琥珀色の戯言

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【読書感想】同志社大学神学部 私はいかに学び、考え、議論したか ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

【内容紹介】
虚学である神学を学ぶことによって、人間は自らの限界を知る。そして、その限界の外部に、目には見えないが、確実に存在する事柄があることに気づく。このような外部に存在する超越性のおかげで、人間は自らの狭い経験や知識の限界を突破し、自由になることができる。わたしは神学の勉強を通じて自由になることができた。この自由が、外交官になり、ソ連崩壊や新生ロシアの混乱を観察するときも、また鈴木宗男事件に連座して獄中生活を体験したときも、わたしが拠って立つ基盤になった。(「まえがき」より)


 ちなみにこの本『同志社大学神学部』として、2012年11月に光文社から単行本が上梓されたものの新書版です。
 最近は、新書も「書き下ろし」だけではなくて、「文庫じゃなくて新書にした」というものが少なからず出ています。
 佐藤優さんは、新書界のヒットメーカーなので、文庫ではなくて新書化されたのだろうか。


 この本は、佐藤さんが、同志社大学神学部に入学してから、修士課程を卒業し、外交官試験に合格するまでが描かれています(ちなみに、この話の続き、海外留学時代の話も『紳士協定』『プラハの憂鬱』として、既に単行本化されています)。

 わたしは1979年4月に同志社大学神学部に入学した。そのときには、深い考えがあって神学を学ぼうと思ったわけではない。進学校だった浦和高校の雰囲気(外務省に似ている)が体質に合わず、受験勉強が嫌いだったこと、それから高校時代に付き合っていた熱心なプロテスタントキリスト教徒で、お茶の水女子大学に通う2歳年上のガールフレンドにふられたので、彼女に遭遇する可能性のある首都圏にいたくなかったことなど、年相応の少年らしい深刻な理由があった。しかし、神学を学びはじめて半年もしないうちに深刻な理由はどこかに吹き飛んでしまった。わたしはプロテスタント神学に魅了された。わたしが主体的に神学を学んだというよりも、イエス・キリストがわたしを掴んで放さなかったというのが真相だ。


 佐藤優さんは、同志社大学神学部から、外交官試験を受け、外交官となったんですよね。
 でも、なぜ「神学部」だったのか?
 そして、そこから「外務省」だったのか?
 変わったキャリアだよな、と思ったんですよ。
 これまでの数々の著作のなかで、「チェコ神学者・フロマートカについて、チェコの、現地の空気のなかで学ぶこと」が、外交官になった目的だった、と仰っていますが、「なぜ、そんなまわりくどい方法を?」という疑問については、この本を読んで氷解しました。
 当時の日本人がチェコに留学し、比較的自由に行動するには、この方法がベストだった、ということのようです。


 この新書を読んでいると、1960年生まれで、現在50代半ばの佐藤優さんの、変わることのない「好奇心」というか、「学ぶことへの貪欲さ」に圧倒されてしまいます。
 佐藤さんは、神学に特別な思いを抱いていたわけではないにもかかわらず、学んでみると、この「究極の虚学」の底なしの魅力に取り憑かれてしまったかのようです。
 そして、「神学部って、どんなことを勉強しているんだろう?」という僕の疑問も、これを読んである程度解決されました。

 昔も今も、神学生は、神学館を中心に学生生活を送っている。神学専門科目の授業は基本的に神学館で行われ、神学部の図書室と読書室も神学館の2階にある。牧師になると賛美歌を歌わなくてはならない。そのとき、オルガンで伴奏することが多い。神学部の授業には、パイプオルガンの実習もある。神学館の3、4階が吹き抜けで、チャペル(礼拝堂)になっている。ここにパイプオルガンが置かれていて、教会音楽の授業はチャペルで行われる。
 また、牧師になると、説教をはじめ人前で話をすることから逃れられない。そこで、どのようにして感動的な話をするか、レトリックによって説得力を増す技法などを説教学の演習で行う。これもチャペルで行われる。神学部のチャペルには十字架がない。その代わりに茨の冠が天上から吊されている。イエスが処刑される前に茨の冠を被せられて侮辱された情景を、信仰の原点に据えているからだ。


 パイプオルガンの練習まであるのか……
 あと、「効果的な話し方講座」みたいなのもあるんですね。
 たしかに、言われてみれば必要な技術だよなあ、それって。

 野本先生が言う「神の声は人間の心の中で聞こえる」というのは、いったいどういうことなのだろうか。「そういう考え方をすると、人間の心理作用と神の言葉を混同してしまうのではないでしょうか」とわたしは尋ねた。
「佐藤君は、バルト神学の影響を強く受けているでしょう」
「そうです。間違いありません」
「神学生になって、バルトに惚れこまないと男じゃない。そう思わないか」
「そう思います。先生もそうでしたか」
「僕もそうだった。バルトには惹きつけられた。ただ、何か違うと感じた。バルトはあまりに上から人間を斬りすぎる。本質において弱い人間の心をあまりに軽く見ている。だから僕はバルトにはついていけなかった。それでもっと聖書を勉強したいと思って、新約(聖書)を専攻した」
「僕は野本先生は、初めからバルトには背を向けていたのだと思っていました」
「そうじゃないよ。僕も学生時代に熱心にバルトを読んだ。フォイエルバッハも読んだ。むしろフォイエルバッハ無神論から、神の声が心の中に聞こえてきた」


 これを読んでいると、「僕よりひとまわりくらい上でしかないはずの佐藤さんが、あの時代(1980年前後)、学生仲間や教授たちと、神について、あるいは世界について、こんなに勉強して、深い議論をしていたのか、ということに圧倒されてしまうのです。
 学生生活の様子については楽しく読めていても、少なからず織り込まれている、神学論については、読んでいて、置いてけぼりにされるところがたくさんあります。
 正直、こんなにアカデミックな内容にしなくても良いのでは……とも思う。
 でも、そこで「こんなことをやっていた、考えていた」というのを、そのまま読者に示すのが、佐藤優さんという人の「良心」なのでしょう。
 そして、読者は、それに圧倒されたり、「負けるものか」と奮起したりする。


 大学生って、背伸びしてしまいがちな生き物なのかもしれないけれど、医学部で、部活と単位をとることに汲々としていた僕にとっては、「こんな大学生活もあるのか」「こんなふうに、学生と濃密な関係を結んで、『指導』してくれる教授がいるのか」と驚きの連続でした。
 僕の大学生活は、あんなので良かったのかなあ。
 まあ、人は結局、自分のできることをやるしかない、のですが、この新書、むしろ、これから大学生活を送ろうとしている中学生・高校生に、読んでみてほしい。

 現在の偏差値偏重の教育に突かれている高校生、さらに子どもに本格的に考える力をつけ、国際基準での教養をつけることを考えている親たち、問題意識が先行していて地頭はよいのだが受験教育に馴染まない生徒を抱えて悩んでいる高校教師に、同志社大学神学部への進学について考えてみることを勧める。この学校で学ぶと人生の可能性が確実に広がる。

 もちろん、佐藤さんみたいな神学部生ばかりじゃなくて、「とにかく同志社に入りたくて、そのなかで偏差値が低い神学部に来た」とか、「途中で文学部に転部していった」という人も少なからずいたようです。
 信仰についても、千差万別。
 神学部って、神父や牧師志望者のための学部かと思っていたのですが、同志社の場合は、キリスト教の洗礼を受けている必要もないそうです。


 それにしても、大学時代の盟友たちとのやりとりまで、かなり詳細に書かれていることには、驚かされます。
 当時から日記をつけていたのかもしれないけれど、僕だったら、毎日自分にマイクをつけて録音し、書き起こさないと、絶対にこんなの書けないよ。


紳士協定: 私のイギリス物語 (新潮文庫)

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プラハの憂鬱

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