琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

ラーメンと愛国 ☆☆☆☆


ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

内容説明
なぜ「ラーメン職人」は作務衣を着るのか?
いまや「国民食」となったラーメン。その始まりは戦後の食糧不足と米国の小麦戦略にあった。“工業製品”として普及したチキンラーメン、日本人のノスタルジーをくすぐるチャルメラ、「ご当地ラーメン」に隠されたウソなど、ラーメンの「進化」を戦後日本の変動と重ね合わせたスリリングな物語。

僕も40年近く生きているのですが、この新書を読んでいて、ようやく自分が子供の頃の「ラーメン事情」を思い出したような気がしました。
いまから30年くらい前の僕にとっては、ラーメンは「サッポロ一番」を母親が家でつくってくれるものであり、たまにカップヌードルを食べたり、近所の中華料理店で食べたりするものでした。
いまみたいに「ラーメン道」なんてものを語る人はいなかったし、作務衣を着てラーメンをつくっているような店もありませんでした。

 かつては中国文化の装いを持っていた(雷紋や赤いのれんに代表される)ラーメン屋の意匠が、すっかり和風に変わった。さらには、作務衣風の衣装をまとった店員や手書きの人生訓(相田みつを片岡鶴太郎を思わせる)が壁に掛けられているようなラーメン屋が主流になった。
 こうした変化を本書では”作務衣化”と呼び、それ系のラーメン屋を”作務衣系”と呼ぶことにしたい。こうしたラーメン屋の変化は、常々気にかかっていたものであり、命名が必要な気がしていた。そう、いつからかラーメンは、気軽なファストフードから行列をつくる大仰な食べものに変わり、脱サラしたオヤジではなく活気のある若者がつくるものに変わり、店内には説教くさい手書きの人生訓が飾られるようになった。
 ラーメンはいつからこんなに説教くさい食べものになってしまったのか。

この新書では、日本の「国民食」となり、話題に困ったときには「おいしいラーメン屋の話」で場をつなくことができるようになるまでの「ラーメンの歴史」が解き明かされていきます。
とはいっても、個々の店や味についての話というよりは、「どうして、『ラーメン』だけがこんなに特別な食べものになっていったのか?」が、社会の動きにあわせて、丁寧に語られていくのです。
著者によると、「ラーメン」という言葉が一般的になったのは、「チキンラーメン」の影響が大きかったようです。

 多くのラーメン本の著者、麺文化の研究者が、「ラーメン」の語源の推理を試みているが、実は語源に定説はない。しかし、それまで「支那そば」「中華そば」と呼ばれることが多かったこの麺料理の一般名称が、「ラーメン」に切り替わり定着したのは、「チキンラーメン」のテレビCMによる影響だった。このことはすでに異論なき定説として定着している。

そして、安藤百福さんが「工業製品」として大量生産した「インスタントラーメン」がある一方で、全国各地で、「街おこしのための御当地ラーメン」がつくられていきます。

 札幌ラーメン=みそラーメンというイメージが定着するのは、早くても、この「サッポロ一番みそラーメン」の登場(1968年)と、東京を皮切りに全国区化していったどさん子チェーンの普及以降のことなのだ。
 すでに取り上げたように、札幌には、大正期に東京や九州とは違った経路から入ってきた独特のラーメンの歴史があった。だが、時代の経過とともに地域の名物と混ざり合い、歴史の中でみそラーメンが生まれていったというわけではない。戦後のあるときに、突然あるお店からみそラーメンが登場し、それが観光ブームとして煽られる経緯で、他の店舗も追随し、この地の名物として一気に広まったのである。
 これと同じように、ご当地ラーメンは、地域の特産物や風土に時間をかけて馴染むことで生まれたわけではない。あるとき、変わったメニューを出したラーメン屋にスポットが当たり、その店がメディアなどで知られるようになることで、観光客がやってくる。そして、地域の観光化にともない、周囲の店が右に倣えで同じメニューを提供するようになる。これがご当地ラーメンが生まれる経緯だ。
 札幌のラーメンの歴史をたどると確かに大正期に行き着くのだが、それを「地域に根ざした」ラーメンの発展形と捉えるのは無理がある。むしろ、戦後のある時期に観光化という市場の要請に応え、札幌のラーメンに突発的な変化の時期が訪れたと考えるべきである。

 7〜8年前くらいに札幌に行ったとき、ススキノで何軒かのラーメン屋に入ったのですが、「地元だろうと思われる人たちは、ほとんど、みそラーメンを注文しない」というのが意外でした。
 みそラーメンしかないような「有名店」はさておき、いろんな味がある店の場合、地元民は「しょうゆラーメン」を選んでいたのです。
 その一方で、九州北部在住の僕の周りのラーメン屋は「とんこつラーメン」ほぼ一択。
 小学校まで広島に住んでいた僕は、しょうゆラーメンも好きなのですが、九州北部の人たちは、「ラーメン」=「とんこつラーメン」なんですよね。
 このあたりの「地元民の御当地ラーメンへの忠誠心の差」は、どこから来ているのか、興味深いものがあります。


 あと、「ラーメンとナショナリズム」という項は、すごく面白かった。

 本書が見てきたようなラーメンの右傾化の流れを、旧来のナショナリズムへのそれと同様の態度で批判してみよう。彼らのユニフォームである作務衣とは、1990年代に生まれたものに過ぎない。それに、そもそもラーメンなんて、日本の伝統と関係がない。しかし、それはラーメンを支持する者たち、もしくはラーメン業界の人間たちを批判するやり口としては無効である。ラーメン的愛国心の大本が、ニセモノであること、捏造された伝統であることは、問題ではないのだ。人々は、それを自明のこととして、「伝統の捏造」を、リアリティショー的、遊戯的に行っているだけなのである。

 僕が子供の頃、ラーメンというのは、「中華料理店で、他の料理と一緒に食べるもの」でした。
 ところが、いまや「本格的なラーメン」は、「ラーメン専門店」のものとなり、そこでは、作務衣を着た若い人たちが、「修行」みたいな感じで、お客に「いらっしゃいませぇ!」と声を張り上げています。
 著者は、「ラーメンにまつわるリアリティショーで最も影響力を持った企画」として、TBS『ガチンコ!』の「ガチンコ! ラーメン道」を挙げていますが、そのほかにも、みのもんたが司会をしていた『愛の貧乏脱出作戦』なども「リアリティーショー」の舞台としてのラーメン屋(あるいは、飲食店一般)を確立していきました。
 この本を読んでから、あらためて考えてみると、「現実をショーにする」はずの「リアリティショー」を、現実がさらに模倣して、「リアリティショーのような現実」にしているのが、いまの時代のラーメン屋なのかな、という気がしてきます。
 最初は「演出」だったはずのものが、テレビを通じて広まるうちに「精神修養」とか「正しい接客態度」としてスタンダードになってしまっているのです。
 ネットでの「ナショナリズム」にしても、土台に「国家への愛着」があるというのではなく、「こういうのがマスコミに踊らされない態度なのだ、という思いこみ」によって、「ナショナリスト的な行動」をしてしまう。


 僕もラーメン、大好きです。
 でも、いまの緊張感あふれる「ラーメン道」じゃなくて、昔、近所の中華料理店で食べていた頃の、「のどかなラーメン」が懐かしくなることがあるのです。
 ラーメン道に踏み込んでしまった人たちが思っているほどには、この30年間で、ラーメンが美味しくなったような気もしないですし。

 
 「ラーメン」は、さまざまな事実とフィクションと演出が混じり合って、「現実」を構成している、いまの時代を象徴する食べものなのかもしれません。
 ラーメン好きで、日本の戦後史に興味を持っている人には、おすすめの一冊です。

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