琥珀色の戯言

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【読書感想】消されゆくチベット ☆☆☆


消されゆくチベット (集英社新書)

消されゆくチベット (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
二〇〇八年の騒乱以降、チベットの文化や伝統を消し去ろうとする圧力はより一層強められている。宗教活動の制限、チベット語教育への介入、天然資源の無秩序な採掘、厳しい言論統制など、中国による政治的、文化的弾圧は年々深刻化している。だが、チベット問題は、今、世界を覆うグローバル経済の面からも見る必要がある。そして、伝統や文化の継承は風前の灯のように見えるが、厳しい状況下でも懸命に文化や伝統を守り抜こうとするチベット人たちが多く存在するのだ。長きにわたって現地を取材してきた著者が、独自のルートでチベットの現況を詳細にルポルタージュする。

 中学生のときに、チベットのことを知り、ずっと憧れていた著者の渡辺一枝さん。
(ちなみに渡辺さんは、作家・椎名誠さんの奥様です。椎名誠さんの著書のなかにも、ときどき「チベット好きの妻」として登場されています)
 著者が最初にチベットを訪れたのは、1987年、42歳のときのことだったそうです。
 ちょうどいまの僕と同じくらいの年齢で、これを知って、ちょっと驚き、また、勇気づけられました。
 僕は最近「自分の人生も、折り返し点を過ぎて、あとはもう終わり方を考えなくてはならないなあ」なんて思っていたけれど、まだまだ、何かを始めるのに、遅すぎる年齢ではないのかな、って。


 この本には、著者が実際に訪れ、接したチベットの人たち、そして、彼らの生活、ものの考え方が描かれています。

 ンガムリンでは、宿の近くの漢人の食堂で夕食を摂った。チベット人の子供が二人、覗いて見ていた。ツェリンは二人に、「飯は食べたか?」と聞いた。二人の答えを聞くとツェリンは、食堂の女に言って茶碗二つにご飯を盛らせ、その上に私たちのテーブルに残ったおかずをのせて、子供たちに食べさせた。親のない子たちではないし、物乞いの子供たちでもない。だが、この辺りは豊かではない地だ。ここまでの途中には、”貧村に政府が建てた住宅”という表示のある集落があった。定住化政策によって作られた、道路脇に並んだ家々だった。翌日は近くのゴンパ(僧院)を訪ね、ンガムリンでもう一泊した。

 けっして物質的に豊かな地域ではないのだけれど、共同体のなかでの思いやりは強く、心優しい人たちが住むチベット
 太平洋戦争後の混乱から、少し豊かになってきたくらいの時代の日本も、こんな感じだったのかなあ、と思いながら読みました。

 ニマに着いてすぐに加油站(ガソリンスタンド)を探した。遅くなると加油站が閉じてしまうからだ。ガソリンは積んできているが、この先で必要になるかもしれない。積んであるガソリンはその時のためにとっておくことにして、加油站があるところではそこでガソリンを入れていくのが賢明だ。この加油站での給油方法は、原始的といっていいものだった。まず、ガソリンを貯蔵しているドラム缶の口に棒を突っ込んでドラム缶内のガソリン量を見る。それからドラム缶の口にホースを入れ、ホースのもう一方の先から息を吸い、ガソリンが口元に来たら素早く車のタンクに先を突っ込むのだ。そうやってガソリンを入れ終えると、再びドラム缶の口から棒を入れ、棒に付いた二つの印から、減ったガソリン量を割り出すのだった。そんな方法でも、カルマの運転してきた車は120L、私たちが乗ってきた車は101Lなどと、1Lまで給油量が割り出される。

 こんな話を読むと、「それ、間違ってガソリン飲み込んだりしないんだろうか……」と、ちょっと心配になったりするんですけどね。日本からストーブに灯油を入れるときに使う、押すと灯油を吸い込めるビニールのチューブみたいなやつを持っていきたくなりました。

 その日初めて、魚を食べる習慣を持つ人たちがチベットにもいることを私は知った。
 チベットでは、一般的に魚を食べる習慣はない。また、肉も、ヤクや羊のように体が大きい動物の肉は食べるが、鶏肉は食べない。ヤクや羊は一頭からたくさんの肉が採れるので多くの人の飢えを満たすが、体の小さい鶏や魚はひとつの命でひとりのお腹しか満たせないと考えるからだ。私が知っているチベット人にも、鶏肉や魚を食べない人は多い。また、子供や貧しい人が亡くなると川で水葬にして流すことがあるので、それで魚を食べるのを忌むともいわれる。ただし、聖湖に波で打ち上げられた魚は、干して薬として削って飲むこともある。

 こういう「命に対する考え方の違い」なども、興味深いですよね。
 アメリカを中心とする「先進国」でも「命は尊い」という概念は共通したものです。
 とはいえ、犬とか鯨みたいに「賢い動物、より人間に近い(とされる)動物」を食べることへの後ろめたさ、みたいなものは存在しています。
 なかには「肉食そのものをやめてしまう人」もいますし。
 僕も含む、多くの日本人にとっては、「魚一匹と牛一頭が自分のために屠られるとしたら、どちらが罪の意識を感じるか?」と問われたら、「牛」だと思うんですよ。
 やっぱり、「より人間に近いような感じがする」から。
 まあ、ヘビみたいに「人間に近いとは思えないけれども、食物としても、あまりお近づきになりたくない」という生き物もいますけど……

 このチベットの人たちの考え方は、僕の感情的には理解困難ではあるのですが、ある意味、とても「合理的」であることも事実です。
 「命の価値が同じで、何かの命を食べなければならないのであれば、ひとつの命で、より多くの人のお腹が満たされるほうが、罪が少なくてすむ」
 チベットの人たちの考え方を知ると、自分のいままでの「常識」が、必ずしも「絶対的な正義」ではないことを意識せずにはいられません。


 しかし、中国による圧力で、チベットは急速に伝統的な文化を失いつつあるようです。

 特に、「西部大開発」が実施された2000年以降、環境や生活の変化は大きく、このままではチベットの文化は消されてしまうのではないかさえ怖れる。

 この新書では、「失われつつあるチベットの伝統文化」とともに、現在のチベットの状況のことも書かれています。
 ラサでの「受験戦争」の様子や、レストランや高級マンションの建設ラッシュ、あるいは中国主導による遊牧民の定住化プロジェクトなど、チベットは急速に「都市化」あるいは「中国化」してきているのです。
 高齢者たちが、「失われた文化」を嘆く一方で、若者たちは、「都会での生活」への憧れを抑えることができません。


 これを読みながら、僕はチベットが「中国化」されていくことに、憤りを感じずにはいられませんでした。
 ここは、チベットの人たちの国のはずなのに、と。
 しかしながら、そこで実際に生活している人たちからすると、「便利」になっていることは間違いないんですよね、やっぱり。
 それが、最初は「押しつけ」であったのだとしても、いま、こうして「都市的な生活」を知ってしまったチベットの人たちが、昔の生活に戻れるのだろうか? 仮にそれができたとしても、彼らはそれを選ぶだろうか?
 著者や僕のような外国人が、ときどき訪れて懐かしむ「チベット」は、現地の人たちにとっての『三丁目の夕日』みたいなものではないのか?

 

 ドルジェの息子は三年前から両親と一緒にラサの”豪邸”に住んでいるが、彼は小学校を卒業した後、北京の中学、高校に通い、大学は重慶だった。夏冬の休みに帰省するといつも「ラサの水は美味しい! 空の匂いがするよ」と言って、本当に美味しそうに中庭の共同水道から汲んだ水を飲んだ。「水がまずくなったね。薬のような嫌な臭いがする。北京の水より、重慶の水より、ラサの水はまずくなった」と、いまは言う。

 美味しい水は、尊いものです。一度失ったら、もう戻ってこない、かけがえのないもの。
 だけど、美味しい水のために、iPhoneを捨てられるだろうか?
 

 著者の信念に感服する一方で、「伝統を維持することの難しさ」みたいなことも、考えずにはいられない一冊でした。

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