琥珀色の戯言

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ひつまぶし ☆☆☆☆


ひつまぶし

ひつまぶし

内容紹介
野田秀樹、久々の著作。タイトルは「ひまつぶし」、ではなくて、「ひつまぶし」。野田地図「南へ」上演に合わせて刊行。読者の熱い要望に応えてアエラ連載の書籍化。暇でない人もぜひ! とにかく笑えます。そして、ちょっと思索に耽りたくなります。


[野田秀樹氏「アエラの姿勢不安」自ら連載打ち切り:芸能:スポーツ報知

震災が起こる1週間くらい前に、このエッセイ集を読んだのですが、「ああ、そういえば野田さんの著書って久しぶりだなあ」と思ったくらいで、まさかこんな「降板劇」で話題になるとは想像もしませんでした。

 で、こういう「○○の割には○○」というほめ言葉みたいなのは、我々も日常、気をつけて真に受けないといけない。というか、本人は真に受けてはいけない。
「年の割には美人」とってことは、言いたいことは、美人だってことじゃなくて、年だってことだから。「お年の割には皺が少ない」も、ま、とにかく皺はあるし、年だってことだから…。
「値段の割にはおいしい」だって、手放しでおいしいとは、言ってないからね。他にもっとおいしいお店は知っているけど、ま、そこはちょっとお値段が張ってるわけよ、今日は水曜日だし、これで良しとするか…みたいなことだから。

 こういうのも現れた…「興味津々、ナスが甘いスイーツに大変身」って、そりゃ興味津々なのは、作ってるおめえだろう。っていうか、興味津々じゃなくて、おっかなびっくりだろう。ナスをスイーツって言ってごまかして食わせちゃうんだから。
 そしてこんな居直りもあった…「赤ピーマンとトマトが主役の甘くないスイーツ」…おい、スイーツ!ほんと、しっかりしてくれ。おめえ、甘いのか、甘くねえのか、どっちなんだ!?
 でも、やっぱり私にとっての極めつきのスイーツはこれだったな…「軽やかに羽ばたく秋の妖精」ってやつ。だって、スイーツが羽ばたいちゃいかんだろう、目の前で。…食えねえじゃん。

このエッセイそのものは、野田さんの身のまわりのことや「言葉」へのこだりや舞台の話など、「笑えるエピソード」が主で、社会派という印象はないんですけどね。
なかでも、野田さんが「日常のなかの、ちょっとおかしなこと(「口酒女」とか「披露宴での不思議なスピーチ」とか)」を語るときの文章は絶妙で、やっぱりこれほどの舞台作家となると「耳がいい」のだなあ、と思わずにはいられません。
僕のイメージでは、舞台作家のエッセイには、あまりハズレがないんですよね。
三谷幸喜さんとか、鴻上尚史さんとか、大宮エリーさんとか、「劇団をやっている(もしくは、やっていたことかある)人には、面白いエッセイを書く人が多いのです。
そういえば、中島らもさんも『リリパット・アーミー』を主宰していたよなあ。


これはたぶん、舞台をつくるという作業の「身体性」とか「お客さんの反応をリアルタイムで感じることができる場で勝負していること」が影響しているのではないかと僕は考えているのです(「舞台人」には一風変わった人が多い、という面もあるのかもしれません)。


この『ひつまぶし』、本当に「あんまり役に立つわけでもないし、人生がわかったような気がするわけでもないけれど、良質の『ひまつぶし』ができるエッセイです。
こんな形で『アエラ』での連載が打ち切られることになったのは、やっぱり悲しい。
でも、あの表紙の『放射能がくる』の下品さを考えると、野田さんがこうやって「自分の収入と表現の場を犠牲にして、声をあげた」ことを応援したいとも思います。


ただ、この『ひつまぶし』を読んでいると、ちょっと考えてしまうこともあって。
この単行本のオビには、「『ひつまぶし』に賛同している各界の著名人たちの名前」が並んでいます。
王貞治監督(いまは「監督」じゃないんですが)、内田樹先生、、宮沢りえさんなど、まさに豪華絢爛。
これ、野田さんのアイディアなのかもしれませんが、これだけの有名人たちに連絡をとって、「名前を使う許可」をもらったのは、おそらく、担当編集者だと思われます。
「あとがき」にも、

 そこでまずは、このスッカラカンに近い連載エッセイを、単行本にしてくれたアエラ編集者の大胆な勇気に。さらに、私の一生の思い出にと…本の帯の方を中身よりもすごいものにしてみたいという思いつきに賛同してくださった、この本の帯に名前を貸してくださった皆さま。

朝日新聞」の看板と野田さんの人脈があるとはいえ、これはけっこう大変な仕事だったはずで、この単行本のオビひとつとっても、担当編集者の「野田秀樹さんの久々の著書を売るための努力」そして「このエッセイへの愛着」を僕は感じずにはいられないのです。


野田さんは、『ひつまぶし』の最終回で、こんなふうに仰っているそうです。

突然ですが、最終回です。
先週号のアエラの表紙を見て私は愕然とした。「放射能がくる」という大きな赤い文字が、防毒マスクのようなものを被った男性の大写しの顔の上で踊っている。
たった一言でも重いコトバがある、と私は信じる。十五万部という発行部数の雑誌がそのコトバの重みを知らないはずはない。


(中略)


だが、本文をどこからどう読んでも、その根拠がよくわからない、数字でも示されていない、一体どんな根拠で、あの表紙が物語っているほどのレベルの放射能が、現時点で東京にくるのか、そして、最悪の事態がチェルノブイリ―なのか、教えてほしい。


(中略)


危機にある時、その危機を煽っても、その危険はなくならない。危険を出来るだけ正確な情報でそのまま伝えること、これがまっとうなマスメディアのやることだ。その意味で、まっとうなマスメディアが近頃減ってきたことは、重々承知していたはずだった。だが自分が毎週連載をさせてもらっているアエラが、まさか、より刺激的なコピーを表紙に使い人々を煽る雑誌だったとは気がつかないでいた。誰に謝ればいいのかわからないが、申し訳ない。故にこの回をもって、この「ひつまぶし」を終了させていただくことにした。長らく、この「ひつまぶし」を御愛読してくださった読者には、心から感謝をしています。身勝手なモノカキのわがままではありますが、先週号の表紙を見て、直感的に覚えた、このアエラの「現実」に対する姿勢への不安が消えません。
アエラという雑誌は何を目指しているのですか?フィクションですか?それともノンフィクションですか?

ちなみに、この件について、『アエラ』側は、

28日号に関しては、発売直後から出版元の朝日新聞出版に苦情が殺到。インターネット上などでも「不謹慎」などの批判がされたことから、同社はツイッターとホームページで「福島第1原発の事故の深刻さを伝える意図で写真や見出しを掲載しましたが、ご不快な思いをされた方には心よりお詫び申し上げます」との謝罪文を掲載していた。

とのことです。

こうして説明されると、野田さんの『アエラ』という雑誌の方針への不安・不満はわかるのだけれど、連載中ずっと一緒にやってきた担当編集者は、こんなことになって、ものすごく悲しんでいるはず。
あの煽情的なコピーで『アエラ」を売ろうとした人たちは、たぶん、野田さんの担当者とは別人のはずで、そういう「編集者との個人的なつきあい」をふりはらって、「連載打ち切り」というのは、正直、ちょっと「冷たい」気もするんですよ。
結果的に、『アエラ』は、野田さんが自らへの不信を表明した「連載打ち切りの理由」を掲載していますし、「『アエラ』の中から声をあげていく」という方法だって、ありえたのではないか、とも考えてしまうのです。

自分のこととして考えると、いくら大事な友達がそこにいても、上層部やその職場の経営方針が自分に合わなければ、辞めざるをえない場合もあるだろうな、とは思います。
でも、これが「英雄的な行為」であるとも、僕には言いきれなくて。
たぶん野田さん自身も、いろんな葛藤があった上で、結果として「辞める」ことを選択したのでしょうけど……

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