琥珀色の戯言

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【読書感想】根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男 ☆☆☆☆

根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男

根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男

内容紹介
「はじめに言っておくけどね、いい男だよぉ。ほんとに」(関根潤三)
「いつも帽子かぶって、葉巻くわえて、ほんと、かっこよかったね」(王貞治)


プロ野球の選手としては実働わずか4年で、輝かしい実績もない。
それが引退後にスカウト、コーチで経験を積み、1968年から広島の監督になると、
先を見据えたチーム作りに才能を発揮。のちにセ・リーグを席巻する
赤ヘル軍団"の礎を築き、79年からは西武の監督、管理部長として常勝球団に。
93年からはダイエーで強化を進め、今のソフトバンクへと続く強豪に育てるなど、
根本陸夫がかかわったチームは必ず黄金時代を迎えた。


世間をあっと言わせる大胆なトレードを仕掛け、ドラフトでは裏技を駆使して
次々と有望選手の獲得に成功。巧みな手腕で「球界の寝業師」の異名をとり、
実質的に日本初のゼネラルマネージャーとして辣腕をふるった根本陸夫


王貞治衣笠祥雄石毛宏典工藤公康など20人を超える関係者の証言を得て、
本書は謎めいていた根本陸夫の真実に迫る。


 根本陸夫という人を、ご存知でしょうか?
 少なくとも、野球ファンなら多くの人が知っているはず……と言いたいところなのですが、根本さんが亡くなられたのは1999年4月30日。もう、17年以上が経っていますから、若い野球ファンには、馴染みがない名前かもしれません。

 現役時代は実働4年で輝かしい実績もない三流捕手。引退後は4球団で指揮を執りながら優勝はなく、Aクラス入りも一度だけの二流監督。それでもチーム作りには一流の腕前を見せ、低迷していたカープ、ライオンズ、ホークスに変革を起こし、それぞれの黄金時代へとつなげた男がいる。
 男の名は、根本陸夫
 各球団の監督時代からチーム編成に携わり、フロント入りすると実質GM(エネラルマネージャー)として辣腕を発揮した。特に大型トレードで周りを驚かせた一方、有能な新人獲得の手段をめぐっては球界内で問題を引き起こすこともあり、いつしか「球界の寝業師」と呼ばれるようになった。


 根本さんという人は「球界の寝業師」という言葉からもうかがわれるように、所属していたチームの関係者・ファン以外からは、必ずしも好意的にみられていたわけではありませんでした。
 僕も「陰で暗躍し、ルールの間隙をついて自分のチームに都合がいい補強を強引にしていた人」に見えていたんですよね。


 この本は、根本さんと接してきた野球関係者たちへのインタビューから構成されています。
 読んでみて驚くのは、没後17年も経っているにもかかわらず、多くの人が具体的なエピソードを含め、根本さんのことをしっかり記憶しているということ、そして、王貞治さんをはじめとする球界の大物たちが「根本さんの伝記をつくる」ための取材に協力して、身を乗り出すようにして記憶を語っている、ということでした。


 根本さんって、ダンディで強面で、ちょっと「その筋の人」みたいにもみえ、若い頃にはさまざまな武勇伝もあったそうです。
 おせっかいにさえ思われるほど、若い選手たちの面倒をみて、球団の上層部には「野球のことは任せる」と信頼され、中曽根康弘さんから自宅にゴルフの誘いの電話がかかってきた人。
 著者は、根本さんのことを「プロ野球のすべてを知っていた男」であり、過去、同等の仕事を成し遂げた人は他にはいない、と仰っています。
 選手として、スカウト、コーチ、監督として、GMとして。
 まさに、プロ野球に関するすべての仕事を経験し、「弱いチームを強くする」ためのノウハウを確立した人だったのです。
 ただし、この本のなかには、根本さんが弱いチームの指導者として、「チームの基盤づくり」をするのが得意で、やりがいを感じていた一方で、目先の勝利や「監督としてチームを優勝させる」ことのにはあまり興味がなかったことも繰り返し語られています。
 ダイエーの監督時代、終盤までAクラス争いをしながら、僅差で4位に甘んじたシーズンなど、悔しがるそぶりも見せず「今年あまり好成績だと次の王監督がやりづらくなるから」と、むしろ喜んでいた、なんて話も紹介されています。
 そこまで監督として優勝するのを嫌がらなくてもいいのに、と思うくらいなんですよ、根本さんって。


 根本さんは、本当に「人間」を大事にしていたし、ある意味「人たらし」だったのです。

 工藤(公康・現ソフトバンクホークス監督)が(西武ライオンズに)入団したときから根本は管理部長になっただけに、現場で顔を合わせる機会は頻繁ではなかった。それでも会えば「しっかりやれや」と肩を叩かれ、教訓をもらった。
「まず言われたのは『プロになったとしても、いちばん大事なのは社会人として立派になるのがなによりで、野球は二の次だ』ということ。身なりにしても、僕ら若い選手が着ているものを見ては、『なんだよそれは! そんなだらしない格好はダメだ』と言われてました。ご本人は白のスーツに白のネクタイ、寒くなったら白のスカーフ巻いてコートなんですけどね(笑)」


 根本さんは接した選手たちに、ずっと「まずは社会人として一人前になるのが大事」だとつねづね仰っていたそうです。
 白のスーツとネクタイの人にそんなこと言われても……という感じではありますが。
 根本さんは、野球界という特殊な世界に身を置きながら、すごく視野を広く持ち、外の世界の人とも分け隔てなく接していたのです。
 野球界でも、一度「世話をする」と決めた人は、とことんまで面倒をみています。


 デイリースポーツの記者だった浜田昭八さんは、妻とスキー旅行に出かけるときに偶然出会った根本さんの思い出を話しておられます。

 その日、スーツ姿の根本は若いお付きの者とふたり、西武球場前にある球団事務所から都内へ向かっていた。反対に浜田は、都内から狭山スキー場へ向かっていた。球団首脳である取締役管理部長が、車ではなく電車で移動していた事実に驚かされるが、それはさておき、一記者の余暇にまで気を配っていた根本の、神経の細やかさにはもっと驚かされる。
「根本さんと私の付き合いが長かったから、ということは一部にはあるでしょう。ただ、記者になりたての人にはやらないにしても、ある程度の経験ある記者にはすべて、いろんな配慮をしていたと思います。これは毎年、西武を辞めた選手に家族証を送っていたのと同じ。家族証って、要は西武球場へのフリーパスですが、『OBならいつでもいらっしゃいよ。来たら、ちゃんと球団の人間に世話させるから』みたいなことを言うわけです。ほとんど二軍でしか試合に出ていなかったような選手も含めて、全員にね」
 根本はなぜ、“家族証”を送っていたのか。浜田が聞いたその考えはこうだ。
<北海道や沖縄など遠いところから、それほど頻繁に訪れることはできない。でも、彼らは根っから野球が好きで、選ばれてプロ野球に籍を置いたことを誇りに思っている。このパスは、あの西武ライオンズにいたという証なのだ>
 西武OBという立場を誇りに思うことができれば、彼らは、どんな職業に就いていようと、どこで暮らしていようと、野球そのものからは離れない。必然的に、地元のアマチュア野球などに接する機会も増えていく。
<近在にいい選手がいると聞けば、彼らは自費で見に行って、様子を知らせてくれる。こちらはパスの用紙代とナンバーを打つ手間だけで、金には代えられない情報を得るのだ>
 些細な手間を惜しまない“こまめ”さが、チーム強化につながる情報をもたらす。


 プリンスホテルの元監督・石山建一さんの証言。

 石山自身、根本の仕事ぶりを見て、「これはすごい!」と思わされたのは、プリンスホテルの助監督時代、自宅に呼ばれたときだったという。
西武線沿線にある根本さんの自宅とプリンスの合宿所は近かったので、何かあると『ちょっと話があるんだけど、来てくれませんか?』と電話がかかってくるんです。それでご自宅にうかがうと、奥さんが手料理を用意してくれて、練習が終わったコーチ連中も来て、いろんな世間話をするんですが、行くたびに、12球団すべての情報が根本さんのもとにある。あとで聞いたら、『他の球団にも親しくしているヤツがいるから、毎日、いろんな情報が入るようにしてある』と。これは本当にすごいことで、今でもそんな人は野球界にいませんよ」
 各球団の情報とは、たとえば「このチームのある選手は一軍コーチと折り合いが悪くて、今は干されている」とか、「ある主力選手がチームを出たがっている」とか、内情に関わるものばかり。ちなみに西武の情報に関しては、その日の練習内容などがコーチから伝わり、広岡達郎と森祇晶、監督とヘッドコーチの会話の内容まで根本の耳に入るようになっていた.アメリカで仕事をしている人間からも、現地における状況がその日のうちに国際電話で報告されていた。
 1980年代の半ば、メールはまだ登場しておらず、携帯電話も普及していない時代にもかかわらず、その情報網には驚かされる。
「情報がどんどん入ってくるのも、人脈があるからです。そうした人脈を築いたのも、ひとりひとりを大事にし、ちゃんと面倒を見ていたからです。私が実際に見たなかで忘れられないのが、西武のバッティングピッチャー連中に『お前ら、ちゃんとスコアブックを付けなきゃダメだ』と教えていた姿です。体力がなくなってバッティングピッチャーができなくなっても、先乗りスコアラーとか、次の職に就けるようにしていたわけです。今でこそ、こういう転職は各球団でやっていますが、最初に始めたのは根本さんですよ」
 新人選手の親族の就職先まで世話をっしつつ、現役を引退した選手が“裏方”になれば、さらにその先を見越して策を講じていた根本。尋常ではないほどの目配り、気配りが感じられるが、石山も「普通の人とは違う」と感じていた。


 根本さんは、こういうことを、どこまで「情」でやっていたのだろうか?
 もちろん、情報収集のための人脈づくり、という意図もあったとは思うのです。
 でも、そういう「計算高さ」みたいなものが、根本さんからは、あまり伝わってこない。
 もしかしたら、本人も、どこまで「仕事」でやっているのか、わからなかったのではなかろうか。
 たぶん、こういうやり方は今はもう流行らないのでしょう。
 しかしながら、中日の森繁和監督やソフトバンク工藤公康監督のような「根本チルドレン」は、その遺産を受け継ぎ、いまも野球界で指導者として活躍を続けているのです。


 ただ、こういう「裏方仕事」の緻密さに比べて、現場の監督としてはけっこう、いいかげんというか、「育てる」ことには熱心でも、目先の結果には興味を示さなかったというのは、根本さんの面白いところではあります。
 選手、コーチとして根本さんと過ごした行澤久隆さんは、こんな話をされています。

 広く知られている監督・根本の野球は、「勝つための野球」ではなく「育てるための野球」というものだ。もし、勝ち負けだけで監督の力量を判断するならば、根本の評価は必然的に低くなる。実際、根本に仕えた元選手たちにベンチでの思い出を尋ねると、途端に苦笑する人ばかり。その采配については首を傾げずにいられないものもあり、特に西武では、ミーティングもなければ、選手を束ねてまとめようともしていなかったという。
「確かに、根本さんはミーティングをしませんでした。でも、いつも試合が終わると、たとえ大差で負けたとしても『ご苦労さん』と声をかけてくれた。これは、なかなか言えることじゃないですよ。普通、監督だったらいろいろ言いたいこともあると思います。そこを根本さんは『ご苦労さん』のひと言で終わる。決して、愚痴をこぼすことはなく、自分の心労は表に出さない。コーチには言っていたかもしれませんが、選手には絶対言わなかった。そのあたりの器の大きさが、根本さんにはあるんです。だからみんな、この人のために頑張らなきゃという気持ちになるんです」


 そんなに現場で指揮することに興味がないのなら、監督をやらなければいいのに、とも思うのですが、根本さんとしては、「勝ち負けはともかく、現場で実際に一緒にやってみないと、チームの雰囲気や選手の力量をきちんと把握することはできない」と考えていたようです。
 そこまで割り切って「基盤づくり」をしていたということには驚かされますが、所属していたチームの多くは長年低迷し、戦力も不足していたので、結果的には根本さんのやりかたがいちばんの近道だったのかもしれません。
 もちろん、それが正解だったかどうかは、誰にもわからないことではありますが。


 根本陸夫という人の「すごさ」と「おそろしさ」、そして「矛盾しているところ」が語り尽くされた、貴重な証言集だと思います。
 日本のプロ野球には、「根本さんのような個性派が活躍し、勢力図を変えることができた時代」があったのです。

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