- 作者: 本村凌二
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2016/12/17
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
内容紹介
「混迷の現代」を読み解くカギは「歴史」の中にある。古代ローマ史研究の第一人者によるはじめての世界史講義。
教養としての「世界史」の読み方とは、「歴史に学ぶ」ということ、「過去と現在との関わり合いを知る」ということ。東京大学教養学部で28年間、教鞭をとった著者が教養として世界史をどう読むかを教える1冊。
文明の発祥、古代ローマとの比較史、同時代史、民族移動、宗教、共和思想……、世界史を読み解く上で大切な視点を新説や持論を織り交ぜて、わかりやすく、面白く講義する。
(目次より)第1章 文明はなぜ大河の畔から発祥したのか/第2章 ローマとの比較で見えてくる世界/第3章 世界では同じことが「同時」に起こる/第4章 なぜ人は大移動するのか/第5章 宗教を抜きに歴史は語れない/第6章 共和政から日本と西洋の違いがわかる/第7章 すべての歴史は「現代史」である
歴史家・古代ローマ史研究の第一人者である著者による「世界史」の学びかた。
最近、「世界史」ブームなのか、山川出版の教科書から、池上彰さんと佐藤優さんによる「世界史」に関する新書、さらに、歴史・読書マニアだという経営者・出口治明さんの『仕事に効く教養としての「世界史」』など、さまざまな「世界史本」が出ています。中公文庫のマクニール『世界史』もけっこう話題になりましたよね。
そんななかで、著者は「歴史学者」として、思うところがあったそうです。
なぜ、本職であるはずの歴史学者たちは、いま、このタイミングで「歴史」を語ろうとしないのか?
著者は「はじめに」で、こう述べています。
これが医学や物理学の話になると、まずは専門家が出てくるはずです。ところが、歴史となると、広く理解しやすいせいか、専門の歴史家が前面から退いているように見えます。
ここでいう歴史家とは、実証史学の訓練を受けた狭義の研究者という意味です。これらの歴史家の多くは自分の狭い領域に閉じこもって、専門を異にする他の時代や地域について口を挟みたくないという気持ちがあるようです。間違ったことを言うのを憚るという良心のささやきはよく理解できます。
しかしながら、狭義の歴史家だからこそよく見える出来事もあるはずです。筆者は狭義の歴史家としてはローマ史の研究家ですが、ときには現代に生きる日本人として狭義の専門をこえて語るのも恥じるべきではないと思っています。専門研究と人生の経験を積み重ねた自分だからこそ視界にはいる歴史もあるはずです。それについて世界史という文脈で考えることも大切だと思います。
「医学」はさておき、「医療」については、専門家以外の人もけっこういろんなことを仰っている、と僕は感じているのですが、専門家であるからこそ、自分の限界を知っていて、その中に閉じこもってしまいがちだというのは、わかるような気がします。
何かをある程度極めようとすれば、「自信が持てる範囲」というのは、そんなに広くはならないのが普通です。
そして、その範囲から踏み出して、間違ったことを言ってしまうと「専門家のくせに」と責められてしまう。
そもそも、学問の世界というのは、自分の専門をはみ出してくる人を、あまり歓迎しないことが多いですし。
というわけで、「歴史家」の多くは、論文や専門書で仲間から評価されることに重きを置かざるをえないことになるのです。
今回、著者が、あえてそのしがらみを振り切って、この本を書いたことには敬意を表します。
国際人として、いえ、それ以前に社会人として、教養は語学力以上に大切です。
そう思ったときに問題になるのが、国際社会における「教養」とは何か、つまりグローバルスタンダードの「教養」とは何か、ということです。
これについては、異なる意見をお持ちの方もいるかもしれませんが、私はグローバルスタンダードの「教養」は、「古典」と「世界史」だと思っています。
「古典」は真理を教えてくれる貴重なものですが、「歴史に学ぶ」ということは、ただ本を読んで理解するだけではありません。
どうすれば「歴史に学ぶ」ことができるのでしょう。
実は、これは私自身がずっと持ち続けてきた問いでもあります。
ただ歴史書を読み、年号や出来事、人物の名前を覚えたとしても、それだけでは歴史に学んだことにはなりません。
私がそう思うようになったのは、高校生のときに読んだ『歴史哲学講義(ヘーゲル著・鬼頭英一訳・春秋社/上下巻)という本に、次のような言葉があったからでした。経験と歴史が教えてくれるのは、民衆や政府が歴史から何かを学ぶといったことは一度たりともなく、また歴史からひきだされた教訓にしたがって行動したことなどまったくない、ということです。
『歴史哲学講義』は、19世紀のドイツを代表する哲学者ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770〜1831)の講義をまとめたものです。
この言葉が意味しているのは、集団としての人間は、いまだかつて歴史から学ぶことができていない、ということです。確かに、人類はその歴史の中で、何度も同じような過ちを繰り返してきています。
歴史について考えるとき、私はいつもこの言葉が脳裏に浮かぶのです。
そして同時に、一つの疑問が浮かびます。
それは、集団としての人間は歴史に学べなくても、個人としてであれば、人は歴史の教訓にしたがって生きることができるのではないか、ということです。
この本を読みながら、人類の歴史、そして、ローマの歴史や日本の歴史について考えていくと、「人は歴史に学ぶことができない」一方で、それはある意味「歴史を学ぶことによって、人はどんな過ちをおかしやすいのか、予想することができる」とも言えそうです。
そして、人間が言葉や宗教を持ってからの時間というのは、人類の歴史にとっては、まだほんの短い間のことで、少しずつでも、改善の余地はあるのかもしれない、と思うんですよね。
ひとりの人間というのは、どうしても、自分が生きている時代を「最先端」だと考えがちですし、そう思わないとやってられない、というところもあるのですが、おそらく、すべての時代の人が、同じように考えて生きてきたのです。
この本でも最後の第7章に「すべての歴史は『現代史』である」という章が置かれています。
歴史というのは、それを読み解く時代の感覚で「理不尽だ」と断罪されがちだけれど、実際に起こっていた時代には、それなりの「合理性」とか「理由」があるものなんですよね。
とはいえ、「じゃあ、奴隷制だって、いまの感覚でOKということにすれば、許されるの?」と問われたら、「そういうわけにはいかない」としか言いようがないのですが。
著者は「ローマが大国になれた理由」について、こんな考察をしています。
もう一つ、ローマが大国になれた要因としてポリュビオスが指摘したのは、ローマ人の宗教的な誠実さでした。
ポリュビオスの『歴史』には、ローマ貴族の葬礼について述べた文章があるのですが、そこで彼はとても面白い考察をしています。
偉業を成し名を上げた人々の肖像が一堂に並び、まるで生命を吹き込まれたかのような姿を見せているそのありさまを見て、恍惚としない者がいるだろうか。これに勝る光景がいったいどこにあり得よう(『歴史』より)
これが、葬礼の場で、親族が死者そっくりの仮面をつけて現れたのを見たときの驚きを述べたものです。
なぜ彼がこれほどまでに驚き、「これに勝る光景はない」と言ったのかというと、この光景を目にしたときポリュビオスは、ギリシア人は公よりも個を大切にするが、ローマ人は個よりも公共の安泰を重んじる。なぜ、ローマ人はこれほどまでに公共を重んじることができるのか、という謎の答えに気づいたからなのです。
ポリュビオスは、ローマ人が公共を重んじるのは、若者の頃からこうした感動的な葬儀を経験することで、「たとえ死んだとしても、その英雄的功績は
こうして永遠に語り継がれるのだ」という思想的刷り込みが行われているからだ、と考察しています。
ポリュビオスは、こうしたやり方を非難しているというわけではありません。それどころか、ローマ人はギリシア人には到底かなわない生真面目さと、敬虔さを持っていると述べています。
これを読みながら、僕はちょっと考え込んでしまったんですよね。
ローマが「帝国」として繁栄したのは、こういう「英雄たちの物語」をつくりあげ、公のために生きること、死ぬことは、個人を大切にするよりもすばらしいことなのだ、と人々に信じさせることに成功したから、だとするならば、これはまるで、太平洋戦争に突き進んでいった、大日本帝国と同じではないか、と。
大日本帝国のほうが、ローマのようだった、と言うべきなんでしょうけど。
そして、これが正しいのであれば、「公のために、個を犠牲にすること」が美化されにくい今の日本は、国として繁栄することは難しいのかもしれません。
また、奴隷制度やアヘン戦争についての、イギリスのこんな話も紹介されています。
19世紀半ば頃から、(アメリカにとっての)本国イギリスで、人権思想の高まりから奴隷制は廃止すべきだという動きが広がっていきます。
この時代のイギリスでは、国益のためであればどんなことでもするべきだという、ある意味他民族の人権を無視する人々と、そういう考え方はイギリス人として恥ずべきものだとして反対する人々の勢力が拮抗していました。
奴隷制とは直接関係はありませんが、イギリスが中国清王朝と戦ったアヘン戦争(1840〜1842)の際も、開戦か否かを決定する審議は、賛成271票、反対262票という僅差で開戦に踏み切っています。
このときも反対する人々は、「儲かるからといってアヘンなんかを売りつけておいて、今度はそれが侵害されたからといってその国を攻めるというのは、イギリス人の恥だ」と主張しています。
あの帝国主義時代のイギリスにも、そういう良心を持った人が半分くらい存在していたのか、と思ったんですよね。
もうみんな、イケイケドンドン、というか、片っ端から植民地にしてしまえ、というムードだったのではないかと勝手に想像していました。
そういう「良心的」な人が半分くらいいても、過半数を得たほうの方針に従って、アヘン戦争は開戦されました。
ナチスだって、ドイツ国民が諸手をあげて、その政策を支持していたわけではないのに、あんな歴史的な悲劇を生むことになってしまった。
その一方で、アメリカでは国を南北に分裂させながらも、奴隷制廃止を成し遂げました。
国というのは「賛否が半々だから、半分だけ戦争しよう」というわけにはいかないんですよね。
民主主義的であろうとすれば、多数を占めたほうの意思に従おうとすれば、こういうことは、これからの歴史でも必ず起こってくるはずです。
人間は歴史に学ぶことができないかもしれないけれど、歴史に学んだ個人が増えれば、悲劇的な歴史が生まれる可能性を少しでも減らせる可能性はあるのではないか?
そもそも、「歴史に学ぶ」とは、どういうことなのか?
まず、そこから考えてみたい、という人は、手に取ってみて損はしないと思います。
- 作者: 出口治明
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2014/03/25
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (2件) を見る