- 作者: 百田尚樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/08/12
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
思ったことや軽いジョークを口にしただけで、クレーム、バッシングの嵐。求められるのは人畜無害な意見ばかり。こんな息苦しい世に誰がした?数々の物議を醸してきた著者が、ズレた若者、偏向したマスコミ、平和ボケの政治家たちを縦横無尽にメッタ斬り。炎上発言の真意から、社会に対する素朴な疑問、大胆すぎる政策提言まで、思考停止の世間に一石を投じる書下ろし論考集。今こそ我らに“放言の自由”を!
百田尚樹さん、新書で吠える!
……と思いきや、内容的には「そこらへんのオッサンが、酒場で部下を相手にクダをまいているような内容」なんですよね。
「今の若者はなっとらん!」って。
「大炎上覚悟で、言いたいことを言う!」ような内容かと楽しみにしていたのですが、予定調和的というか、「ま、こういうこと言う人、周りにも大勢いるよな」と。
百田さんのサービス精神というのは、クローズな場では面白がられるようなものである一方で、「そういう人」だという予備知識がないところに拡散されると、「なんでこんな言い方をしたり、他人を貶めてウケを狙おうとするんだ」と反発されるのだろうな、と感じました。
「それはわかる」と感じるところもたくさんあるんですよ。
メディアからは発言のごく一部を抜粋されてバッシングされていて、相手が「炎上大王」だったら、何やってもいいっていうメディアも酷いな、と思う。
この新書の冒頭で、百田さんは、自分以外でも、そういう「メディアによってわざと面白おかしく編集されたり曲解された発言で、大バッシングを受けた人」の実例をたくさん紹介しています。
百田さんは「自分は一民間人なのだから、発言には自由があるはずだ」と仰っています。
ただ、この人の場合は、人気作家でもあるし、NHK経営委員としての立場もあるのだから、「公人」として見られても仕方がない。
そういう立場であることに基づいて、こうして本も出しているし、「発言力」もある。
「民間人だから、何を言ってもいいじゃないか」と言いながら、「公人」としてメディアを利用して意見を述べているのは、やっぱり矛盾じゃなかろうか。
近所の居酒屋での「暴言」なら、さすがに誰もバッシングしませんよ(たぶん……と付け加えてしまうところが、いまのネット社会の不気味さ、ではありますが)。
これを読んでいて痛感するのは、「百田さんというのは、矛盾の人だよなあ」ということです。
矛盾というか、人のことは見えているみたいなのに、自分のこととなると、ものすごく鈍感になってしまう。
「他人は自分を正しく見ていない」という認識こそ、人が犯す最も大きな過ちの一つである。実は、他人くらい自分を正しく見ている者はいない。
もちろん人間だから誤解や勘違い、好き嫌いによる思い込みというものはある。しかし仮に周囲の人間10人の意見を総合して、その大半の意見が一致すれば、その人物評価はまずその人の等身大をあらわしていると見て間違いない。
もしあなたがある未知の人物を知りたいと思ったら、その周囲の人たちにその人物評を聞いて回ればいい。出てきた感想を総合すれば、まずその人物像は狂いがないだろう。
10人中8人に「仕事ができない奴」と思われている人間はまず仕事ができないから、彼に重要な仕事は任せてはいけない。10人中8人に「口が軽いやつ」と思われている人間には、大事な秘密を漏らしてはいけないし、10人中8人に「女たらし」と思われている男は、恋人にしない方が身のためだ。
でも、百田さんは「自分自身のこと」となると、「他人は自分を正しく見ている」と理解していないように振る舞っているのです。
2014年5月に岐阜県の講演で問題となった「ナウル・バヌアツ揶揄」発言の「真相」について。
ちょっと待ってくれと言いたい。発言の一部だけを切り取れば、たしかに両国を揶揄したものと受け取られるかもしれない。しかし発言全体を通して聞けば、単なる揶揄でないことは誰にでもわかる。私が講演で語ったのは以下のようなことだ。
「安倍総理が自衛隊を国防軍にしようと言うと、一部の左翼から凄まじい批判の声が上がりましたが、国が軍隊を持つのは普通のことです。国を家に喩えれば、軍隊は鍵のようなものです。資源や金や技術がある国は、それを他国から守る必要があります。そのために世界約二百ヶ国のうちのほとんどの国が軍隊を保有しています。一方、軍隊を持たない国はわずかに二十七ヶ国。それらはどういう国か、皆さん、ご存知ですか?
ヨーロッパには五十の国がありますが、軍隊を持たない国はわずかに六ヶ国。バチカン、モナコ、サンマリノ、アンドラ、リヒテンシュタインの五ヶ国は全部足しても東京二十三区の面積とほぼ一緒。中には皇居よりも小さな国もあります。こんな国が軍隊を持っても大砲を打てば隣の国に当たってえらいことになります(笑い)。
もう一国、比較的大きいのはアイスランドですが、氷しか資源がないような国を誰も取ろうとは思いません(笑い)。
ヨーロッパ以外で軍隊のない国は、カリブ海や南太平洋にある島国です。ナウルとかバヌアツとかツバルとか。資源もなにもないこういう国は、家に喩えたらクソ貧乏長屋で泥棒も入らない。入った泥棒もあまりに気の毒なので、金でも置いていこうかというくらいです(笑い)」
たしかにあまり品のよくない喩えではあるが、喩え話はたいていデフォルメされるものであるし、講演となれば笑いも必要だ。私はもともとがテレビのお笑い放送作家なのである。というわけで「クソ貧乏長屋」と言った。
もちろん笑いのために差別や人権侵害の言葉を使うのは許されることではない。しかし「貧乏長屋」が差別や人権侵害にあたるだろうか。
私は典型的な貧乏長屋で育った。台所も便所も家の外にあり十坪もない家で親子五人が暮らしていた。家の中に金目のものはなく、昼間でも鍵をかけなかった。しかし貧しさを恥と思ったことはないし、貧乏と言われても怒りもしない。「貧乏長屋」という言葉が国際問題に発展すると考える人こそ、根底に差別意識があるのではないかと思う。
世の中には「自虐的に使うのであれば許されることでも、他人からは言われたくないこと」って、ありますよね。「親や身内の悪口」なんかが、その典型例。
講演のなかでは「笑い」が出ていて、これも、百田さんの「サービス」だと思われます。
少なくとも、本人はそのつもりなのだと思う。
ナウルやバヌアツに対して、そんなに「悪意」はなさそうでもある。
でも、明らかに「金持ち」で「恵まれている」日本人が、こういう「喩え」のために、わざわざ貧しい国を引き合いに出す必要があるのでしょうか?
百田さんは「クソ」を関西で物事をオーバーに言う場合や強調する場合によく使われる表現なのだ、と仰っていますが、そんな「約束事」を共有している人のほうが少数派でしょう。
こういうのって、「ごめん、調子に乗っていて、相手の国のことを考えずにバカにしてしまいました」と頭を下げれば、「しょうもないなあ」で、済むのかもしれません。
ナウルやバヌアツだって、ちょっとムカつきはしても、いちいち国際問題にはしないはず。
でも、ここで開き直ってしまうのが、百田さんなんですよね……
この本には、「24時間テレビの『内幕』」とか、けっこう面白いメディア業界の話とかも、書かれています。
「高所恐怖症」という言葉を禁止用語にした局もある。これは実際に「高所恐怖症」を患っている人から抗議がきたからだ。余談だが、本物の高所恐怖症は1メートルの脚立の上でも体がすくむという不安障碍である(正確には「高所不安癖」というらしい)。
某番組の目玉のひとつは、100キロマラソンである。24時間で100キロを完走できるかというハラハラドキドキの生中継で、最後は涙のゴールシーンで幕となる。
私は某テレビ関係者からこのランナーたちのギャラを聞いたことがある。ここでは言えないが、「そんなに貰えるんやったら、俺にも走らせてくれよ!」と言いたくなるほどの額だった。もっとも私が走ったところで、番組的にはまったく価値がない。
「大放言」なら、そのギャラの額こそ書いてくれればいいのに……
百田さんの「問題点」は、「暴言」の中身というより、その「暴言」が、「自分の思い込みで、根拠もなく、あまりにも軽率なものである」ことだと思うのです。
「土井たか子は売国奴」発言について。
社会党(社民党)の土井たか子さんと、北朝鮮の拉致被害者について、こんなことが書かれています。
ヨーロッパで拉致された石岡亨さんの「決死の手紙」が、1988年にポーランド経由で日本に届きました。
その手紙は石岡さんと同じく拉致され、石岡さんと結婚して子供もいた有本恵子さんの両親にも届けられたのです。
有本さんのご両親は外務省に娘の救助を要請するが、当時は政府自民党も北朝鮮の拉致を公式には認めていなかったため、相手にされなかった。この頃の自民党の姿勢も万死に値すると思う。
外務省に無視された有本さんご夫妻は藁をもすがる思いで、当時、北朝鮮にパイプがあると言われていた社会党にお願いしようと、同じ9月に国会のエレベーターの前で土井氏をつかまえ、彼女に手紙の存在を伝え、娘が北朝鮮に拉致されていることを訴えた。しかし土井氏はまったく相手にしなかった。「拉致などない!」と断言していた彼女のことだから、これは当然の対応ではあるが、驚くべきことが後に明らかになる。
14年後の2002年、小泉首相と安倍官房副長官が北朝鮮にわたり、金正日主席に拉致を認めさせた。このとき拉致被害者たちの多くの消息が知らされたが、そこには意外な事実があった。なんと、石岡亨さんと有本恵子さんは1988年11月にガス中毒でこどもと一緒にすでに死亡していたというのだ。1988年11月と言えば、有本さんが土井氏に手紙のことを伝えたわずか二ヵ月後である。こんな偶然があるだろうか。しかも北朝鮮は「遺体は洪水で流出した」と報告した。当然、本当の死因もわからない。
土井氏が手紙の存在を北朝鮮に漏らしたことで、石岡さんと有本さんは粛清された可能性がある。もちろん確証はない。だからツイートでは「疑惑」という言葉を使った。
「疑惑」って言葉を使ったから良いじゃないか!って仰りたいのだろうれど、この話の「根拠」は、「土井さんにその話が伝わった直後に、有本さんたちが亡くなった(と北朝鮮側からの報告があった)」ということだけなのです。
当時の社会党と北朝鮮との関係を考えると、ありえない話ではないかもしれません。
でも、「時期が近い」ということ以外の確固たる証拠は、何もない。
日本で、土井さん「だけ」が知っていたわけでもない。
この引用した箇所の直後に「土井氏が石岡さんの手紙を北朝鮮に漏らしたかどうかについての証拠はない」と、百田さん自身も書いているのです。
にもかかわらず、この件について、「土井さんが密告したからではないかという疑惑」を公言するのは、あまりにも無責任ではなかろうか。
確かな証拠もないのに、「お前は人殺しなんじゃないか?」と指さすようなことは、あってはならないと思う。
もうちょっとまともな根拠があって書くのであれば、それは、「告発」として受け止められるはずです。
ところが、百田さんは、「自分の思い込みだけで、客観的な事実のように書き立てて、それを自覚していない」。
あの『殉愛』が、まさにそうだった。
それこそが、百田さんがバッシングされるいちばんの理由なのだということが、この新書を読んでいて理解できました。
こういう「あまり根拠のない自分の正しさへの確信」みたいなものって、作家にとっては「武器」になりそうな気もします。
でも、そのスタンスで、「ノンフィクションらしきもの」を書いちゃダメですよ……
百田さんの「暴言」は、わかりやすいし、「まあ、僕の父親よりちょっと下くらいの世代、団塊前後の成功者って、こういう人が多いよな……」というくらいのものです。
周囲が「暴言メーカー」「炎上の火元」として、この人を利用しているところも大きいと思います。
大手メディアやSNSで「拡散」されなければ、「どこにでもいる、小うるさいオッサン」でしかないのだから。
本当は、スルーしてしまうのが、いちばん良いんじゃないかと思うんですけどね、こういう人は。