琥珀色の戯言

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【読書感想】忘れられた巨人 ☆☆☆☆


忘れられた巨人

忘れられた巨人

内容紹介
『わたしを離さないで』から十年。待望の最新長篇!
アクセルとベアトリスの老夫婦は、遠い地で暮らす息子に会うため、長年暮らした村を後にする。若い戦士、鬼に襲われた少年、老騎士……さまざまな人々に出会いながら、雨が降る荒れ野を渡り、森を抜け、謎の霧に満ちた大地を旅するふたりを待つものとは――。
失われた記憶や愛、戦いと復讐のこだまを静謐に描く、ブッカー賞作家の傑作長篇。


 そうか、カズオ・イシグロさんの長篇って、『わたしを離さないで』以来なんですね……
 あれからもう10年も経つのか。
 『日の名残り』『わたしを離さないで』は映画も印象的だったのですが、満を持して、というか「さすがに10年は長過ぎるよなあ……」と思いつつ読み始めた待望の新作。
 

 アーサー王ブリトン人とサクソン人?
 これ、ファンタジー小説、なのか?
 僕はファンタジー小説も大好物ではありますが、カズオ・イシグロの新作を読み始めて、「冴えない老夫婦がベタベタしまくっているファンタジー」だと知ると、「何これ?」と思ったんですよね、正直言って。
 映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・Q』の冒頭を観たときのような「何これ?」感。

 
 そもそも、アーサー王伝説に詳しくない僕などは、この本の背景を十全には理解できないだろうし……と言いつつ、結局、最後まで一気読みしてしまったんですけどね。
 「高齢化ロード・オブ・ザ・リング(ス)』のような話かと思いきや、物語は、途中から、混沌としてくるのです。
 何が正しくて、何が間違っているのか?
 夫婦にとっての「真実の愛」とは何か?
 民族間の争いによってもたらされた災厄や悲しい記憶は、本当に消し去ることができるのか?そうすることが「妥当」なのか?


 カズオ・イシグロの作品を読んでいて、いつも考えさせられるのは「人間は、自分の人生を本当に『自分で選択できる』のだろうか」ということなんですよ。
 選択できると思って、自分を安心させようとするけれど、実際は、ごく一部の英雄的な人間以外は「大きな力」みたいなものに流されて生きて、それを「自分では何もできなかった」と後悔するだけなのではないか。
 でも、それが不幸である、とも言いがたい。
 本人はそれなりに満足しながらも、「本当はこういうふうにできたかも」と「こうあったはずの自分の記憶」みたいなものをつくりだして、甘美な痛みに浸ることができる。
 

 この小説の冒頭のほうを読みながら、村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』と『海辺のカフカ』を僕は思い出していました。
 小説家というのは、功成り名を遂げると「神話」みたいなものを書きたくなるのだろうか?などと考えながら。

「いえいえ、アクセル殿。わたしが話しているのは、残虐に彩られた道の終点にたどり着いた人々です。子どもや親族を切り刻まれ、犯された人々です。苦難の長い道を歩み、死に追いかけられながら、ようやく最後の砦であるここにたどり着きました。そこへまた敵が攻めてきます。勢力は圧倒的です。この砦は何日もつでしょうか。数日? もしかしたら、一、二週間くらい? ですが、最後には全員虐殺されることがわかっています。いまこの腕に抱いている赤ん坊も、やがて血まみれのおもちゃになって、玉石の上を蹴られ、転がされるでしょう。もうわかっています。そういう光景から逃げてきた人々ですから。家を焼き、人を斬り殺す敵。息も絶え絶えで横たわる娘を順番で犯していく敵。そういう敵を見てきました。そういう結末が来ることを知っています。だからこそ、包囲されて過ごす最後の数日くらいは――のちの虐殺行為の代償を先払いさせうる最初の何日かくらいは――十分に生きなければなりません。要するに、アクセル殿、これは事前の復讐です。正しい順序では行えない人々による復讐の喜びの先取りです。だからこそ、わがサクソンの同胞はここに立ち、歓声をあげ、拍手をしたはずなのです。死に方が残酷であればあるほど、その人々は陽気に楽しんだことでしょう」
「わたしには信じられない。まだなされていない行為をそれほど激しく憎むことなどできるものでしょうか。ここに逃げ込んだ善良な人々は、最後まで希望を持ちつづけたのではないですか。友であれ敵であれ、すべての苦しむ人々を恐怖と哀れみの目で見ていたのでは……?」


 率直に言うと「読み終えても、煙に巻かれたままのような気分になる小説」なんですよ。
 それこそ、作品世界の「霧」に包まれたままのような。
 というか、この「霧」が、晴れることはあるのだろうか?
「綺麗事」が言えるのは、善良だからではなく、そんなものが何の救いにもならないような絶望的な状況に陥ったことがないだけなのでは……


 読み始めたときの「何これ?」感は、読み進めていくうちに無くなってきました。
 この内容を「歴史上の事実に沿って、生々しく書く」ことだってできたはずだけれど、カズオ・イシグロは、「特定の勢力のプロパガンダ」として読まれることを嫌ったのかもしれません。
 まあでも、こういうのって、「抽象化・一般化している」ととるか、「韜晦」なのか、なんともいえないところはありますよね。


 個人的には、「憎しみの連鎖のやるせなさ」をこんなふうに「物語」にできるカズオ・イシグロすごい!と思ったのです。
 でも、ファンタジー好きの人から、「ファンタジーを隠れ蓑に使うんじゃねえ!」という批判が出ているというのも頷けます。
 


海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

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海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

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