琥珀色の戯言

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【読書感想】ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
ヴァイオリンほど不思議なものはない。三百年前に作られた木製楽器が、骨董品ではなく、現役としてナンバーワンの地位を占めているのだから。頂点に位置する二人の名工の作品を軸に、なぜ、これほどまでに高価なのか、なぜ、これほどまでに美しい音色なのか、その謎と神秘に迫る。


 ストラディヴァリは知っているけれど、グァルネリは「名前くらいは聞いたことがある」程度。
 クラシックのコンサートに行ったことはあるけれど、40数年生きてきて、片手で数え切れるくらい。
 そんな僕の感想として読んでいただければ幸いです。


 ストラディヴァリといえば、「素晴らしく音がいい、伝説のヴァイオリン」として、そして、ものすごく高価で、これを手に入れるために家を売ったヴァイオリニストがいる、というようなエピソードの主役として知られています。

 その一方で、その楽器のすばらしさを聴衆は本当に理解できるのか?
 数億円という価格ほど、他のヴァイオリンと「違い」があるものなのか?
 そういう疑問もみんな抱き続けているのです。

 『芸能人格付け』という人気番組では、毎回、音楽に関する「違い」を判別する問題が出されていて、数億円のすごい楽器と楽器店でごくふつうに売れられている楽器や、プロのミュージシャンとアマチュアの実力者を聴きわけることが問われます。
 僕も毎回挑戦してみるのですが「なんとなく違いはわかるような気がするけれど、どちらが優れているか、高級品なのか指摘する自信もなく、勘で答えているにもかかわらず、当たりはずれに一喜一憂する」という感じです。
 多くの有名芸能人も不正解で、「みんなこんなものなんだな」と思う一方で、いつも正解のGACKTさんをみると「やっぱり、わかる人にはわかるんだな」と納得するわけです。


 僕はこの新書は、そういう「ストラディヴァリやグァルネリの音は本当に素晴らしいのか? どこが違うのか?」のメカニズムを解明する内容だと思っていました。
 ところが、最初のほうで、著者はこんな実験結果を紹介しているのです。

 私の記憶に残っている有名な試みは、いまから数十年前、改装前の東京都心・イイノホールで、本邦ヴァイオリン界の巨匠・江藤俊哉をはじめとする何人かの音楽関係者を集めた弾き比べと聴き比べの会。
 江藤は生前、名教師として数多くの弟子を育てたことで有名ではるが、ヴァイオリンについて、並外れた鑑定眼の持ち主であることでも有名であった。自身、複数の銘器の所有者でもあった人である。
 イイノホールにおける聴き比べの会が行われたのは1960年代であったと思う。
 その頃、日本は高度成長期の中盤にあったが、国としてはまだ貧しさを脱し切れていなかった。だから、ストラディヴァリウス、デル・ジェス級の銘器は国内に何挺あったか。
 親交のあった製薬会社・龍角散の当時の社長・藤井康男氏が《サンライズ》という別名を持つ1677年製のストラディヴァリ製作の銘器と、後日江藤俊哉の愛器になるデル・ジェスの傑作を、(恐らくは会社名儀で)所有していたこと、戦乱のヨーロッパから帰国した女流ヴァイオリニストの諏訪根自子が戦時中、ナチス・ドイツの宣伝相・ゲッペルスから贈られたストラディヴァリウスが記憶に残っている程度に過ぎない。
 弾き比べと聴き比べの会に、少なくとも龍角散所有のストラディヴァリウスサンライズ》が出品されていたことだけは、当時の藤井社長から私自身が伺っているから間違いはない。
 だが、当日出品された何挺かのさまざまな楽器を複数回、何人かの奏者が弾き比べ、それを何人かのその道の権威者がホール二階の正面席で聴いて、楽器の作者の名前を当てるという試みは惨憺たる結果に終わった。
 統計学上、有意差を検出できた人物が誰一人として現れなかったのである。


 当時の主催者と音楽ジャーナリズムは、「ストラディヴァリウスが隔絶した銘器であるという<銘器信仰>は、全て錯覚に基づくものである」と判定したそうです。
 結果をみれば、そう言わざるをえませんよね。
 ちなみに、同様の実験はイギリスでも行われています。
1977年にはBBC主催で、三人の専門家が四挺のヴァイオリンの製作者名を当てる、という番組が放送されたそうですが、欧米の有名な演奏家や楽器商である三人でも、科学的に有意な「聴き分け」はできなかったのです。

 ところが、こういう実験結果が出ているにもかかわらず、ストラディヴァリウスをはじめとする「銘器」の市場価格は下がるどころか、高騰しつづけていったと著者は指摘しています。
 考えてみれば、不思議な話ではありますよね。
「聴衆が『わかる』かどうかは、問題ではない」ということなのだろうか。


 著者は、こう述べています。

 だが私に言わせれば、ヴァイオリンという楽器の弾き比べをして性能を競わせ、判定するという行為が無意味である。
 何故なら、一つの楽器を自分の音楽的意志と一体化されるという作業には、厖大な年月と、弾き手の努力が必要だからである。
 例えば、パリ在住の国際的名手の体験談――この方は若い頃、ストラディヴァリウスを使用して数々の国際コンクールに入賞してきたのであるが、22歳のときグァルネリ・デル・ジェスに出逢い、「自分の表現したいことが弾ける楽器だ」と、漠然とであるがポジティヴな気持ちを抱く。しかしそれから7年間、楽器との格闘が続いて、挑戦したコンクールはすべて予選落ちの悲運を味わった。楽器が奏者の意志に反応しないのではなく、後日自覚したことなのであるが、反応の速度と度合いが並外れていたからであった。そのヴァイオリニストのロシア人の恩師は「F1の車みたいだ」と評したらしいが、並のテクニックでは、楽器自体の持っている音楽的表現力をコントロールできない。一時「手放そうか」と考えたことすらあったという。
 しかし30歳を過ぎてから、この人は演奏のテクニックを一からやり直した。体調や精神状態までストレートに、しかも拡大してまで表現してしまう楽器に向かい合うためには、弾き手の側の姿勢から変える必要があった。
 そして、結果は大成功――このヴァイオリニストはいま、栄光への道をひた走りに走っている。「楽器との付合いは最低五年単位」と、この人は言う。


 素人がF1の車をまともに運転できないように、F1ドライバーでもテスト走行を重ねていくように、いくらポテンシャルが高い楽器でも、それを弾きこなすには、それなりの技術と慣れが必要、ということなのでしょうか。

 この本のなかで、著者は、ヴァイオリンという楽器の成り立ちやストラディヴァリとグァルネリの人生、彼らがつくった伝説的なヴァイオリンの物語を紹介しています。
 ストラディヴァリのなかで、もっとも有名なもののひとつに「メシア」と呼ばれる1716年製のヴァイオリンがあるそうです。

 この楽器は、毛織物商となった息子の一人・パオロが1755年にコレクターとして有名なコツィオ・ディ・サラブーエ伯爵(1755~1840)に売り、彼からタリシオの手に渡った。タリシオは独り身で、孤独なヴァイオリン蒐集と取引き一筋の生涯を送ったが、死後、フランスの楽器製作者ジャン・バプティスト・ヴィヨームが、鉄のベルトを二本かけて厳重に保存されていた全く無傷の、出来たてのようなストラディヴァリウスを発見、遺族から買い受けてパリの店に持ち帰った。
 この楽器は、最終的には英国・ロンドンの有力楽器商・ヒル商会の手を経て、オックスフォード大学のアシュモリアン博物館に寄贈され、国宝のように大切に保存されている。《メシア》の芸術的作品としての価値については、弦楽器の専門家筋の誰からも異論は出ていないが、音色、音量、音楽表現力については、ステージで演奏されたことがないので、諸説が乱れとんでいる。


 誰も実際の音を聴いたことがない(もちろん、ストラディヴァリウス本人は試し弾きくらいはしたはずですが)楽器が、「至宝」として大切にされており、おそらく、今後も弾かれることはない。
 どんな素晴らしい実際の音も、人間の期待や想像力を上回ることは難しいのかもしれません。
 弾かれない楽器だからこそ、「至高の存在」でありうる。
 

 僕は、ストラディヴァリウスをみんなありがたがっているけれど、現代のテクノロジーで成分分析をして、3Dプリンターを駆使すれば、同じようなものが作れるんじゃないの?と思っていました。
 ところが、著者は、ストラディヴァリウスを「再現」するのことの難しさを知り尽くしているのです。

 私の知る限りでも、自分の所有するストラディヴァリウスのレプリカを日本人の職人に依頼して作ってもらい、本物を休ませている間にその楽器でリハーサルをしておられる方が複数人いる。或るとき、依頼を受けて寸分違わない模造品を製作中の職人に仕事場で声をかけたら、「100分の1ミリ単位で、寸分違わない<私のストラディヴァリウス>を作っても、弾いてみれば赤ん坊でも違いがわかるんですよ」と、苦笑しながら手を動かしていた。
 だから、音色や音楽表現力は、楽器の寸法や形状によるものではないことは明らかである。いつかNHKのテレビで、ストラディヴァリウスの表板だったか裏板だったかの重量バランスが音色の秘密だみたいな番組を放映していたが、その方法によって銘器が誕生し、一流の名手がその楽器を愛用しているなどという話は聞いたことがない。もしかしたら銘器の要素の一つかもしれないが、ストラディヴァリウスの秘密とは、そんな単純なものではないだろう。


 知れば知るほど、「なぜ、そんなに違う(とされている)のか?」という謎は深まるばかりです。
 比較対象実験してみれば、(GACKTさん以外の)ほとんどの聴衆は、聴き分けられないんですよ。
 にもかかわらず、演奏する側も、聴く側も、みんな「音が違う」と信じていて、すごい値段で取引されている。
 

 僕のような基礎知識に乏しい人間でも興味深く読める新書でした。
 僕が生きているうちに、ストラディヴァリウスの完全コピー品ができるのだろうか?
 それとも、成分や構造が完璧に同じものでも、それはやっぱり「ストラディヴァリウスではない」のかな……

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