- 作者: 林望
- 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
- 発売日: 2017/04/07
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
役に立たない読書(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)
- 作者: 林望
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2017/06/02
- メディア: Kindle版
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内容(「BOOK」データベースより)
仕事や生活に役立てたい、情報通になりたい…。最近の人は読書に実用的な価値ばかりを求め、書物をゆっくり味わうことを忘れてはいないだろうか。本書は、そのような傾向に異を唱えるリンボウ先生が、「読書に貴賎なし」と、読書を自在に楽しむ方法を惜しみなく披露。古典作品の魅力と読み方も、書誌学の専門家としての知識を交えながらわかりやすく解説する。書物に触れる真の歓びに満ちた著者初の読書論!
「リンボウ先生」こと、作家・国文学者の林望先生の読書論。
ひととおり読んでみたのですが、率直に言うと、「読書術」とか「本の選びかた、読みかたのノウハウ本」ではなく、林望という人は、本とこんな付き合い方をしているのだなあ、というのがわかる本、という感じでした。
万人向けというよりは、林先生のファンが「こんなふうに読んでいるのか」と知って喜ぶためのアイテムです。
おそらく、明治時代の旧制高校生などは、デカルト・カント・ショーペンハウエルなどと唱えて、ドイツ哲学などを齧っては、解ったような顔をして大いに議論の熱を吹いたのだと思いますが、それは私どもの祖父母の時代の流行で、今では、哲学専攻の学生でもなければ、ほとんど読む人はいないことと思います。私もまったく読んでいません。
こうしたことどもも、しょせんは流行です。かかる流行の一現象に過ぎぬものは、20年、30年と時間が過ぎると、ほとんどの人は忘れてしまい、ターム自体が過去の遺物になってしまうことは歴史が証明しています。
一方で、ヒューマニティ(人間性)の根幹にかかわる本は必ず構成まで継続的に玩味され、そのすぐれた作品は真の意味での「古典」となります。物事を考えるよすがになったり、感情が揺さぶられたりする本、そうした本は、ヒューマニティというもの自体が不易のものである以上、時間の淘汰を経て残ってゆくものです。
ああ、『ノルウェイの森』の永沢さんがここにもいた……
とはいえ、デカルトやカントも「一時の流行」ということであれば、よほど古い作品でもないかぎり、「生き残ってきた作品」と見なすのは危険なのかもしれません。
林先生は、『源氏物語』や『平家物語』を挙げておられて、それは確かに、誰も文句は無いだろうと思いますが。
林先生によると、これらの古典は、何度読んでも新しい発見があるそうです。
とはいえ、「役に立たない読書」ということなら、ベストセラーでも本屋大賞でも直木賞でも、好きなものを読めば良い、という考え方もできますよね。
ちなみに、林先生は「図書館が苦手」なのだそうです。
周囲に人がいると、どうも気が散って本が読めません。なぜかわからないけれど、読んでいてもさっぱり頭に入ってこないのです。ところが、電車の中なら問題なく読書ができる。隣に人がいても、自分の世界に閉じこもることができるのだから、不思議といえば不思議です。こういう読書環境というものは、人によりさまざまで一様ではないと思いますが、場所がどこであれ、本を中心に自分の空間が保持できるかどうかが大事なんだろうと思います。
ではなぜ図書館では集中できないのか。
図書館には、規則がありますね。私語をしてはいけないとか、飲食をしてはいけないとか。そういう、何かを強制されたような環境が、私自身は好きではないんだろうと自己分析しています。
僕は図書館そのものは好きなんですが、そこで長時間座って本を読むのは、ちょっと苦手なんですよね。まったくの無音で、ピリピリした雰囲気だと、かえって読みにくい。読み始めは音楽をかけたり、テレビのバラエティ番組を観たりしながらなのですが、本に集中してくると、自分で流していた音楽を「うるさいな!」とオフにしてしまうのです。
読書習慣というのは、本当に人それぞれ。
林先生は、古典文学について、こんな話をされています。
さて、その古典文学を読むということですが、多くの方々は、なにやら難しいことを勉強のために読むのだと考えがちです。しかし、もしそうであったなら、千年もの間滅びずに読み継がれてきたはずはないのです。
昔の人も、そのちょっと後の人も、中世の人も、江戸時代の人も、たとえば『源氏物語』を読んでみたら、なんて面白いのだろうと思ったからこそ、また筆写したり講釈したりしつつ、次の世代に伝えてきたのに違いありません。
じっさい、およそ千年前に書かれた『源氏物語』を読むと、「ああ、わかるなあ」と思うことばかりです。
平成の世の平民の私どもと、平安時代の貴族の世界では、暮らしかたも取り巻く環境も当然違っていたにきまっているのですが、しかし、どんなに身分や土地が違おうとも、また時代が隔たっていようとも、男が女を好きになって恋仲になりたいと思う心、女が男に惚れてその逢瀬を待ち焦がれる思い、そういうことは、時代や身分を超越して不易であるに違いないのです。
すなわち、喜怒哀楽、恋や恨みなど、いわゆるヒューマニティというものは何千年を経ても普遍的なことがらであって、そうであるからこそ、千年後の私たちにも紫式部らの書いたことが「理解」でき、また我がことのように感銘を受けたりするのです。
そういうことを、本居宣長は「もののあはれ」という言葉に代表させたということなのです。
そうなんですよね、これらの物語が受け継がれてきたのは、多くの人が「面白い」あるいは「役に立つ」と考えてきたからで、「歴史的遺物として」保存されてきたわけではないのです。
そういう意味では、長い時間を生き延びてきた作品というのは、すぐれたものである、と考えてよさそうです。
僕もいまさらながら、「古典」をちゃんと読んでおけばよかったなあ、でも、この年になって、いまさら読んでもねえ、なんて思っていたんですよね。
しかしながら、今だからこそ、こういうルーツといえるような作品に戻ってみるというのは、すごく有意義なことなのかもしれません。