- 作者: 川村湊
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2016/09/15
- メディア: 新書
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内容紹介
ここ数年ノーベル文学賞の受賞を噂され続けている村上春樹。その根拠はいったいどこにあるのか? そもそも、村上文学は世界文学たり得るのか? 村上春樹でなかったとしたら、一体誰が受賞するのか? 文学賞、とりわけノーベル文学賞は日本の文学の世界にどういった影響を与えてきたのか? 村上春樹と同世代の著者が、ノーベル文学賞の歴史をひも解きながら読み解く、世界文学の見果てぬ夢。
この新書、『村上春樹はノーベル賞をとれるのか?』というタイトルなのですが、実際に村上春樹さんの話が中心になっているのは、最後の40ページくらいです。
ある意味「釣りタイトル」ですので、「村上春樹さんの話をたくさん読みたい」という人は御注意ください。
主な内容は「ノーベル文学賞の歴史、そして傾向と対策」なのですけど、これまでの「ノーベル文学賞についての本」と比較すると、「作家や作品の紹介」というより、「ノーベル文学賞を選んできた側の事情」みたいなものが、かなり詳しく書かれています。
そして、これを読むと、「村上春樹さんがノーベル文学賞をここ数年のうちに取るのは、かなり難しいのではないか?」ということもわかるんですよね。
ノーベル文学賞というのは、オリンピックの開催地のように「各国(あるいは、各言語圏)持ち回り」になっているようなのです。
もともと「その年のいちばん優れた作品、あるいはいちばん活躍した作家」に与えられる賞ではないため、そういう配慮がされているのですね。
では、今(2016年)は、村上春樹さんにとって、タイミングはどうなのか?
こうした言語による“持ち廻り制”を考えてゆくと、日本語は、1968年の川端受賞から1994年の大江受賞までを単純計算すると26年の間隔だから、次の日本語文学者の受賞は、2020年ということになる。ヨーロッパ文学の一角にあるイタリア文学のローテーションが約20年の間隔だとすると、日本文学の約25年、約四半世紀に1回という期間は妥当なところだろう。とすると、村上春樹であれ誰であれ、三人目の受賞者は2020年(頃)に出るということになる。
ちょうど「そろそろ」なんじゃない?
ところが、これが「日本人枠(あるいは日本語を母語とする作家枠)」とは限らないのではないか、と著者は考えているようです。
ノーベル賞委員会としても、日本語にだけ“持ち廻り制”を適用するのではなく、中国・韓国、いずれは東南アジア、中央アジア、西北アジア、そしてインド・パキスタン、イラン、中近東の言語、文学に“持ち廻り”と配当しなければならなくなることは必定だろう。だとすると、2012年の莫言の受賞は、これまでの日本語枠、新しくは東アジア言語圏の枠での受賞と考えることができ、これは大江健三郎受賞の1994年から18年後の受賞ということになる。そして、次の18〜20年後の「東アジア言語圏」の“持ち廻り”の順番が来た時は、ほぼ確実に韓国語(朝鮮語)、中国語(台湾、香港、在米・在欧華僑、華人の文学)に絞られるだろうということだ。つまり、日本語文学の“第三の受賞者”はよほどのことがない限り、当分、現れることはないのである。
南アフリカのJ・M・クッツェー(1940〜)、トルコのオルハン・パムク、カナダのアリス・マンロー、中国の莫言、ベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948〜)。ごく最近の受賞者を見れば、これまでに受賞したこなかった国、地域、言語・文学にノーベル賞が与えられているという傾向がはっきりしている。アジアにおいても、いつまでも韓国語、インドネシア語、ベトナム語、タイ語、フィリピン語の受賞者がゼロであってよいはずがない。そう考えると、2020年の期待も、萎まざるをえなくなる。2012年に、村上春樹か、莫言かという論議があったが、案外、あれは東アジアにおけるノーベル文学賞の分岐点であったと語られる時代が来るかもしれないのである。
作品や作家への評価だけではなく、「ノーベル文学賞」を決める人たちの「傾向」が、かなり細かく分析されているんですよね、この新書では。
「持ち回り」であることや、対象となる国、言語が多様化していることを考えると、村上春樹さんの「順番」は、しばらく回ってきそうにない、というのも頷けます。
さらに、著者は、村上春樹さんのライバルとなりうる作家として、カズオ・イシグロさんを挙げているのです。
イシグロさんは日系のイギリス人なのですが、ノーベル文学賞を選考する人たちは、彼を「日本文学の影響を受けている作家」とみなし、もし村上春樹さんより先に受賞することがあれば、さらに村上春樹さんの優先順位は下がるのではないか、と。
2012年の莫言さんが「アジア枠」だったとしたら、次の「アジア枠」は、その10年後くらいでも、おかしくなさそうです。
しかも、その場合は、これまで受賞者を出していない国、言語が優先される可能性もあります。
ただ、巷間伝えられているブックメーカーのオッズでは、村上春樹さんは毎年人気になっているわけで、彼らも、こういう事情を知らずにオッズをつけているわけじゃないとは思うのですけどね。
それもまた、ブックメーカーの作戦で、来そうもない候補者に人気を集めて、ひと稼ぎしようとしているのだろうか……
この新書を読んでいて興味深かったのは、「ノーベル賞を授賞されなかった作家たち」について、かなり詳しく紹介されていることでした。
けっこう「誰、この人?」と言いたくなるような作家もいるノーベル文学賞なのですが、元々エンターテインメント系やファンタジー、SF、児童文学などには冷淡です。
原則的に「1年にひとり、生きている作家のみ」なので、「えっ、この人がもらってないの?」という事例が少なからず出ています。
長生きするのもまた、ノーベル文学賞をもらうための条件、と言えるのかもしれません。
著者は、谷崎潤一郎や安部公房は「残念ながら、間に合わなかった(授賞される前に寿命が尽きてしまった)のではないか」と述べています。
ノーベル文学賞の選考委員のなかで、日本文学に詳しい人はほとんどおらず、これまでの日本人の候補者に対しては、委員会から日本の文学者などへのヒアリングが行なわれていたことも紹介されています。
これだけさまざま国、言語、そして作品があるのですから、「世界のなかで一人の作家を選ぶ」というのは、かなり無謀な行為でもあるのです。
選考委員も、世界中の作家に精通しているわけではありません。
そういう意味では、「ムラカミ・ハルキ」は「世界中で知られている作家」ですから、有力な候補であることは間違いないでしょう。
また、必ずしも世界的な“大文豪”といわれる人が受賞しているわけではない。たとえば、20世紀で一番偉大な作家として影響力を持ち、文学者として突出した地位にいる作家、『城』(原田義人訳、角川文庫)や『審判』(中野幸次訳、新潮文庫)や『変身』(高橋義孝訳、新潮文庫)のフランツ・カフカ(1883〜1924)、『ダブリン市民』(安藤一郎訳、新潮文庫)や『ユリシーズ』(柳瀬尚紀訳、河出書房新社)のジェイムズ・ジョイス(1882〜1941)、『失われた時を求めて』(高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫)のマルセル・プルースト(1871〜1922)の三人は、ノーベル賞どころか、さしたる文学賞を受けていないことで際立っている(プルーストは、ゴンクール賞を受けているが、これはフランス国内の賞)。
二十世紀の文学を語る(文学史を編む)時、この三人の名前を落としては成り立たないことは自明だろう。彼ら以後に、明らかに文学という概念、文学の世界そのものが変わったのである。
そうか、この「ビッグ3」も未受賞なのか……
(ただし、フランツ・カフカは生前はほとんど無名で、死後になって作品が評価されるようになったことについても、著者は言及しています)
その他にも、『ロリータ』のナボコフやアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘス、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のディヴィッド・サリンジャーなど、「受賞できなかった人」も多士済々なんですよね。
今も、「未受賞組」として、『存在の耐えられない軽さ』のミラン・クンデラやフィリップ・ロス、ポール・オースターなどの有名作家がいますし、前述のカズオ・イシグロさんもいます。
さらに、僕が名前を聞いてもピンとこないような、日本ではあまり紹介されていない、それぞれの国の有名作家もいるわけですから、村上春樹さんが受賞するためのハードルは、けっこう高そうではありますね。
村上さん本人としては、「競馬の予想みたいに、勝手にオッズとかつけられてあれこれ言われるのはたまらない」みたいですけど。
それにしても、なぜ、作家のなかには「文学賞」なんてものにこだわる人が少なからずいるのか?
僕はかねがね疑問だったんですよ。他人に決められることだし、売れていれば、それが最大の「評価」じゃないの?って。
しかしながら、著者が、交流のあった中上健次さんについて書いたこの文章を読んで、その「こだわる理由」の一端がわかったような気がしました。
“ものを書く”ということは、いつの時代、どこの世界でも孤独なものだ。編集者や家族がいても、彼らが代わりに書いてくれるわけではない。普段、大言壮語しているような文学者が、実は恐ろしく小心で、繊細であることを私は中上健次を見て実感した。
ある晩。新宿の酒場で、彼は私に言った。「いいか、カワムラ、俺たちの仕事は、原稿用紙の升目を一つ一つ埋めてゆくことだ。一つ一つだ。誰にも代わりにやってもらえない。一つ一つ字を埋めてゆくことしかできないんだ」と。大きな体を丸めるようにして机の前に向かい、ごつい手に華奢なペンを持って、升目に一字一字を埋めてゆく中上健次の執筆の姿が見えるように私は思った。
“ものを書く”ということは、作家にとって苦行以外の何ものでもない。書かれるべき白紙の原稿用紙は、空白のまま残されている。はたして今残されている文章は完結するだろうか。作品は本当にまとまったものとして完成するのだろうか。
そうした不安と懐疑をいやしてくれるのは、ただこれまでに自分が文章を完成させ、それを発表し、評価されたという“過去の記憶”だけだ。石川啄木(1886〜1912)は、こんな歌を作っている。「古新聞!/おやここにおれの歌を賞めて書いてあり、/二三行なれど。」と。“賞められる”ことが、どんなに物書きに大切なことかを啄木の歌は切々と訴えている。書くことの孤独さと不安や懐疑を振り捨てることができるのは、まさに子どもじみた振る舞いなのだが、誰かに賞められた時の記憶であり、思い出なのだ。
文学賞とは、物書きに書くための勇気と推進力を与えるためにある。しかし、もちろん本末転倒の出来事はどんな世界でも起こりうる。文学賞を目指して書く。文学賞のために書き続ける。それも一つの文学的動機ではありうる。それが書くことの虚無を埋める魂の糧でありうるうちは。
そうか、「書く」っていうのは、それだけ孤独で、満たされることが難しい作業なのだな……そんなことを考えずにはいられませんでした。
もちろん、文学賞だけが判断基準ではないのでしょうけど、作家にとっては、わかりやすくて目に見える「賞賛」なのですよね。
僕も毎年、村上春樹さんに受賞してほしいような、一度受賞してしまうと、もうこれが秋の風物詩にならなくなるのだな、と寂しいような、そんな気分になるのです。
長生きしていれば、いつかは受賞するはず、と思ってはいるのだけれども。