- 作者: 石川幹人
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2016/02/16
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
なぜ疑似科学が社会を動かすのか ヒトはあやしげな理論に騙されたがる PHP新書
- 作者: 石川幹人
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2016/03/18
- メディア: Kindle版
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内容(「BOOK」データベースより)
企業における人事採用の際に、「性格診断」が使われることがある。しかし、非常に複雑な存在であるヒトの性格を、質問に答えてもらうだけで診断するのはかなり困難である。世間に流行している心理テストもほとんど疑似科学の疑いが強い。一方、巨大市場を形成しているサプリメントも注意が必要で、その効果をうたう主張のほとんどは疑似科学といえる。なぜこのようにあやしげな理論が蔓延しているのか?共同研究者とともに「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」を立ち上げた、疑似科学研究の第一人者が、進化生物学の視点から人間の心理の本質に迫る。
新書のなかには、「怪しげなオリジナルの説を意気軒昂に語っているもの」も少なからずあります。
その一方で、この新書のような「疑似科学に騙されないための基礎知識」を紹介しているものもあるのです。
私は大学で疑似科学を題材に科学リテラシーを教えている。科学リテラシーとは、科学的な研究方法を理解し、科学とその成果に対して適切な態度をとれる技能のことである。文明社会では、市民がみな身につけていてほしい基本的な技能となっている。
これを聞きつけて取材に来るメディア関係者の多くが、「どうして疑似科学のような根も葉もないことをみな信じるのでしょうかね」などと質問してくる。この質問には、「根も葉もないことはふつう誰も信じない」という前提があるのだが、この前提のほうが違っている。人間には、根も葉もなくとも信じたいことがよくあるのだ、たとえば、
「きみの肩にある星形のアザは勇気の印だ」
などと言われれば、気分がいい。とくにそのアザに劣等感を抱いていた少年の場合には、なおさらである。
著者は、こういう「物語」が人間におよぼす力は、必ずしも悪いものばかりではないし、「個人や社会にとって、意義があるのならば、信じておくのもよい」と仰っています。
「こんなの信じるヤツはバカだ!」というスタンスではなくて、人間というのは、そういう物語に魅力を感じるものであることを受け入れているのです。
だからこそ、大切なのは、それが「科学」と誤解されることを防ぐ、あるいは、「科学」のフリをして近づいてくる「偽科学」に騙されて自分の大事なものを失わないようにすることなのです。
これを読んでいて驚いたのは、現代のテクノロジーによって、「超常現象」の多くが「科学的に」解析され、人為的に再現できるようになっている、ということでした。
「幽体離脱」って、訊いたことがある人も多いはずです。
臨死状態のときに、霊魂が身体から抜けだして、自分を天井から見下ろしていた、というもの。
多くの人が同じような話をしているのだし、これは「科学」では説明がつかないのでは……と僕も思っていたんですよ。
実際に、体脱体験をすれば、かなりショッキングな心霊体験をしたと思うだろう。しかしこれにも、金縛りと同様、科学的な理由が見出されている。
まず「自分」という身体感覚は通常肉体の中に位置しているが、これはあたりまえのことではない。感覚系(情報の入力)と運動系(情報の出力)の拠点が肉体にあるので、「自分」も肉体にあると想定しがちなのだ。拠点が肉体から離れていけば、「自分」も離れたほうが便利になることもある。
もう少しわかりやすく説明しよう。今では実験装置を使って簡単に体脱体験ができるので、これを例にあげたい。
まず、目にゴーグル型のディスプレーを装着して、自分の肉体を見下ろす天井位置に設置したカメラから、自分の行動の様子を見続ける。これにより、情報入力の拠点を天井に移したことになる。すると、カメラの位置に「自分」がいるかのような感覚にしばらくするとなってくるのだ。触覚や聴覚をもカメラの位置に移動させる工夫をすれば、さらに体験効率が高められる。私自身も実験してみたが、ある種の体脱体験が誘発された。
つまり、「自分」という身体感覚の拠点は、比較的自由に肉体外へと移動できるわけだ。こうした人工的な実験状態では、魂が抜けたとは主張できない。なぜなら、自分の位置感覚だけが体外に移動していて、当の肉体は普通に活動しているからだ。
人間の感覚器である目をカメラと同じように考えれば、「視点を切り替えることによって、自分の居る場所が変わったように錯覚してしまう」というのは、わかるような気がします。
どうやって、その「外部カメラ」に切り替えるのだろう、という疑問は、僕にはまだ解決しきれないのだけれども。
テクノロジーの発達によって、人間と機械のあいだの違いは、どんどん薄れてきているように思われます。
というか、人間というのは、たぶん、ものすごく精巧に作られた機械である、ということなのでしょうね。
パワーストーンやオーラ、お守りなど、日常生活でもよく見かけるような「信頼の対象」についても、著者は実験や科学的な検証にもとづいて、「信じてしまう仕組み」を説明しています。
そして、「なんとなく科学的に実証されているっぽいもの」のなかには、「疑似科学」だけではなく、「現時点では根拠が不確かなもの」なども含まれており、科学というのは、必ずしも「0か100か」で色分けできるものではないことも繰り返し語られています。
脳に関する疑似科学も多い。脳の断層撮影によって、脳が栄養をたくさん消費しているところが写真に撮れるので、あたかも何でもわかるように市民は誤解してしまう。脳の断層撮像写真が掲載されているだけで、科学記事の信用性が増すことも調査で明らかになっている。じつは写真を見ても、脳の神経回路がどのように動作しているかまではわからないのだ。
「脳の断層写真が掲載されているだけで、なんとなく信じてしまう」という気持ち、わかるなあ。
実際のところ、「栄養を消費している」という以上のことは、まだわかっていない、とのことなのです。
ただ、これは「わからない」という段階であって、「栄養を使っているということは、なんらかの活動が行われている可能性が高い」という推測はできそうですが、現時点では、それ以上でも、それ以下でもありません。
脳に対する研究はかなり進んできているのですが、それでもまだ、このレベルです。
活発な神経回路とは、初心者によくある非効率なエネルギーの使い方をしている状態なのかもしれない。事実、断層撮影に写る脳の活動度合いが、熟練度に応じて低下することも知られている。ゲームに熟練していたがために、前頭葉は洗練された意思判断をしていて、エネルギーをあまり使っていなかった。だから、働いてないと誤解された可能性も高いのである。
また、広告などでの「売るためのテクニック」についての解説もされています。
ものは言いよう、というか、ちょっと考えてみればわかりそうなことでも、人は案外、信じてしまうもののようです。
総じて、消費者は量に無頓着である。商品によって配合量が違うのだが、量に応じた価格比較もせずに購入している。「倍に濃縮」という新製品が3倍の値段で売られても、性能が良くなったと錯覚して購入する。旧製品を2倍飲めば、そのほうが安かったりもするのだが……。
先日、「一錠にプラセンタ(胎盤)エキス9000ミリグラム配合」という広告を見て笑ってしまった。9000ミリグラムは9グラムであるが、一錠は明らかに1グラム未満である。重量の計算が合わない。胎盤9グラムを乾燥させたというのかもしれないが、それなら大部分はそもそも水であったのだから、エキスが9グラムというのはおかしいはずだ。
似たような事例は枚挙にいとまがない。乾燥した熟成ニンニクが、「赤ワインの10倍のポリフェノール(100グラム当たり)」と宣伝されていた。しかし実際に調べてみると、10倍量の赤ワインのほうが明らかに安く買えるうえ、飲みやすかったりもするのだ(お酒に弱い人は、ブドウジュースでもOKだ)。
ああ、こういうものって、いっぱいあるなあ!と頷きながら読んでしまいました。
わざわざ高いお金を出してそれを買うなら、ワインを飲めばいいのに!
でも、こういうのが「効きそうな感じがする」という気持ちも、わからなくはないんですよね。
「気休めですから」なんて言われてしまうと、それはもう、そうですかとしか答えようがないし。
実際のところは、みんなそんなに盲信しているわけではないけれど、信じたい、という思いが強い、というところなのかもしれません。
食事制限や運動をするよりは、ダイエット薬を1日1錠飲んで同じ結果画得られればいいなあ、というのも、気持ちはわかる。
そこにつけこまれてしまう、というのもまた事実なのだけれども。
自分の「科学リテラシー」に自信がない人はもちろん、「自分が騙されるわけがない」と信じている人も、ぜひ読んでみていただきたい新書です。
第一種疑似科学(占いや心霊主義など、精神世界に端を発したものが、物質世界とかかわり、科学的装いをまとったもの)に対応するには、宗教的なことと物質的なことを分けるとよいだろう。7章で触れた、進化論と宗教的教義の矛盾を例に考えてみる。アメリカの生物学者の多くはキリスト教徒なので、そうした人と気心が知れるようになったら、その矛盾にどう対応しているのかを、私は尋ねるようにしていた。すると総じて、日曜日はキリスト教徒だが平日は生物学者であるという趣旨の回答が返ってくるのだ。まさにこれこそが、疑似科学信奉に陥らないための知恵だと思える。
宗教的なものを全否定するわけではなく、それはそれ、これはこれ、と状況に応じて切り替えていく。
こういうのは、宗教と日常を切り離せない、世界の多くの国で編み出された知恵、なのでしょうね。
アメリカの一部には、「進化論を教えない(聖書の教えに反しているので)」という地域もあって、そういう「切り替え」ができる人ばかりではないのが現実ではあるのだけれど。
疑似科学批判、というだけではなくて、「なぜ人間は幽体離脱をしたり、オーラが見えたりするのか」という疑問に誠実に向き合ってくれる、好感度の高い新書でした。
信じていないつもりでも、オカルトにも興味を持ってしまう人は少なくないはず(僕もそうです)。
こういうスタンスだと、「信じている人」も、読みやすく、受け入れやすいんじゃないかな。