかりません」という言い方をすべきなのに、もし「いっさい科学的にわからない」という科学者がいたとしたら、その人の言葉が足りないんです】
と仰っておられます。
その物事に対して、本当に「科学的に」アプローチしているのならば、たとえ「わからない」場合でも、「ここまではわかっている」「ここからはわからない」という境界を明示することができる、ということのようなのです。逆に、「科学者」というのは、「科学的に」なんていう曖昧な表現を許さない人々だといえるかもしれません。
率直なところ、今回の原発に関するさまざまな「専門家」「有識者」の意見というのは、僕には「理解困難」です。
こういう場合は、「意見そのものではなくて、本当のことを言ってくれそうな人を信用する」のもひとつの手段だとは思うのですが、今回は、あまりに情報の量が多すぎて、そういう「選別」も難しくなってしまっています。
僕自身は、「わからないことは、ちゃんとわからないと言ってくれる人」「反対の立場の意見も考慮している人」を信用したいとは思っているのですが、そもそも「原子力の世界」で誰が本当の権威で、誰が異端なのかも、全然知らない状態では、「誰を信じていいかも、よくわからない」のです。「権威」が必ずしも現場のことを熟知しているとは限らないのは、医者の世界でも同じですから。
結局、「疑いすぎず、信じすぎず」で、日常生活を送っていくしかしょうがないのかな、と。
病院で働いていると、日本はこんな状態なのに、「ちょっと風邪気味のような気がする」という自分の小さな症状のほうが大きな問題だという人がたくさんいることを再確認します。
それは、必ずしも悪いことじゃなくて、「日常」が保たれていることの大切な証明なのでしょうし、僕自身も昨日、「なんでサンカルロが2着に届いたんだ……」という脱力感が、(ほんの一瞬でも)いまの日本の状況への不安を上回っていたことに恥ずかしくなりました。
twitterは情報を得るためのツールとして素晴らしいのだけれど、その一方で、「他人より5分早く専門的な情報を得ること」で、人生の何が変わるのだろうか、とも思います。
それが生死を分ける可能性はあるけれど、だからといって、ずっとタイムラインに張り付いているような生活は、あまりに寂しい。
そもそも、僕たちは、ナマの専門的な情報を「理解できる」わけじゃないのに。
たぶん、「わからない」のが、当たり前なんだと思います。
それは、恥じるべきでもないし、知ったかぶりをするべきことでもない。
「わからないということがわかる」
すべては、そこから。
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