- 作者: 山藤章二
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2013/02/21
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
「近頃、日本人がヘタになっている!」と嘆く著者。ところが、遡れば江戸庶民文化から、ピカソ、岡本太郎、東海林さだお、立川談志まで、そこには脈々とヘタウマが息づいていたのだった。いまや芸術・芸能・サブカルチュア全般を席巻するヘタウマ文化。著者ならではの愉快痛快な筆が、日本文化を鮮やかに読み解く。
あの山藤章二さんの「ヘタウマ」を題材にした文化論か!と、期待しながら読みました。
ただ、内容的には、「文化論」というよりは、「ヘタウマ」というのをひとつの題材として、山藤さんが実際に付き合ってきた、さまざまな名人・達人などのエピソードをまとめたエッセイ集だったんですよね。
「岡本太郎さんが、珍しくゴルフコンペに出てきたとき、みんなの前で行った挨拶」なんて、なかなか読めるものじゃないですし。
これを読むと、「前衛的っぽい作品をつくって見せているけれど、普段は常識的なふるまいをする人」は、「人生そのものがパフォーマンスだった岡本太郎」には敵わないよなあ、なんて考えてしまいます。
数々の面白い話が紹介されていて、読み物をしては貴重だし、クオリティが高いと思うのですが、「じゃあ、日本の『ヘタウマ文化』について、何が書いてあるのか?」と問われると、なんだかあんまりはっきりしない。
もっとも、そういう「なんだかはっきりしないもの」こそが、「ヘタウマ文化」なのだと言うことも可能なのかもしれません。
山藤さんは、日本における「ヘタウマ文化の思想的バックボーンとなった人物」として、糸井重里さんの名前をあげておられます。
糸井とはじめて会ったのは、SEIBU百貨店での私の展覧会のパーティーの会場でした。一枚のパネルをもっていました。
「これ、出来上がったばかりの、来年のSEIBUのポスター。新聞広告や車内吊りにも展開するんだけど、ちょっと面白いですよ……」
一枚の写真でした。和服を着て、床の間に正座した俳優のウディ・アレンが書き初めをしているのです。その書は「おいしい生活」――
見るからにヘタクソな字です。外国人だからやむを得ない、とは思いつつ、一年間のSEIBUの記号的作品だからもう少しマシな方がいいのに。
「ヘタだね」と正直に感想を言いました。すると糸井は、「でしょ。でもこれがウマかったら面白くもなんともない、普通の広告写真になっちゃうんですよ。これがヘタだから大衆の心にひっかかる」と自信に満ちた返事を返してきた。
僕はこの写真とコピー、記憶にあるんですよね。
リアルタイムで見ただけでは、なかったかもしれないけれど。
山藤さんは、このコピーがSEIBUという大企業に採用されたあたりからが「ヘタウマの時代」だと考えておられるようです。
そうなると、いま40代前半の僕などは、人生のほとんどを「ヘタウマ」とともに生きてきたことになります。
たしかに「ただ上手いだけ」では、心が動かない、ような気がする。
「そっくり芸」専門の物真似芸人は、演れば演るほどウマくなる。究極、モデルと同化するのが理想郷である。
「で、それがどうしたの?」と冷めた声で尋ねたら、彼らは返答に窮するだろう。その先のことなんか夢想だにしていなかったろうから。
この冷めた質問は、現代人の質問である。
それも、いわば知性派人間の質問である。「である」は、「であった」と言うべきかも知れない。いまや一流の知性派芸人ではなく、国民総じての感覚になりつつある。そこが怖い。
芸能に限ったことではなく、表現にたずさわって、日夜「ウマく」なることに研鑽努力している人間にとって、「ウマくなって、それがどうしたの?」と訊かれたら、一瞬、返事に窮するだろう。
「ウマくなって、孤立するより、ヘタな方が、面白くて、多くの人に伝わるものがあるから、その方がラクでいいじゃん?!」
いま、この国の文化は、こういう気配に包まれているように思えてならない。
僕は、「ウマいだけじゃダメ」だとは思うけれども、その一方で「やっぱりヘタじゃ伝わらない」し、「単なるウマいを通り過ぎて、ヘタに見せなくてはならなくなっている」ような気がするんですよね。
(山藤さんも、この本の他の場所では、そんなふうに仰ってもいます)
いずれにしても、いまの時代は「ウマいものを、ウマく見せる」だけでは、みんな「ああ、ウマいね」と一瞬だけ目を向けて、あとはめんどくさそうに去っていくのです。
ちなみに、この本のなかで、山藤さんは「タモリが起こした革命」について言及されています。
タモリは、虎造も文楽も演らない。好んで演るのは、寺山修司であり、竹村健一であり、野坂昭如である。つまり文化人、それも思想的に”文体”を持った人たちである。話芸の専門家ではない。ふだんは小説を、評論を、書いたり、たまにテレビに出ては議論をするのが生業だ。そういう人たちの思考回路、美意識、道徳観といったものを彼はよく研究し、特徴を盗み、ふだんはまるで関係ないテーマやモノについて語らせたのだ。
「その人が扱いそうもないものを、その人の思考で語らせる」――
これは革命であった。
先日、『帰れま10』の「カラオケで高得点を出し、ベスト10を埋めないと終われない」という企画に、コロッケさんが出演していたのです。コロッケさんは物真似をしながら歌っていたのですが、途中でやりにくそうに「うーん、ぼくは普通に歌うことって全然ないから、難しいなあ……」と、呟いていました。
「本人と同じように、ウマく歌う」ことだって、コロッケさんの技術があれば本来可能なはずです。
でも、それじゃあ、お客さんに喜んでもらえる「芸」にはならない。
それが、いまの時代の「モノマネ」なんですよね。
キンタロー。さんのAKB48だって、あんな激しい動きを本人たちがしているわけがないのに、あのくらいやらないと、単に似ているだけでは、「刺さらない」。
単なる「技術」だけではなくて、「ウマさ」と「ヘタさ」そして「どうオリジナリティを出すか?」という「バランス感覚」みたいなものがないと、やっていけないのですから、いまの芸人さんたちは大変なのでしょう。
正直、「ウマい人が、ヘタに見せている」ものと「ヘタな人が、そのままやっている」ものの区別って、その芸に通じていなければ、なかなかわかるものじゃありませんしね……実際、僕もよくわかりません。
それが「誰にでもわかる」ようなら、ウケないだろうし。
山藤さんは、この本のなかで、いまの人にも伝わる(であろう)「ヘタウマ」の代表選手として、この人の名前を挙げています。
ズバリ申しあげよう。
私のイメージしている「ミスターヘタウマ」は漫画家の東海林さだおである。
前の章で、世はコミックの時代だから、街ゆくひとに大人の漫画家の名前を挙げてくださいと尋ねてもほとんどのひとは名を挙げられないだろうと書いた。
が、何人かにひとりくらいは、よく考えたすえ、ひとりの名を挙げるだろう。その確率がいちばん高いのは「東海林さだお」だろう。
これはもう、納得するしかない、という感じです。
山藤さんと「文春漫画賞」の選考委員を一緒にやっていた東海林さだおさんが、受賞者が決まったあとの雑談の席で、こんなことを仰っていたそうです。
「みんな、絵が上手になっているね。それにつれてツマらなくなっているように思う。僕の好みで言うと、”マンガマンガしている絵”っていうのが好きなんだ。そういうのがだんだん減ってきたね」
ああ、確かに「徹底的にデフォルメされた絵で描かれたマンガ」って、少なくなってきているよなあ、とあらためて考えさせられました。
あれはあれで凄い技術のはずなのに、「中途半端なリアルさでも、描き込まれた絵」のほうが、「ウマい」ように感じてしまいがちですし。
僕は「ヘタウマの時代」も、そろそろ終わりつつあって、「超絶的にウマいか、インパクトがあるものだけが生き残る時代」になってきているのではないか、とも思っています。
それが正しいかどうかはさておき、「ヘタウマの時代」を駆け抜けてきた巨匠の言葉には、やはり重みがあるなあ、と感心しながら読みました。