Kindle版もあります。
6年ぶりに放たれる、8作からなる短篇小説集
「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 「一人称単数」の世界にようこそ。
収録作
「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「『ヤクルト・スワローズ詩集』」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」(以上、「文學界」に随時発表)「一人称単数」(書き下ろし)
村上春樹さんの6年ぶりの新作短編集。
収録されている最初の作品『石のまくらに』の書き出しは、こんな感じです。
ここで語ろうとしているのは、一人の女性のことだ。とはいえ、彼女についての知識を、僕はまったくと言っていいくらい持ち合わせていない。名前だって顔だって思い出せない。また向こうだっておそらく、僕の名前も顔も覚えてはいないはずだ。
彼女と出会ったとき、僕は大学の二年生で、まだ二十歳にもなっておらず、彼女はたぶん二十代の半ばくらいだったと思う。僕らは同じ職場で、同じ時期にアルバイトをしていた。そしてふとした成り行きで一夜を共にすることになった。そのあと一度も顔を合わせていない。
これを読んで、僕は高校時代に村上さんの『ノルウェイの森』の前半部での主人公・ワタナベの「ガールハント武勇伝」を読んで、「大学生って、こんなに簡単にいろんな女の子と『できる』のか……」と驚いたことを思いだしました。
あれから30年……
あの……村上さん……これまでの僕の人生には「成り行きで一夜を共にする」なんてことは、一度も無かったんですけど……
大学時代の先輩によると、夜、ひとりで飲みに行っていると、たまにそういうこともある、とのことなのですが。
そもそも、夜は家でゲームかネットか本という生活だと、「そういうこと」も起こりようがない、ということなのでしょうね。
それにしても、あの高校時代から、思えば遠くへ来たものではあります。
この8つの短編小説の主人公は、いずれも村上さん自身のようであり、いわゆる「私小説」に属するもののように思われます。
これまでの村上さんの作品は、エッセイやノンフィクションは除き、主人公には、村上さんの経験や思想が反映されているけれど、それはあくまでも「創作された人物」だったのです。
ところが、この『一人称単数』では、そういう「形式」とか「建前」みたいなものを全部取っ払っていて、こちらとしても、「これ、村上さんの私小説」っていうことで良いんですよね?と尋ねたくなります。
いやまあ、そう思いつつ、「人生には、ときどき、言葉や理屈ではうまく説明できないような『出会い』みたいなものがあるんだよなあ……」と読んでいると、「言葉をしゃべる猿」が出てきて、いやさすがにこれはフィクション、だよなあ……とクスリと笑ってしまう。
これまでの村上さんの小説に比べると、主人公=村上春樹、という感じが強いですし、出来事も、以前の短編に比べたら、ずっと「実際に起こっていてもおかしくない」ような気がします。
村上さんは、こういう「ちょっとした事件(あるいは、誰かと後腐れなく寝たい女の子)」を引き寄せる体質なのか、誰に周囲にでもこのくらいの事件は起きているのだけれど、それを「小説」にできるのは、ごく一握りの人間だけなのか?
僕はけっこう長い間、ネットで文章を書き続けてきました。
ネットで書いていると「そんなのお前の主観」「お前の(紙の)日記帳に書け」「ネットは公共の場所なんだから、お前ひとりの経験談なんか役に立たない」なんて声をさんざん浴びるのです。
僕も「ネットに書くのであれば、『客観的な視点』とか、『資料性』みたいなものが大事ではないか」と思ってきました。
しかしながら、最近は、「これだけネットでいろんな情報や知識が共有化された時代では、『個人的な体験と思考』というのが、唯一、人が生きた証として残せる、オリジナルコンテンツではないか、と考えるようになってきたのです。
村上春樹さんも、同じような考えのもとに、この短編集を書いていたのではないか、と僕は勝手に思い込んでいます。
「ヤクルト・スワローズ詩集」より。
なにはともあれ、世界中のすべての野球場の中で、僕は神宮球場にいるのがいちばん好きだ。一塁側内野席か、あるいは右翼外野席。そこでいろんな音を聞き、いろんな匂いを嗅ぎ、空を見上げるのが好きだ。吹く風を肌に感じ、冷えたビールを飲み、まわりの人々を眺めるのが好きだ。チームが勝っていても、負けていても、僕はそこで過ごす時間をこよなく愛する。
もちろん負けるよりは勝っていた方がずっといい。当たり前の話だ。でも試合の勝ち負けによって、時間の価値や重みが違ってくるわけではない。時間はあくまで同じ時間だ。一分は一分である、一時間は一時間だ。僕らはなんといっても、それを大事に扱わなくてはならない。時間とうまく折り合いをつけ、できるだけ素敵な記憶をあとに残すこと──それが何よりも重要になる。
収録されている作品(とくに、村上さんが若い頃の話)の登場人物は、もうみんなそれなりの年齢になっている(あるいは、鬼籍に入っている)し、1949年生まれの村上さん自身も、自分に残された時間みたいなものを、意識はしているはずです。
だから、自分がこの世界からいなくなったら、失われてしまうであろう、「自分の大切な記憶」を、こうして短編にしたのではなかろうか。
……そう思いつつも、逆に、ここまで「主人公=村上春樹」というわかりやすい状況設定がなされていることそのものがフェイクで、書かれている内容は完璧なフィクションではないか、という疑念もあるんですよね。