琥珀色の戯言

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小澤征爾さんと、音楽について話をする ☆☆☆☆


小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤征爾さんと、音楽について話をする

内容紹介
指揮者はタクトを振るように語り、小説家は心の響きを聴くように書きとめる――。 「俺これまで、こういう話をきちんとしたことなかったねえ」。ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第三番、復活のカーネギー・ホール、六〇年代の軌跡、そして次代の演奏家達へ。「良き音楽」を求め耳を澄ませる小説家に、マエストロは率直に自らの言葉を語った――。東京・ハワイ・スイスで、村上春樹が問い、書き起こした、一年に及ぶロング・インタビュー。


この本、あの小澤征爾さんの「音楽家としての肉声」を、村上春樹さんが引き出しているという、ふたりのファンにとっては、たまらない一冊です。
しかしながら、かなり読む人を選ぶ内容であるのも事実で、小澤征爾さんか村上春樹さん、せめてどちらか一方への興味があるか、クラシック音楽のファンじゃないと、「ふたりの天才が、わけわかんない話をずっとしているだけの本」だと感じられる可能性が高そうです。
いや、僕もクラシック音楽には全然詳しくないので、2人の話のなかで採り上げられている有名な音楽家や曲も「名前くらいは聞いたことがある」程度のものがほとんどなんですけどね。
最初は、「自分が2人の話を理解できないこと」が、けっこうつらかった。
でも、途中から、理解しよう、ついていこうという気持ちを捨てて、「『本物』というのは、こんな言葉で、自分の世界のことを語るのだなあ」なんて、ひたすら感心することにしました。


もちろん、「音楽家にしか理解できない話」ばかりでもないのですけど。


レナード・バーンスタインのアシスタント指揮者だった時代のことを小澤さんが振り返って。

小沢征爾「そう。それでね。不思議だと思うのは、レニーってね、すごく優れた教育者なんですよ。たとえばハーヴァード大学で講演をするとなると、しっかり準備をしてきて、とても良い講演をします。有名な素晴らしい講演で、これは本にもなってますけど。で、オーケストラに対してもそういう同じことをするかというと、それがそうじゃない。オーケストラに対しては『教える』という態度ではぜんぜんないんです」


村上春樹「ふうん。不思議ですね」


小澤「それはね、僕らアシスタント指揮者たちに対しても同じだった。僕らは彼のことを先生だと思っているし、教わりたいと思っているんです。ところがレニーに言わせると、そうじゃない。君たちは僕のコリーダ(同僚)だっていうわけ。だから何か気がついたことがあったら、自分にも注意してくれ、と。君たちにも注意するけれど、私にも注意してもらいたいと。そういうアメリカ人の、良きアメリカ人の平等志向みたいなのがありました。システムの中ではいちおうボスということにはなっているけれど、自分は先生じゃないんだよ、ということ」


村上「まったくヨーロッパ的ではないですね」


小澤「まったく違う。で、オーケストラに対しても同じような姿勢でやるものだから、仕込むってことがなかなかできません、ひとつ仕込むのに、いちいち手間がかかる。またそういう平等主義みたいなものを通していくと、指揮者が楽団員に対して怒るんじゃなくて、楽団員が指揮者に対して怒って、くってかかるような事態も出てきます。僕はそういうのを何度か目にしたことがある。冗談半分とかそういうのではなく、真剣に正面から口答えする。普通のオーケストラではまずあり得ないことです。

こういう、「オーケストラという世界と『アメリカ的な平等主義』の葛藤」みたいな話は、とても興味深いものでした。
芸術という世界は、大概において、理不尽だったり、独裁主義だったりするようです。
そして、「すぐれた教育者」であることが、「すぐれた指揮者」であることとは、必ずしも一致しない。
もちろん、指揮者には、教育者としての一面もあるのですが。


この本の中には、日頃自分で演奏することのない僕が知らなかった、「音楽に関するトリビア」が散りばめられています。

村上マーラーの1番のフィナーレで、7人のホルン奏者が全員立ち上がりますよね。ああいうのも楽譜にちゃんと指示があるわけですか?」


小澤「そうです。全員で楽器を持って立ち上がれって、楽譜に書いてあります」


村上「あれって、音響的に何か効果があるんですかね?」


小澤「うーん(と考える)、まあ、楽器の位置が高くなって、音の違いがいくらかあるんじゃないでしょうかね」


村上「デモンストレーションかと思っていたんですが」


小澤「そうね、デモンストレーションもあるかもしれない。でも高い位置にすると、音がより通るということがあるんじゃないですか」


村上「あれは見てるだけで迫力ありますよね。だから僕としては、もうデモンストレーションだけのことでもいいんじゃないか、という気さえしますが。この間ゲルギーエフがロンドン交響楽団を指揮したこの1番を、コンサートで聴いたんですが、ホルンが10人もいて、それがみんなわっと立ち上がるもんだから、なにしろすごい迫力でした。小澤さんは、マーラーの音楽にそういうショーマンシップ的なものというか、世俗的な装飾性みたいなものを感じることがありますか」


小澤「うん、たしかにそういうところはあるかもしれない(笑)」

僕はああいうのって、演奏者たちのアドリブ、あるいは、その楽団がそれぞれ決めた「演出」だと思っていたのです。
ところが、実際は、「全部楽譜に書いてある」のですね。
作曲家というのは、(もちろん、「人それぞれ」の面はあるにせよ)こんなに細かいところまで、決めているのです。
しかし、ホルン奏者が立ち上がるのって、音響的な効果もあるのか……
このあたりは、小澤征爾さんでさえ、半信半疑の受け答えをされているのも、面白いところでした。


そして、「超一流の音楽家」は、こんな言葉で人に「伝える」のだな、と感心したところ。

村上「あとマンさんが頻繁に口にしていたのは、ピアノという指示は弱く弾けということじゃない。ピアノとはフォルテの半分という意味なんだ、だから小さく強く弾きなさい、と。口を酸っぱくしてそう言っていました」


小澤「そうなんだ。僕らはピアノというと、ついソフトに弾いてしまうじゃないですか。でも(ロバート・)マンさんが言うのは、音が小さくてもしっかり音を聞かせなさい。弱い音でも、その中にリズム性をしっかり込めなさいとか、そこに情感を含ませなくてはならないとか、そういうことですね。とにかくメリハリをつけろと、それが彼の言いたいことです。それが半世紀以上にわたって弦楽四重奏をやってきた彼の信念です」

「小さく強く」
なるほどなあ、と。


この本のなかで、村上春樹さんは、「文学と音楽との関係」について、こんなことを仰っておられます。

村上:僕は文章を書く方法というか、書き方みたいなのは誰にも教わらなかったし、とくに勉強もしていません。で、何から書き方を学んだかというと、音楽から学んだんです。それで、いちばん何が大事かっていうと、リズムですよね。文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まないんです。前に前にと読み手を送っていく内在的な律動感というか……。機械のマニュアルブックって、読むのがわりに苦痛ですよね。あれがリズムのない文章のひとつの典型です。
 新しい書き手が出てきて、この人は残るか、あるいは遠からず消えていくかというのは、その人の書く文章にリズム感があるかどうかで、だいたい見分けられます。でも多くの文芸批評家は、僕の見るところ、そういう部分にあまり目をやりません。文章の精緻さとか、物語の方向とか、テーマの質とか、手法の面白さなんかを主に取り上げます。でもリズムのない文章を書く人には、文章家としての資質はあまりないと思う。もちろん、僕はそう思う、ということですが。

最近、「音楽小説」が流行りなのですが、内容よりも、文章そのものの「リズム感」が大切なのだ、と村上さんは考えておられるようです。
「リズムのない文章を書く人には、文章家としての資質はあまりないと思う」
もちろん、村上さんだけが正解を知っているわけではなのでしょうけど、いろんなことを書こうとしすぎて、「読みにくい文章」になりがちな僕にとっては、とても耳に痛い言葉でした。


たぶん、この本に書いてあることが、「8割わかる」人は、小澤征爾さん、村上春樹さんの大ファンで、かつ、クラシック音楽にもかなり詳しい人くらいでしょう。
でもね、「すごい人たちが、周りに気を遣わないで、自分の言葉でしゃべっている話」って、わからなくても、なんだかけっこう聴いていて楽しくなってくるものみたいです。
「わからないからこそ、面白い」


僕は、この本を読んでみて良かったです。
この二人が、こんなに楽しそうに話している「音楽」を、自分も聴いてみたくなりました。

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