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【読書感想】お殿様の人事異動 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

お殿様の人事異動

お殿様の人事異動

内容(「BOOK」データベースより)
お国替えという名の大名の異動が繰り返された江戸時代。御家騒動や世継断絶から、職務怠慢、色恋沙汰や酒席の狼藉まで、その理由は多岐にわたる。大名や家臣たちはその都度、多大な苦労を強いられ、費用負担などもただならぬものがあった。将軍が大名に行使した国替えという人事権、幕府要職者にまつわる人事異動の泣き笑いを通して読み解く歴史ノンフィクション。


 江戸時代には、全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参覲し、1年経ったら自分の領地へ引き上げるという「参勤交代」の制度がありました。
 これは、幕府にとっては各藩に財政的な負担を強いて、経済力を弱めることや、江戸に人質を置いておくことなどのメリットがあったのです。
 幕府は、それだけではなく、大名の領地の配置転換である「お国替え」というのも行っていました。
 これは、徳川政権のはじめには、もともと徳川家と同僚であった有力大名を江戸や大坂・京都から遠ざけ、頼りになる味方である譜代大名を要所に配置する、という目的が主だったのですが、後には、問題を起こした大名家への処罰や国防上重要な藩の大名が当主の急死で幼少だった場合などに命じられることになります。
 

 江戸時代は、国替えという名の大名の異動(転勤)が繰り返された時代でもある。大名は幕府(将軍)からの異動命令を拒むことは許されなかった。
 当の大名は転封してくる大名に城と所領を引き渡すとともに、転封先の大名からは城と所領を受け取るが、実際に国替えが完了するまで半年近くを要した。内示から発令、移動まで、それだけの時間が必要だった。
 国替えとはすべての家臣とその家族を連れて移動するものであり、その引っ越し費用は参勤交代に要した費用とは比べものにならなかった。国替えの理由は様々だが、突然に命じられることが大半であり、当事者の大名や家臣は大混乱に陥る。幕府からすると、いわば人事権を行使することで自己の求心力を高められる効果があった。
 将軍の人事権は老中や町奉行といった要職で威力を発揮したが、その裏では嫉妬と誤算が渦巻いていた。老中松平定信は将軍家斉から辞職願を慰留されることで権力基盤の強化に成功したが、最後は辞表が命取りとなり失脚した。辣腕ぶりで江戸庶民に人気が高かった火付盗賊改方長谷川平蔵は、それゆえに上司や同僚の嫉妬を一身に浴び町奉行に就任できないまま終わった。


 この本を読んでいて、あらためて痛感したのは「人事権」というのは、本当に大きな力なのだなあ、ということでした。
 いまの会社でも、問題を起こしたり、派閥争いに敗れたりした人が、「地方に飛ばされる」ということがあるのですが、江戸幕府もそれと同じ仕組みで、大名家を恐れさせていたのです。
 スケールにおいては、「ひとつの家族が転勤になる」のと、「ひとつの藩の大名家が、他所に引っ越しをする」のとでは、とてつもない違いがあるのだとしても。

 突然「国替え」を命じられたほうは、たまったものではありません。
 とはいえ、いまの会社の転勤辞令を受けた者には可能な、断ったり、場合によっては、その会社をやめる、という選択肢が、江戸時代の大名にはなかったのです。

 参勤交代の経費は、大名家の歳出の5~10%ほどを占めた。単に移動するだけで歳出の1割ほどが自動的に消えてしまう計算であるから、財政難に苦しむ諸大名にとっては悩みの種でしかなかった。
 しかし、国替えは全家臣とその家族全員が移動するものであり、その経費は参勤交代とは比べものにならない。参勤交代で移動する藩士の数も多いが、大藩でも数百人のレベルだった。それに引き換え、国替えともなると小藩でもゆうに千人を超えた。家族の数も加わるからである。
 これに大名や家臣の家財道具などの荷物の輸送も加わる。輸送費だけでも莫大な額に跳ね上がることは、想像するにたやすい。
 移動が近距離ならばともかく、前章でみた内藤家などは磐城平(現在の福島県浜通り南部)から延岡(宮崎県)への遠距離移動であり、その分旅費や輸送費は嵩んだ。石高が十万石に満たない内藤家クラスの小藩ならば、移動距離にもよるが参勤交代の費用は千両ほどのレベルだった。江戸と磐城平の間ならば二泊三日あれば十分であり、遠国の大名に比べれば旅費は安くて済んだ(安藤優一郎『参勤交代の真相』徳間文庫カレッジ)。
 しかし、延岡への移動となると一か月近くを要するのは必至だ。内藤家では転封に要する費用をおよそ二万両と見積もり、参勤交代と比較すると十倍以上の出費になる計算だった。そのうち、荷物の輸送費は四千両余と算定されていたことは既に述べたとおりである。
 内藤家の延岡転封は減封ではなかったが、減封された上での国替えの事例も少なくない。いわば、給料を減らされた上に、新しい任地への旅費や諸費用の自弁を強いられた格好である。大名をはじめ家臣、その家族が受けるショックは計り知れないものがあった。


 この転封というのも、落ち度があっての異動でないかぎり、だいたい同じくらいの規模の相手(ときには三者以上での任地入れ替えの場合もあり)との交代になるのですが、土地によって、商業が繁栄していたり、特産物があったりして石高以上の実入りがあることもあれば、土地が貧しくて実収入は名目よりも少ない、という藩もあったのです。
 現在のように人があちこち行き来する社会ではありませんでしたから、「国替え」への心理的な不安も大きかったはず。
 しかも、大名には任地での借金を抱えていたものも多く、それを踏み倒されないために、転封に対する反対運動が起こることもあったそうです。

 莫大なコストのこともあって、よほど実入りの良い土地への「栄転」でもないかぎり、大名家にとっては「転封」というのは悩みの種だったと思われます。
 
 この本のなかでは、ひとつの章を割いて、実際に行われた「国替え」の詳細を紹介しているのですが、読んでみると、そのあまりに巨大なプロジェクトに圧倒されてしまいます。
 そして、これだけのプロジェクトをやってのける知識と技術が、江戸時代の日本にあったということに驚かされるのです。

 大名家にとって、理不尽な仕打ちではあるけれど、絶対に従わなければならなかった「国替え」なのですが、著者は、江戸時代のなかで一度だけ、その命令が覆された事例を紹介しています。天保十一年(1840年)に発令された川越藩(埼玉県)松平家庄内藩山形県)酒井家、長岡藩(新潟県)牧野家の「三方領地替」です。
 もともとは川越藩松平家の「もっと豊かな領地に移りたい」という希望から生じた「領地替え」だったのですが、多くの反対もあり、紆余曲折の末、幕府はこの命令を撤回することになりました。
 僕も読みながら、「これは、諸大名の反応をみても、止めておいたほうがよさそうだな」と思ったんですよ。
 これを強行すると、一気に不満がいろんなところから爆発しそうだ、と。

 ところが、老中首座の水野忠邦は、最後まで国替えの断行を強く主張していたそうです。

 忠邦は今回の中止が悪しき前例となることを危険視していた。大名の抵抗により幕府の命令がいちいち覆されるようでは、その威信はもはや成り立たない。
 国替えは莫大な出費を大名に強いるものだったが、江戸城の修復や河川の修築にしても巨額の出費は避けられない。今後、何かと理由を付けて幕府からの課役を逃れようとするのは火を見るより明らかだった。
 要するに、これが蟻の一穴となって諸大名が幕府の命令に従わなくなる事態に陥ることを恐れ、(将軍)家慶に異を唱えたのである。家慶は忠邦の顔を立てて庄内領を御庭番に探索させたが、方針は変わらなかった。


 これ以後、幕府が大名に転封を命じることはほとんどなかったそうです。
 間違った、あるいは理不尽な命令は、改めるべきだと僕は思うのですが、権力を維持するためには、「善いはずのこと」が致命的な綻びを生んでしまう場合もあるのです。


引っ越し大名三千里 (ハルキ文庫)

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