琥珀色の戯言

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【読書感想】棒を振る人生 ☆☆☆☆


棒を振る人生 (PHP新書)

棒を振る人生 (PHP新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
一万人の第九」や音楽番組「題名のない音楽会」などで知られ、日欧で活躍する著者。現在の「指揮者・佐渡裕」を育んだ数々の知られざるエピソードとともに音楽観、人生観を綴る。2015年9月より音楽監督に就任する、オーストリアで100年以上の伝統を持つトーンキュンストラー管弦楽団についても、オファーを受けてからの葛藤や「新しい挑戦」について告白する。名指揮者たちとのエピソードや名曲についての解説は、「思わずオーケストラを聴きたくなる!コンサートホールに足を運びたくなる!」そんな音楽の魅力に溢れた一冊。

題名のない音楽会』の司会者としても知られる、指揮者・佐渡裕さんの著書。
 僕は以前、佐渡裕さんが「音楽エリート」とは程遠い場所から、自分自身のバイタリティで道を切り開き、バーンスタインに見いだされて世界的な指揮者になっていくまでの自叙伝『僕はいかにして指揮者になったのか』を読みました。
 音楽の世界、指揮者の世界の面白さ、人の縁の不思議さが凝縮されたような本で、それ以来、僕は佐渡裕という指揮者を応援しているのです。
 

 指揮者とは何のためにいるのだろう。
 指揮台の上で何をやっているのか。
 これはもしかしたら、自分に対して一生投げかけていく問いなのかもしれない。
 この本では、僕がこれまで体験したエピソードとともに、苦しんだり感激したりしている指揮者の生の姿を伝え、指揮者とは何か、音楽とは何かを読者のみなさんと一緒に考えていきたいと思う。


 この新書では、2015年からは、オーストラリア・ウィーンのトーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督に就任するという佐渡さんが、いまの時点での「指揮者」あるいは「音楽の魅力」についての考えを語っておられます。


 佐渡さんは、子ども時代を振り返って、こんなエピソードを紹介されています。

 実はこうした楽譜の読み解きと、僕は小学校の高学年のころからやっていた。その経験が今、指揮者になって、ずいぶん役に立っている。
 子どものころからピアノを習い、オーケストラや指揮者に興味を持っていた僕が、最初にオーケストラ譜と出会ったのは、イ・ムジチ合奏団のLPレコードの付録に入っていたヴィヴァルディの「四季」だった。ヴァイオリン、ヴィオラ通奏低音からなる五段の譜面。
 それから、小遣いをもらうたびに、たとえばベートーヴェンの「運命」のポケットスコアを買っては飽きずに眺めていた。ピアノ向けの二段の譜面とは違って、指揮者向けのスコアだから何十段もある。「指揮者とオーケストラは、こんなすごいことをやっているんだ」と見入っていた。
 譜面の読み方は誰に教わるわけでもなく、自分勝手にやっていた。
 まず、フルートの一番の旋律を追いかける。次はフルートの二番を追いかける。もう少し高度になってくると、ホルンを入れて、まとめて見る。メロディーを奏でるヴァイオリンだけを追うのではなく、ヴァイオリンを聴きながら、そこにヴィオラがどういう比率で交じっているか、コントラバスがどんなベースラインを口ずさんでいるかに目を凝らした。
 お気に入りのオーケストラのメンバーの名前まで覚えるくらいのめりこむと、譜面を読むのがやたらに面白くなっていった。今と違って時間はあり余るほどある。毎日、譜面を見てはレコードを聴いたりピアノを叩いたりした。

 お小遣いで譜面を買って、それをずっと眺めている、そんな子ども時代だったんですね。
 それを、誰から強制されたわけでもなく、自発的にやっていた。
 そのくらいじゃないと、音楽で食べていけるようにはならないのか、と圧倒されてしまいました。


 佐渡さんは、師匠であるバーンスタイン小澤征爾、そして、カラヤンなど、さまざまな指揮者を間近にみてきているのですが、指揮のやりかたは人それぞれのようです。
 バーンスタインがある企画で、途中でわざと指揮棒を振るのをやめても、オーケストラは淀みなく演奏を続けていたそうですし、外からみると、指揮者というのは「舞台上で、唯一、音を出していない存在」なのです。
 僕が学生時代に消極的に参加していた学校行事での合唱コンクールでも、指揮者をまともに見ながら歌った記憶はないんですよね。
 いや、すました顔で「指揮者のまねごと」をしている同級生をみて、ニヤニヤしていたかもしれません。

 
 佐渡さんは、指揮者の仕事として、演奏する曲の方向性を定め、事前の練習を采配する、という「コンサートでタクトを振る以外の仕事」の重要性についても語っています。
 そのやりかたも十人十色で、オーケストラに厳格に接する指揮者もいれば、冗談をまじえたり、メンバーに親しげに話しかけたりしながらやる人もいる。

 以前、大阪フィルハーモニー交響楽団朝比奈隆先生(1908〜2001年)と対談させていただいたとき、先生がおっしゃっていた。
 初めてのオーケストラに行ったときは、その楽団の主のような奏者が必ず三、四人いる。そういう奏者を早く見つけ出すことが、上手に練習を進める秘訣だ、と。主を敵に回すか味方に付けるかで大違いだというわけだ。
 思い当たる節はいくつもある。

 どんなにすぐれた音楽も、演奏するのは人間なんですよね。
 指揮者には「人間関係のコントロール」も求められるのです。

 
 そして、なんのかんの言っても、指揮者によって、オーケストラの演奏というのは、「違う」ようなのです。
 佐渡さんは、言葉にするのは難しい、あえていえば、「気の塊」を動かすようなものかもしれない、と仰っています。

 指揮者というのは、ある意味神秘的な仕事で、自ら音は出さなくても、言葉では説明できない象徴的な存在であることを求められる。
 たとえば、往年の名指揮者カール・ベームやセルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996年)は、技術的に突出して優れているわけではなかったが、彼らが指揮台に立つだけで鳴る音が確かに存在した。
 朝比奈隆先生の生涯最後となった演奏会は、2001年10月に名古屋で上演したチャイコフスキーの「交響曲第五番」だった。オーケストラは半世紀以上、ともに歩んできた大阪フィルハーモニー交響楽団。先生は93歳で、そのおよそ二ヵ月後の12月29日に亡くなった。 
 重い足どりでステージに現れた先生は明らかに体調が悪く、楽団員二人の助けを借りて指揮台に上がった。そして、最初の一振りでオーケストラが鳴り出すと、譜面台に手をついたまま動けなくなってしまった。
 しかし、アンサンブルは少しも乱れることはなかった。演奏前に「これが最後の演奏となるかもしれない」と伝えられていた大フィルの楽団員たちは、涙をぬぐいながら、一人ひとり全身全霊を捧げて音を鳴らしていた。重いテンポながら強弱やリズム、フレーズの変化をつけて演奏は最後まで整然と続いた。
 そのときの朝比奈先生は、音のシンボルとして圧倒的な存在感でオーケストラの前に立っていた。それは指揮者の究極の姿だった。

 こんなことが、毎回できるはずもないし、聴くほうとしても、気が気じゃないかもしれませんが、たしかにこれは「究極の姿」だったのだろうなあ、と。


 音楽家たちにとって、「音楽」とはどういう存在なのか?
 ヨーロッパの「クラシック音楽の伝統」とは?
 佐渡さんが師匠とのこんな思い出を語っています。

 まだウィーンに暮らし始めたばかりのころ、ツアーで来ていたバーンスタインと楽屋で話していると、
「ユタカ、ウィーンで友だちはいるのか。いないのなら、私のウィーンの大親友を紹介しるよ」
 と言ってくれた。そうして連れて行ってくれたのは、ベートーヴェンの像の前だった。
「彼が昔からの大親友、ルートヴィヒだ。おまえも今日からルートヴィヒと呼べばいい」
 そんなふうに、音楽の聖地で歴史を刻んできた作曲家たちをごく身近に感じるほど音楽を普通に呼吸すること。それが、バーンスタインが僕に伝えたいことだったのだと思う。
 今にして思えば、それはとてつもなく大きなアドバイスだった。


 これを読んでいて思ったのは、バーンスタインさん、小澤征爾さん、そして佐渡さんも「人を育てること」「多くの人に、音楽に興味を持ってもらうこと」をすごく大事にしているのです。
 超一流の指揮者というのは、自分の技術を誇るだけじゃなくて、そういう「使命感」を持っている人なんだと思います。
 僕も、息子をそろそろコンサート(の聴衆)デビューさせようかな……
 

 

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