琥珀色の戯言

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【読書感想】「意識高い系」の研究 ☆☆☆

「意識高い系」の研究 (文春新書)

「意識高い系」の研究 (文春新書)


Kindle版もあります。

「意識高い系」の研究 (文春新書)

「意識高い系」の研究 (文春新書)

内容紹介
あなたは「意識高い系」? それとも「リア充」?


カフェでMacを広げ、自己啓発セミナーへ熱心に通い、休日はバーベキューやパーティー。
そんな自分の姿をSNSにアップする……。こうした「意識高い系」の人々はなぜ生まれるのか。
「意識高い系」が放つ特有の「実力なき自己顕示欲」は、何に由来するのか、どのような経緯で構築されたのか。
「意識高い系」を「地方上洛組」と「在地下克上組」との二種類に分類し、その輪郭をあぶりだす。


また、ともすると混同されがちな「リア充」と「意識高い系」だが、「土地」と「スクールカースト」をキーワードに、両者が似て非なる存在であることを論じる。


「大学デビュー」に賭けて、故郷の北海道から関西へ進学し、入学式の前に髪を金色に染めた著者は、「意識高い系」とは私にとって他者ではなく、同族の問題--と、本書の中で綴っている。
そんな著者が、データを援用しながら彼らの生態を徹底的に掘り下げた。そして見えてくる現代社会の抱える問題とは。


 なかなか興味深い検討がなされている本なのですが、「リア充」というのを「今の生活が満たされている」とか「恋人・家族がいる」というような定義ではなく、「地元に人脈・地縁をもっている(自分の土地を持っている)」というのを重視して定義しているのがこの新書の特徴であり、ちょっと僕の感覚とは違うところでもあるんですよね。

 端的にリア充とは、その土地に土着し、その土地を上級の親族から提供された存在(同居・相続)であり、その土地へ幼少期より土着することにより、重層的な人間関係を築いてきた人たちのことを言う。言い換えればリア充は「ジモティ(先住民・地元民)と同義だ。
 現時点での富裕や、恋人の有無はリア充の定義尺度ではない。東京都内で上級の親族から提供された土地に住み、その中で重層的な人間関係、つまり「地縁」を培養してきた人々は間違いなくリア充であり、そうではない「よそ者(非定住民)」を非リア充と呼ぶ。なれば私は典型的な後者だ。


 僕も「転勤族の子ども」で、「故郷を持たない人間」なので、著者の怨念みたいなものに共感するところはあるのです。

「意識高い系の連中なんぞ、どこにでもいるでしょう」と片付けられるほど、理解は容易ではない。なぜなら、「意識高い系」の人々がなぜ生まれたのかを探れば探るほど、それにはこの国が根本的に抱える「土地」に関する特有の事情、およびその土地に関連した「スクールカースト」という、2つの埋めがたい「格差」にぶち当たるからである。


 大言壮語する「意識高い系」はバカにされまくるし、本物の「意識が高い人」と比べるとたしかに「みっともない」。
 ただ、もともと「地元や土地を持っている、スクールカースト上位の人々」は、持っているのが当たり前で、「意識の高低など、考える必要もない」のですよね。
 意識高い系の人たちも、また、壁に囲まれてもがいている、とも言えるのです。


 そもそも「リア充」とか「意識高い系」というのは、ネットの慣用句みたいなもので、厳密な定義はありません。
 それを、「共通認識として語る」のは、けっこう難しいものなのだなあ、とこの新書を読んでいて、あらためて感じました。

 現在地ブロックとは、例えば現在東京に住んでいる人間のうち、同じ土地での出生出自が何%を占めているか、というもので、本書の表現に沿えばジモティ率を示したものである。
 ここで興味深いのは、現在東京圏(東京・神奈川・埼玉・千葉の1都3県)に住む人々の実に68%が同じく東京圏に出自を持つ土着民である、ということだ。むろん、このデータには、例えば東京圏で生まれたものの親の都合で小・中・高を長野県で過ごし、就職して以降再び東京圏に回帰してくるといったパターンの人々をも含んでいるので、この数字がそのまま東京圏に出自を持つ土着の人々(ジモティ)を示すものではなく、実際には幾分下方に修正されるだろう。
 とはいえ、東京居住者の大半は地方出身者によって占められている、という漠としたイメージは、実際には膨大な労働力が郡部から大都市部に流入してきた高度成長期のイメージの延伸にすぎない。


 著者は、さまざまなデータを紹介しているのですが、それを見ると「都会(=東京)に行けば、地元での人間関係やスクールカーストみたいなものがリセットされる」というのは、現在では必ずしもあてはまらない、ということがわかります。
 実は、東京で生活している人の多くが、東京やその近郊で生まれ育ってきた人なのです。
 地方でも、最近は「地元志向」が強くなっており、わざわざ東京で一旗揚げよう、という人はかなり減っているんですね。
 東京でも、「東京が地元の人」が幅をきかせていて、地方から出てきた人が、そこで成り上がるのは難しくなっているのです。

 この国には一定の割合で、他者に対し年収や貯金額、学歴を聞く(あるいは聞かれてもいないのに自ら発する)人々がいる。私の人生の中でも、こういった人々には少なくない割合で出くわす。そして彼ら彼女らは、ほとんど例外なく「意識高い系」の中に包摂される条件を有している。私からすれば、彼ら彼女らは、例外なく中途階級のコンプレックスの罠に陥っていると言える。
 なぜ彼らは、他者に対し年収や貯金額や学歴を問うのであろうか。まず年収で言えば、他者に年収を問う人間は圧倒的な高収入ではないが、さりとて世代の平均よりは上であるという自覚を有している「中途半端な」段階にある。例えば、30代男性の平均年収はおよそ400万円〜500万円というところである。
 何ら合理性なく他者に対して年収を聞く人物は、およそ年収でいうと700万〜800万円、というところに位置するものが多い。これは同世代の平均年収よりも上方であるから、仮に他者に年収を聞いた時でもほぼ、高い確率で自分の年収の比較優位を実感することを自覚しているからである。
 つまり彼らは、それをもってして自分の優位を追認・確認するという「卑小な」心理に終始しているのである。年収を聞いた相手が、自分よりも少ないことを半ば確信し、その答えを渇望し期待しているのである。
 年収は200万円しかない人間は、他者に年収を聞くことをしない。他者のほうが自分よりも年収が多いことは統計的に分かり切ったことだからである。逆に年収が6億5000万円ある30代の実業家が、市井の人間に年収を聞くことはない。なぜなら、聞くまでもなく自分が優位であることなど分かり切っているからだ。


 これを読んでいて、「ネットでPV(ページビュー)や収入の報告をしたがる人たち」のことを思い出さずにはいられませんでした。
 たしかに「全く稼いでいない人たち」は、そんなのを公開したいとは思わないだろうし、本当に稼いでいる人たちは、アピールするよりも、人に妬まれるリスクを考えるはずです。
 でも、「そういう形でしか、自分の存在意義を見いだせない人たち」だと考えると、なんだかあんまりバカにするのもかわいそうではありますよね。
 というか、僕にとっては、あまり他人事でもないし。

 スクールカーストの支配階級は、その土地から離れる必要はない。何歳になっても支配階級である彼らは、そうやって泰然と強者の貫禄でもってあのだだっぴろい、何もない北の大地の住宅街の中で美熟女と不倫でもやりやがってよろしく後人生でも送るに違いないのさ——。そう考えると、土地から一切得るものがなく、土地から離別したがゆえに一切の人脈を持たない私が、いくら後天的に何かをなしたところで、何ら彼には対抗できぬ厳然とした格差があるのを思い知るのである。


 いやしかし、この新書に書かれていることは、あまりにも著者のコンプレックスに引きずられているのではないだろうか……
 と思いつつ読んだのですが、正直、宝くじで10億円でも当たらないかぎり、いや、当たったとしても、そういう「土地の有力者」みたいな人と僕のあいだには、「根本的な格差」があるということに頷かずにはいられないのです。
 ちょっと難しい言い回しが多くて読みにくいところはあるのですが、「意識高い系」って、たぶん、本当の「敵」じゃないんですよね。ツッコミやすいから、つい、目の敵にしちゃうけど。

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